21. 自覚
レンは悪夢を見ていた。
真っ黒などろどろとした渦の中に、体がずぶずぶと埋まっていく。
必死に逃げようともがくけれども、どんどん体が沈み、ついにとぷんと頭が埋まってしまう。こぽり、と息の泡が吐き出され、鼻と口に臭い泥が流れ込んできた。
「助けて……」
腕はどろりとした泥に囚われ、上がらない。それでも必死に手を伸ばす。
「死にたくない……! 死にたくない! リンに会うまでは!」
会って、召使の役目を果たせなかったこと、素晴らしい晴れ舞台を見ることが出来なかったことを謝らなくては。
意識だけが泥の中で必死にもがいていた。
「どうして、こんなに体が動かないんだ……」
やっとのことで、手が肩の高さまで上がった。意識は泥の中に沈んでいこうとする。
「助けて……だれか! 僕はリンに会わなくちゃ! どうしても、会わなきゃいけないんだ!」
そのとき、手のひらに何かが触れた。レンは藁にもすがる思いで、触れたそれを掴んだ。
「誰かの、手?!」
レンが触れた瞬間、その手がなんとレンの手のひらを手首ごと掴み返した。
「うそ!」
さらにぐっと力強く引っ張られ、レンは泥の中から引っ張りあげられた。
「何ッ……」
泥が押しのけられ、まぶしい光が目に飛び込んできた。
その光の中に、リンがいた。しっかりと、レンの手を握っていた。
リンだ。
レンの意識は真っ先に彼女を知覚した。
「リンだ! 生きて、会えた……!」
同時に、自分が何をしたかを思い出した。身勝手に浮かれ、大事な時に倒れ、勝手にいじけ、街に飛び出して挙句大怪我を負い、さらに迷惑をかけた。
ごめんなさい。俺は、側仕え失格です。どんな罰でも受ける所存です……
真っ先にそう告げるつもりだった。意識だけが、正確に謝罪の言葉をなぞった。しかし口を開いたその瞬間、爆裂的な痛みがレンを襲った。
「いっ…………」
「レン! レン! 大丈夫?!」
「リンさま! そのまましっかりレンさんの手を握っていてくださいね!」
目の前にリンがいる。レンの見知らぬ中年の男もいる。薬師のボルカだ。リンはレンの手を握り締め、泣きそうな声でレンを案じている。
レンは口を開く。しかし、何か言おうとするものの、腹部の痛みが声を発することを許さない。レンは体を起こそうとした。その瞬間、強烈な痛みがレンの意識を瞬間的に吹き飛ばした。
「リンさま押さえて!」
薬師とリンが二人がかりで、のた打ち回りかけたレンの体を寝台に押さえつけた。
「リン殿! ボルカ殿!」
部屋の扉が開き、髪を乱したガクがいつもの白の上衣を引っ掛けて飛びこんできた。
「ガク! 早く来て! レンの目が覚めたわ!」
「ボルカ殿!」
「机の上に調合は出来とる! 麻酔が切れたときの痛み止めだ! こっちは押さえているから、持ってきて坊主にゆっくり飲ませてくれ!」
ガクは机の上に目を走らせ、レンの腕を、体全体を乗せるように必死で押さえつけているリンの肩を掴んだ。
「リン殿、代わろう。リン殿は薬を持ってきてくれ」
ガクの力強い腕がリンに代わって暴れるレンをぴたりと押さえつける。リンは言われるがままにうなずき、机の上の椀を手に取った。
水薬が、椀の半分ほどに満たされていた。
「そこに清潔な布が重ねてあるでしょう! その一枚に薬を浸して、レンにかませるんです!」
ボルカの顔は真っ赤だ。暴れるレンの力が思った以上に強いようだ。
リンは布の端を丸めて薬に浸し、ガクとボルカの間に割り入るようにレンに向き合った。
「レン……」
レンのかみ締められた口から、息が鋭く漏れてくる。
「……痛い……痛い……痛い……!」
そばに寄らねば分からぬほどのかすかなうめきが鼓膜を刺し、リンの心はねじり上げられるように痛んだ。
「レン……」
そっと、布を口に当てる。
「押し込んで!」
ボルカの声に弾かれたようにリンは薬に浸した布をレンの口に突っ込んだ。
「うああああっ!」
悲鳴を上げたのはリンのほうだ。痛みにのた打ち回るレンの歯が、リンの手を布ごと噛み込んだのだ。
「リンさま!」
「大丈夫!」
叫び返したリンの目から、大粒の涙がぼろぼろ溢れる。歯が、さらに深くリンの手に食い込んだ。
「うぁッ!……あっ……!」
それでも、彼女はレンの口から手を抜くことはしなかった。震えるもう片方の手で、薬の椀を受け取り、ゆっくりと傾ける。薬はリンの手を伝い、噛みこまれている布に浸みこみ、そしてレンの口に、じわりと吸い込まれていった。薬の冷たさとレンの口の中の熱さを、リンはその手に感じていた。彼女の頬に伝う涙が、彼女の服の襟元を、ゆっくりと濡らしていく。
「レン……!」
「痛い、痛い、いた……」
長い時間が経ったと思われたころ、レンの目がとろりと曇った。リンの手からその口がするりと抜けた。やや高く上げた枕が力なく落とされたレンの頭を受け止める。
ほぅ、と、息をつく音は、リンの両側から聞こえた。リンは、ただただ目を見開いて、レンを見ていた。
「眠ったの……」
「ええ」
薬師のボルカが答えた。
