こんこんと何かを叩く音が聞こえて、古びたソファの上で本を読んでいた獣は顔を上げた。何の音だろうか。と獣が首をかしげながら周囲を見回していると、再びこんこんと、強く急くようなノックが響いてきた。
音のした方、窓の外。獣がそちらに視線をやると、背の高い男がいた。
塔の最上階にあるこの部屋の窓を外から叩くには、この塔の外壁をよじ登ってこないといけない。窓の外には手摺のない小さな露台があるから、そこに男は立っているのだろう。獣がその男を見つめていると、男は人懐こい笑みを浮かべて手を振ってきた。
その、まるで陽だまりのように明るく温かな笑顔。
背は伸びて体格もしっかりとしていて、顔つきも大人のもので。けれど、変わりのないその笑顔。
男は窓の鍵がかかっていない事に気がついたようで、そのままがちゃりと窓を開き、ひらりと塔の中に入ってきた。
「ただいま。」
そう言う声は低く、記憶のものよりも落ち付いていた。
「あんた、変わらないなぁ。俺の方がでかくなった。」
そう獣を見下ろして、にししと嬉しそうに笑うその頬の辺りは直線的で、記憶の中の柔らかな丸さはどこにもない。
「なにか言ってよ。久しぶりに会ったんだから愛想良くしてくれよ。」
そう言って手を伸ばして獣に躊躇なく触れてきた指先はごつごつと大きくて。服の袖から覗いた腕は記憶のものよりもたくましく。
けれど、触れた手は変わらず温かくて吃驚した。
「うわ、あんた変わらず冷たいのな。」
昔と変わらず吃驚したようにそう声を上げた男に、何で戻ってきた。と獣は問い掛けた。
「戻ってくるって言ったじゃないか。」
「私は戻って来て欲しくなかった。」
ぱん、とその温かな手を払いのけて、獣は呻くように言った。
「おまえが帰ってくるなんて信じていなかった。待ってなどいなかった。こんな、図体ばかり大きくなった奴なんか、邪魔だ。」
堪え切れずに俯いてそう吐き捨てていく獣の小さな手に、大きく温かな手のひらが重なった。
約束は守られてしまった。
払いのけても投げ捨てても、この手のひらは拾い上げて追いかけて、触れてくる。掴んでくるから。信じていないはずだったのに。信じてはいけないはずだったのに。
なんでこんなにも。
「ずっと、ここに居てもいいか?」
そう大人になったアヤが問い掛けてきた。ずるいと思った。否と首を横に振っても絶対にここに居るじゃないか。
「ずっと、なんて。人に、えいえん、なんか無いだろう。」
俯いたまま小さな声で獣はそう言った。それでも。とアヤは力強く返事をした。
「それでも、ここにいる。」
その根拠はどこにある。と獣は思った。会話が噛み合っていないと嗤ってやろうかと思った。ちゃんと言った事を理解しろと罵倒したかった。
「私は、お前など必要じゃない。お前なんかと一緒にいたくない。はっきり言って迷惑だ。」
ぐい、と顔をあげて獣は強く睨みつけるようにアヤを見上げた。
記憶の中では見下ろしていた筈の、今では獣よりも頭一つ分ほど上にあるアヤの顔が、子供のころと同じように無邪気に笑った。
「それで、いいよ。」
それでもおれは、ずっとここにいるから。
掴まれたままの手は、アヤのぬくもりで、少しだけ温かくなったような気がした。
けれど、獣はそのぬくもりからそっと目をそらした。
―ほんとうに欲しいものに手を伸ばす事はできませんでした。それは、私が獣になる事を選んだ時から許されない事でした。手を伸ばしてしまったら、今までの自分を否定することになってしまうから。
自分が他人を必要とするなんて、許されない。
獣であることを、知恵を欲する事を望んだ時に、私は孤独を選んだはずなのです。ここでアヤに手を伸ばしてしまっては、今までの自分を否定することになってしまうのです。知恵を選んだ自分を、人でなく獣を選んだ自分を否定できませんでした。
そうやって下手なプライドをかざして身を守っているくせに、手を伸ばせばまだつかむ事ができる場所に、それを置いていたのです。
消さない痕跡も閉めない鍵も解かない文字も。
全部全部、ほんとうは欲しいものを示していたのに。それでも、私はプライドと言うこの城を守るために、何もかも信じるわけにはいかなかったのです。
アヤが言葉の通り戻って来ても、それは許されないままでした。
私のプライドは、私が孤独である事を望みました。
嘘です。孤独を選んだのは、ただ傷つきたくなかったからです。
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