3.楽器屋と猫
曲が完成した翌日、私はマスターの調律の仕事に同行しました。向かった先は隣町に住む、昔からのマスターの友人だという楽器屋さんの家です。お店には売り物のピアノは一つもなくて、おじいさんや、その前の世代からずっと大事にされている、お友達が個人で所有している自宅のピアノの調律をするのだとマスターは教えてくれました。
見えない目でキーボードを器用にあやつり、マスターがパソコンの画面に打ち出す文字が彼の「言葉」です。でもマスターはその方法を好んで使おうとはしませんでした。もともと口数が少ないのか、単に面倒くさがりなのかもしれません。
「私も一緒に行っていい?」
そう尋ねた私に彼は「いいよ」というたった三文字を打つ労力さえ惜しんで、黙然とうなずいただけだったからです。
仕事にはマスターの右腕とも言える存在であり、また彼の目でもあるカイトが当然ながら同行しました。道を歩く時も電車に乗る時も常に彼が先頭を歩き、マスターはその一歩あとをカイトの動きに集中しながら、彼と同じ歩調で足を進めます。歩き方まで二人はそっくりでした。私は彼らの少し後ろからついていきましたが、とても同じように歩けていた自信はありません。
「君がミクか。はじめまして、僕は君のマスターの古い友達だ。知り合ってもう二十年以上になるかな。同じ学校に通っていたんだよ。好きになった人も同じなんだ。ふられたのは僕だけだったけどね」
マスターとのあいさつもそこそこに、大きな声でそんな風に私に声をかけた楽器屋さんは、とても陽気で気さくな人でした。でもマスターよりもずっとおじいさんに見えるので、彼は年齢に合った年の取り方をしているようです。
楽器屋さんは私たちのために玄関の扉を開いて中へ招き入れる間も、よく通る声でしゃべり続けました。
「君も久しぶりだな、カイト。この前調律に来てもらった時ちょうど僕は仕事で、家内に任せてしまったからな。それとも酒の飲みすぎで寝こんでいた時だったかな? まあ、どちらでもあまり大差はないか。仕事も酒も好きだが、すぎると体に悪い――マスターとうまくやっているようだね。しかし君たちはちっとも変わらないな。二人ともロボットかと思ってしまうよ」
そんな具合で彼のおしゃべりはマスターが仕事を始めるまで、ひっきりなしに続いたのでした。
しかし、マスターもカイトもうんざりした様子はありません。もちろん私も軽快なダンス曲でも聞いているような気持ちで、このおしゃべりな楽器屋さんが好きになりました。
家の中も彼の人柄が表れたように明るく、広々として開放的な雰囲気があります。マスターの家と同じ様式なので空調設備がなくても快適なほど通気性が良いのは同じですが、郊外に建っているマスターの家と違ってこちらは街中にあるせいか、それとも別の理由からか、この家ではひんやりとした空気ではなく温かな風が吹いているようでした。
中庭に並んだ観葉植物が大きな緑の葉をゆらしながら、夏の終わりの鋭い日差しをさえぎっています。その下に落ちる影は黒々として、まるで地面にあいた穴かインクのしみのように見えました。
そんな物珍しくもない光景一つとっても、好きな歌の一小節でも口ずさみたくなるような家なのです。
そうして私が中庭をながめたり、楽器屋さんが持っている楽器を見せてもらったりしているうちに、マスターの仕事は何の問題もなく無事に終わりました。マスターの横で助手をしていたカイトも満足そうです。
「うん、やっぱりお前にみてもらうと調子がいいな。まるで風邪引きでガラガラ声だったのがすっかり治ったみたいに綺麗な音がするんだ。調律できる人も少ないから助かるよ」
楽器屋さんが親しげにそう言うと、マスターもにやりと笑って手をふってみせました。
そんなマスターに彼はさらに言葉を続けます。
「お前自身もまだピアノを弾いているんだろう? また聞かせてくれよ。眠らせておくには惜しい音なんだから」
「私もマスターのピアノの音、好きだよ」
思わずそう口をはさむと、楽器屋さんは一瞬驚いた顔をしたあと、嬉しそうに「そうか」と私に笑いかけてくれました。
「そのうち知り合いの音楽家を集めて、演奏会でも開くべきだな」
そう言って私たちを玄関まで先導しながらも彼の話は途切れることがありません。