「催眠作用のある、痛み止めです。少々厄介な薬ですから、使える限度としてはあと三回程度ですな。……その後は、レンさんには、がんばって痛みに耐えてもらうことになりますが」
リンは、思い出したように手のひらを見つめた。レンの歯が、皮膚を食い破って血がにじんでいた。
「レン……」
「リン殿」
ガクが、ぽん、とリンの肩を叩いた。
「よく、耐えてくださった。……こちらで、手当てを致そう」
リンの手が、ぎゅっと握り締められた。薬と血のにじんだ布が、その手に握り締められる。
「レン、生きてた……」
静かに、頬を安堵の涙が濡らし始めた。ボルカがレンの脈を診ながら、ふと気がついたように窓を見上げた。
「今日も……よい天気ですな」
太陽が、高く上っていた。
その声音に、レンの状態が峠を越したことを知り、リンはさらに涙を溢れさせた。
レンの意識は、再びゆっくりと沈み始めたが、今度は泥の中ではなかった。
それは、喩えるなら、明るい青の国の海のようだった。遠浅の海岸にゆっくりと横たわるように、レンの意識は光の中へ溶けてゆく。
「ごめん、リン……どうしようもなかったけれども……今度は怪我までさせて……」
膨大に重なった自分の罪を、せめてひとことだけでも謝りたいと口を開こうとした。レンが感じたのは、今度は泥の感触ではなく、かすかな塩味だった。
「海の、味……」
まるでそれは、リンが許してくれたような合図のようだとレンは思った。おだやかに息を吸い込むと、潮の香りがした。遠くに、ゆったりと打ち寄せる波の音が聞こえてきた。
* *
ひとり宿に戻っていたメイコが、昼過ぎにリンたちの元へやってきた。最上級の宿を用意して招待してくれた青の国の面子をつぶさないよう、メイコは一人宿に戻り事情を説明し、そして今後に残っている一週間の視察の予定の検討のために、青の国の担当官と打ち合わせをしてきたのだ。
「メイコ! どうだった!」
リンがすぐさま飛びついてくる。王女として、公務として青の国を訪れている自覚は失っていない。怪我に倒れたレンのそばに付き添いたいのは山々だが、王女として青の国からすぐれた何かを持ち帰ることも王女のつとめなのだ。
子供のような第一声に、言葉を繕う余裕もなくなっているのだなとメイコは苦笑した。
「万事上手くいきましたよ、王女さま」
にこりと笑ったメイコは、リンの目の前に書類を広げて見せた。
「これが、今回変更した視察内容です。もともと現地で状況を見て決める予定でしたからね、わりとすんなり通りましたよ」
リンが書類を受け取り、目を走らせる。その目が、だんだんと大きく見開かれていった。
「一日目、民間の医療事情を視察。二日目、専門家の講義を受ける。三日目、患者との実地対応を見学、四日目、青の国独自の薬の流通ルートについて講義を受ける……」
思わず顔を上げたリンに、メイコはふっと笑った。
「五日目、港や薬草園など流通現場見学、六日目、現場見学続きと報告会、最終日の七日目に青の国に挨拶をして終了です! どうです、上手いものでしょう?」
「メイコ!」
リンが突然メイコに抱きついた。とっさに受け止めたメイコが、一歩後ろへよろめく。
「どうしたんですか。まるで……昔のように」
リンの顔が、メイコの胸元に埋められる。
「ううん……ありがとう。本当に……ありがとう」
涙で湿るリンの声がメイコの胸に響く。
「いいんですよ。……私も、今回、ガク先生やボルカ先生や、ルカを見て思ったの。彼らは、突然の手術に動じなかった。
私が商人だったころ、世界中を回っていたけれども人間の腹を開ける治療など聞いたことすらなかったわ。でも、今の青の国では、街医者でも、手術の道具を持っている。一介の薬師でも、その方法を知っている。
……農業は、気候の違う青の国の技を、黄の国で生かすことは難しい。工芸や商業、軍事は当たり前ながら極秘。ならば、黄の国として学ぶところは……黄の国ではまだ知られていない、医療の技にあると思いません?」
ぱっとリンの顔が輝いた。
「すごいわ! メイコ! 」
「ざっと、こんなもんです。元商人の私の使い道としてはね」
こともなげに告げるメイコだが、その目のふちは黒々とした隈に縁取られている。昨夜から今朝まで、彼女が懸命に青の国との調整に奔走したことが明らかに見て取れた。
「ホルストにも、黄の国きってのうるさ型親父にも文句は言わせませんからね、安心してください。なんせ、彼がリン様の護衛としてつけた男は、医師のガク先生ですからね。案外彼こそ、狙っていたのではないかしら?」
リンはメイコの胸にこつんと頭を預けた。
「ありがとう。……あたしには、やっぱりレンしかいないから。 昔も今も、本当にレンしかいないから……」
メイコの手が、リンの髪に触れた。優しい手のひらがそっと撫でていく。リンは枯れたと思った涙がまだ零れるのを不思議に思った。
泣きじゃくる少女の声が、だんだんと大きくなっていく。
波のようにしゃくりあげて打ち寄せる声は、このときばかりは王女ではなく、きょうだいを案じる少女のものだった。
……続く。
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