日曜日、わたしはクオと居間でゲームをしていた。例によって、音楽ゲームで対戦中。受験生だけど、たまには息抜きも必要だもんね。
「くそっ、また負けた」
クオがそう叫んで、コントローラーを投げた。……ふふん、連勝記録更新っと。
「そろそろ音ゲーやめて別のゲームにしようぜ」
「じゃあ、ダンスゲームを……」
「大して変わらないだろそれ」
え~、だって、格闘ゲームとかシューティングゲームとかは、あんまり興味がないんだもの。
そんな時、クオの携帯が鳴り出した。クオが携帯を取り出して確認している。
「ミク、ちょっと待っててくれ」
そう言って、クオは携帯に出た。……あんまり長くならないといいけど。
「もしもし、俺だ。……どこって、家だよ。ミク? いるぜ。今一緒にゲームしてたんだ」
電話をかけてきた人は、わたしの所在を確認している。……誰からかしら?
「……大事な話? お前がミクに? あれ? っていうかレン、お前、今日、巡音さんとデートじゃなかったのか?」
え? かけてきたの、鏡音君なの? 変ねえ……クオも言ってるけど、鏡音君は今日はリンちゃんとデートのはずだ。リンちゃん、一緒に美術展見に行くって、嬉しそうだったもの。
「電話、鏡音君からなの?」
わたしは、通話を終えたクオにそう訊いてみた。クオが頷く。
「そうだよ。お前に大事な話があるから、今からこっちに来るって」
「わたしに?」
鏡音君がわたしに、何の話があるんだろう? それに、リンちゃんは? リンちゃんは一緒なの?
「そう言ってた。もしかして、巡音さんと喧嘩でもしたのかもな」
喧嘩……想像しにくいけど、そういうことなのかしら。もしそれなら、わたしに話があるというのも、わかるけど……。
わたしの胸の中に、不安が広がって行った。
しばらくしてやってきた鏡音君は、顔を盛大に腫らしていた。クオもわたしもびっくりする。わたしはとりあえず、鏡音君に居間の椅子に座ってもらうと、お手伝いさんに、氷と救急箱を持ってきてもらった。
氷が来ると、鏡音君は、それで腫れたところを冷やしながら、ここに来たわけを話し始めた。
「今日、リンとデートしに行ったら、何故か待ち合わせ場所にリンのお父さんが来たんだ」
え……? リンちゃんのお父さんが……? そんな、そんなことって……!
自分の顔から血の気が引く音が、聞こえたような気がした。鏡がないからわからないけど、わたしはきっと、ものすごく青ざめていたと思う。
「そんな……じゃあ、鏡音君、もしかしてそれ……」
「リンのお父さんにやられた」
淡々と答える鏡音君。……間違いない。リンちゃんのお父さんが、鏡音君を殴ったんだ。前からおかしい人だとは思っていたけど、そこまでするなんて……。
「……リンちゃんは?」
「無理矢理連れて行かれた。多分、自宅だと思うけど」
リンちゃんのお父さんのことだから、今頃リンちゃんをねちねちと苛めているだろう。わたしは、目の前が真っ暗になるかと思った。折角、リンちゃんがまた笑ってくれるようになってきたのに……あのお父さんのせいで、全部ぶち壊しだ。なんであんな人が、世の中に存在していられるの?
「何がどうなっているんだ?」
わたしが呆然としていると、クオが訊いてきた。クオには、リンちゃんの家の事情は話していない。だって、軽い気持ちで話していいことじゃないもの。
「初音さん、クオにはリンの家のことは」
「……話してないわ」
鏡音君は知ってるのね。きっとリンちゃんから聞いたんだわ。
「おいお前ら、自分たちだけで納得してないで、ちゃんと説明しろ」
クオがそう詰め寄ってきた。えーと、でも……。クオに話すのは……。
「なあクオ、悪いけど……」
「外してくれなんて言ったらぶっとばす」
言いかけた鏡音君を、クオはきっぱりと遮った。
「わかった、説明する。でも他の奴には話すなよ」
わたしが悩んでいる間に、鏡音君の方が話すと決めてしまった。
「リンのお父さん、なんていうかものすごく厳しいんだよ。だからリンは漫画もアニメも見せてもらえないし、ゲーセンとかカラオケとか、普通の高校生が遊んでるような場所も全部出入り禁止なんだ」
クオが目を見開いている。わたしは、リンちゃんのことを思って、ちょっと悲しくなった。
「で、それだけ厳しい父親だから、当然交友関係もそうで、異性と関わるのは禁止。彼氏を作るなんてもっての他。だから俺たち、リンの親には隠れてつきあってたんだよ」
クオはしばらくびっくりして言葉が出て来なかったけど、不意にこっちを怒りの表情で見た。
「おいミク、お前、何考えてんだ」
「……え?」
クオに詰め寄られて、わたしはそんな声をあげてしまった。何考えてたって……。