「そうそう、この前はピアニストと知り合いになったんだが、お前のことを話したらぜひ来てほしいと言っていたよ。そのうち僕のところに連絡があるはずだから、そうしたらいつもみたいに音声メッセージを送っておく。適当な時に都合のいい日時を僕宛に知らせてくれればいい。向こうへは僕が伝えるから。それじゃよろしく頼むよ」
最後はそんな言葉に見送られて、私たちは彼の家をあとにしました。
その帰り道のこと――。
「マスター、今何か言った?」
私が立ち止まってそう尋ねると、隣を歩いていたマスターも少し遅れて足を止め、私の方をふり向いて頭を一方に傾けると、静かに首を横にふりました。
寝る時以外ずっとミラーシェードをかけているマスターの表情は、夕方の薄暗さもあってまったく判りませんでしたが、彼の仕種から不思議そうな顔をしているだろうことは容易に想像がつきます。
「そうだよね。でもおかしいな、誰かに呼ばれたような気がしたんだけど」
機械の体を持つ私が空耳というのは何だかおかしな気がしましたがどうにも気になって、私は音の発生源を探してあたりを見回しました。
一番前を歩いていたカイトも引き返してきて、マスターと同じ角度で首をかしげたままこちらを怪訝(けげん)そうに見ています。
「みゃー……」
糸のようにか細い声を耳にして、私は通りすぎようとしていた街灯の足下に目を向けました。
人工の明かりに照らされて白く光っている舗装された地面の上には私とマスターとカイト、そして街灯自身の黒く長い影が伸びています。それらが全部重なった暗い暗い闇の三角州の中に、ぴんととがった二つの耳と、針金のような長いしっぽがありました。
「猫……」
私がそう言ってかがみこみ、手を差し出してもその猫は逃げ出すそぶりを見せず、じっとこちらを見上げてきます。ひどい暑さの続く夏だというのに体を震わせていました。まだ子供で、手も足もがりがりにやせこけ、毛皮もずいぶん汚れています。きっと逃げるつもりがあったとしても、逃げる元気や力などないに違いありません。
それくらいその子猫は弱っているように見えました。
「マスター」
猫を両手でやんわりとつかんで立ち上がった私は、そばに近づいてきたマスターに、
「この子、片目がつぶれてる」
と言いました。けがでもしたのでしょうか。傷が膿(う)んで片方の目は完全に見えなくなっています。
ぴたりと足を止めたマスターは、私の方へ手を差し出しました。
私はそのマスターの手ごと包みこむようにして猫を預け、
「マスター」
もう一度そう呼んで、この子を家におくことはできないかと訊きました。
「こんなところに放っておいたら、きっとすぐに死んじゃう」
生き物はみんないつかは死んでしまうけれど、私は今このままこの猫を死なせたくはないと思ったのです。
きっと目が痛くてぐっすり眠れたことなんてないだろうし、おそらくろくにおいしいものだって食べたことがないでしょう。私には「おいしい」という感覚が判らないけれど。
「マスター、お願いします」
クロームカラーのミラーシェードに隠れて見えないマスターの目を見上げ、私はロボットが出せる最大限の真剣な口調でそう言いました。
すると、マスターは一つうなずいて私の頭の方へ手をのばしてきます。それが髪に触れると、マスターは私の居場所が判ったらしく頭をなでてくれました。
「ありがとう、マスター」
私が笑ってお礼を言うと、マスターも少しだけ口の端を上げて笑います。
彼の大きな手の中で震えている子猫に残されたたった一つの目は、そんな私たちをやはりほほえみながら黙って見守っているカイトの青い目によく似ていました。
私がマスターの家に来てちょうど一週間と一日。
このカイトというロボットについて私が知ったことは名前くらいのものです。私は彼が自分と同じVOCALOIDであることさえ、この時はまだ知らなかったのでした。
4.KAITO
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【小説】リトル・オーガスタの箱庭(3)
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