「巡音さんのことだよ。彼氏作るのは禁止されてるって、知ってたんだろ? だったらなんであんな真似したんだ?」
なんでって……。
「お前のせいだぞ、レンが殴られたのは!」
クオは、すごい声で怒鳴った。わたし、別に、鏡音君をひどい目にあわせようと思ってたわけじゃない。ただ……リンちゃんにまた笑ってほしかっただけ。なのに、なんでこうなってしまったの? わたしは、その場で顔を覆って泣き崩れた。
「ミク、泣いてないでなんか言え!」
クオが怒鳴る。わたしは叫び返した。
「だって……だって……耐えられなかったんだもの! リンちゃんがどんどん、萎れた花みたいになっていくの!」
テーブルの上のティッシュケースから、ティッシュを一枚抜いて目を拭う。クオは、昔のリンちゃんを知らない。
「クオ、前にリンちゃんのこと、暗いって言ったわよね?」
「確かに言ったが……それが何だ?」
「……わたしが知り合ったばかりの頃のリンちゃんは、あんなじゃなかったの。明るくていつもにこにこしてて、すごく人懐っこかった。当時のわたしは人見知りがひどくて、でも、リンちゃんと仲良くなったら、人前に出るのも気にならなくなった」
幼稚園時代。あの頃は、リンちゃんのお父さんも、まだリンちゃんのことを放っておいてくれていた。リンちゃんと仲良くなったわたしは、いつもリンちゃんと一緒に遊んでいた。……うちの庭に、二人だけの秘密の隠れ家を作ったりして。
「でも、小学校に入った辺りから、リンちゃん、笑わなくなっていったの。……多分、お父さんが厳しすぎたせいだと思う。リンちゃんのお父さん、わたしがリンちゃんに漫画を貸しただけで、わたしの家に苦情の電話をかけたりしたし」
どこの家庭も同じものだと、無意識に思い込んでいたわたし。まさか漫画を読むことを許してもらえない家があるなんて、思ってもみなかった。
「初音さん、リンはその時のこと、すごく気にしてたけど……」
リンちゃん、あの時の話、鏡音君にしたんだ。多分、鏡音君が初めてのはず。あの話をリンちゃんの口から聞いたのは。
「リンちゃんが気にする必要なんてなかったのよ。だって、わたしのお父さん、リンちゃんのお父さんの応対を全部自分一人でやって、当時のわたしに何も言わなかったもの。ただ『漫画を貸してあげたのは、リンちゃんを喜ばせたかったからだろう? 友達を喜ばせてあげたいって思う、ミクのそんなところがお父さんは大好きだよ。ただ、向こうのおうちには向こうのルールがあるから、漫画は家の中だけで見せてあげなさい』って言っただけで。でも、リンちゃん、あれ以来、わたしがどんなに薦めても、漫画に触ろうとしなかったわ」
触っただけで、お父さんに怒鳴られたことを思い出すみたいだった。
「小学校二年生の春休みに、リンちゃんがすごく暗い顔してたの。聞いたら、リンちゃんのお父さんが、リンちゃんの大事にしていたぬいぐるみや絵本を全部捨ててしまったんだって。わたしの部屋のぬいぐるみ、羨ましそうにずっと見てた」
一つあげようかって言ったら、首を横に振った。連れて帰ったら、怒られるって……。
「それからリンちゃんは年々元気が無くなって、いつもお父さんの目ばかり気にするようになっていったの。お父さんが怒鳴ってばかりいるから、ちょっとでも誰かが声を荒げるとびくついて怯えて。高校生になった頃には、リンちゃんはほとんど無表情になってた。わたし、リンちゃんに前みたいに笑ってほしかったの。でも、何やっても上手くいかなかった。きっと……わたしじゃ力が足りなかったのよ」
その時、思い出した。お母さんが、わたしに言ってくれたこと。恋にはすごいパワーがある、人を変えてしまうパワーが。リンちゃんも恋をしたら、もっと元気になるんじゃないかって、思った。でも、共学の学校で、クラスにそれなりに男の子はいるのに、リンちゃんは、ろくに話せなかった。わたしの従弟のクオですら、前にすると萎縮してしまっていた。
「……鏡音君がリンちゃんと話をしているのを見た時、予感がしたの。鏡音君なら、リンちゃんのこと、前みたいに笑顔にできるんじゃないかって。リンちゃんが男の子と話をするなんて、なかったから。わたし、とにかく、リンちゃんに元気になってほしかった」
そして、その予感は当たった。鏡音君と話をするようになってから、リンちゃんは変わった。前よりずっと明るくなったし、口数も増えたし、自分から何かしたいって言うようになった。わたし、リンちゃんに頼みごと持ちかけられた時、ものすごく嬉しかった。そんなこと、ずっとなかったから。
「あ……ミク、悪かった。怒鳴ったりして。お前がそこまで、友達のこと心配してたとは……」
クオが済まなそうな声で、そう言ってきた。そして、わたしの頭を軽く撫でる。撫でてくれたクオの手は、優しかった。
……緊張の糸がまた切れたわたしは、クオにしがみついて泣きじゃくった。クオが、わたしの背中を撫でてくれる。クオ、ごめん。迷惑かけて。
気が済むまで泣くと、わたしは目を拭って顔をあげた。鏡音君が、タイミングを見計らったのか声をかけてくる。
「初音さん、落ち着いた?」
「……ええ。ごめんなさい、取り乱しちゃったわ。ちょっと待ってて、顔洗ってくるから」
目の周りがヒリヒリする。それに、喉もカラカラだ。わたしは居間を出て、洗面所に向かった。冷たい水で顔を洗ってから、キッチンに向かう。お手伝いさんに、三人分のジュースを持ってきてもらうように頼むと、わたしは居間へと戻った。
また居間のソファに座ったわたしは、とりあえずジュースを飲んだ。鏡音君とクオもそうしている。
「俺は別に、初音さんに苦情を言いに来たわけじゃないんだ。ただ、リンと連絡が取れないかと思ったんだよ。とにかくリンのことが気がかりで……」
鏡音君は、今度はそんな話を始めた。あ、それで、鏡音君、わたしの家に来たんだ。わたしなら、リンちゃんと話せるかもって、思ったのね。……確かに。
「わかったわ」
わたしは携帯を取り出して、リンちゃんの携帯にかけた。コール音がしばらく鳴り響くと、留守電に切り替わる。
「やっぱり携帯には出ないわ。自宅の方にかけてみる」
きっと携帯を取り上げられたんだわ。あのお父さんだもの、それくらいやる。わたしは、リンちゃんの自宅の番号にかけることにした。こっちも登録してあるの。
しばらくすると、誰かが出た。多分お手伝いさんだろう。
「もしもし」
「もしもし、こちらは初音ミクです。リンちゃんはいますか?」
「あ……初音さんのお嬢様ですね。少々お待ちください」
保留のメロディが鳴り響く。しばらくして、また誰かが出た。
「もしもし、ミクちゃん? リンに用事なの?」
出たのは、リンちゃんのお母さんだった。当然、何度も会ったことがある。リンちゃんのお母さんは、お父さんとは正反対だ。大人しくて、口数が少ない。声を荒げたところも、見たことがない。どうしてあの二人が一緒になったのか、ものすごく謎。ついでに言うと、リンちゃんがお母さん似で、良かったと思う。
「あ、おばさん、お久しぶりです。ええ、リンちゃんに用があって携帯にかけたんですけど、電源入ってないみたいで……リンちゃんはいます?」
わたしは、普段と同じ声を出すように努めた。明るく、何気なく。そんな感じで。電話口の向こうで、リンちゃんのお母さんが息を呑んだ。
「ミクちゃん、用事って……?」
しばらくしてから、リンちゃんのお母さんはそう言った。わたしは、学校の課題で訊きたいことがあるのだと、そらっとぼける。リンちゃんのお母さんは、また通話口の向こうで黙り込んでしまった。
「あ……ミクちゃん、ごめんなさいね。リン、高熱を出して寝込んでいるのよ」
……嘘だ。リンちゃん、デートの待ち合わせ場所には来たんだもの。あのお父さんに、取り次ぐなって言われてるのね。
「え? 熱? 昨日まで元気だったのに!?」
わざと大げさにそういうわたし。リンちゃんのお母さんが、また黙り込む。
「……今朝からずっと具合が悪くて、起きられないの。そういうわけだからミクちゃん、課題については、誰か他の人に訊いてくれる? ……多分、明日は学校休むことになりそうだし」
「じゃあ、わたし、お見舞いに行きます。リンちゃんの好きなお花、持って行きますから」
そんな簡単に引き下がってたまりますか。
「ごめんなさい、リンは……えーと、そうそう、もしかしたらインフルエンザかもしれないの。伝染ったら困るから、お見舞いは控えてちょうだい」
「そうですか……わかりました。それじゃ、わたしがお大事にって言っておいたって、伝えてください。お願いしますね」
わたしは通話を切った。携帯を置く。思わず、ため息が出た。
「今の、リンのお母さん?」
「ええ。リンちゃんは熱を出して寝込んでいる、インフルエンザかもって言われたわ」
鏡音君に訊かれたので、わたしはそう答えた。
「ごめんなさい、あまり役に立てなくて」
「いや……いいよ。駄目元だったし。こっちこそ手間かけてごめん」
とはいえ、鏡音君はかなりがっかりしていた。リンちゃんと、何とかしてコンタクトを取りたかったんだろう。わたしとしても、ものすごく悔しい。あのお父さん、一体何様なの?
人を呪わば穴二つって昔から言うけど、あのお父さんだけは呪わずにはいられないわ。
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