「お前が遊里通いとは、変われば変わるもんだな」
気紛れで我が家に顔を出していた友人が、からかうように言った。
縁側に陣取って扇子を玩びながら、その目は桔梗を眺めている。私は平素通りそれに構うことなく文机に向かう。
「そんな艶めいた話でもないさ」
答えると、益々愉快そうに笑われる。くつくつと含み笑っているのを耳にする。
「ああ、知ってる。鬼の子の相手だろ。ついでに読み書きも教えてるって聞いた」
「兄のように慕われると、こちらも楽しくてな。つい足を運んでしまう」
脳裏に浮かぶのはリンのはしゃいだ笑顔。寒空の月のように美しい髪と、瑠璃のように輝く瞳。緋色の打掛に身を包む、愛らしい異国の少女。
ふと返事が途切れているのに気付き、私は顔をあげた。見ると友は半身を捻り、まじまじと私を見つめていた。
「お前、本当に変わったな」
その声は至って真面目で。むしろ感心したように言うものだから、少々面食らう。
「そうか?」
「そうだ。以前はもっと気配が張り詰めてた。真っ直ぐに前だけを睨んでた」
まるで眩しいものでも見るように目を細めて頷く。
その言わんとしているところを理解する。江戸から来たばかりの私。同じ江戸育ちの彼と、初めて顔を合わせた時に言われた言葉を思い出す。
あの頃から私は成長していない。つい先日まではそう思っていた。
「前だけ、か。そうかもしれんな」
何の所為なのか、否、誰の御蔭なのかは瞭然だった。
思いがけず微笑んでいる自分に気がついた。
目を向けた庭先で、萩の花が風に揺れる。雲が早い。
見上げた空は、少女の瞳と同じ色をしていた。
「でもなぁ、楽歩」
緩やかな沈黙の後、ふいに尋ねる声。
「あの子はお前にとって、本当に妹か?」
何処か含みのある言い方だった。
答えを出す代わりに、その横顔に問いを重ねる。彼は私の視線に気付き、ちらりと横目だけで返した。
「それは、どういう意味だ」
「言葉通りの意味さ。なぁお前、大小はちゃんと差して歩け。嫌でもな」
口元は淡く笑っていて。しかしその眼差しが、どこまでも真剣であることを私は見逃さなかった。
荒れ野に枯尾花が広がる頃。それはまた、我が家へと送られてきた。
江戸からの便り。文の末には父の名前。
これで三通目だ。最近では門の前に飛脚がやって来るだけで気勢も果てる。
馬鹿げている。妾の子だと屋敷を追い出したのは誰だったか。
悲哀。混迷。当惑。そして決意。
父に見放され、兄を失って、母を守るのは自分しかいないという意識が何物にも優っていた。あの時の悔しさを忘れることはない。
それらの上に今の私は居る。
暗闇の中に見えたのは一筋の光で、それを目指して私は歩いて来た。
ただ、これからは母と二人生きていかなければならないという意志。
全てを忘れて、新たな生き方を築き上ようと誓って一体何年経っただろう。
やっと形になりつつあったこの平穏の中、突きつけられたのは吐き気のするような真実。
曰く、『父の務めを助力すべし』。
動乱の俗世。世の中では様々な思惑が交わっていると聞く。
佐幕、倒幕。尊皇攘夷。開国。そして父の居る江戸は、言わずもがな幕府の中心だった。
所詮私は父の子でしかない。絆を断ち切ることは安易ではない。
兄弟の中で唯一『生き残った』私は、父の格好の駒なのだ。
しかしそれに言いなりになる気はなかった。
江戸に戻る気など、元から存在しない。
「私はここに居る。ここが私の場所だ」
浮世が何だ、天下泰平が何だ。畳んで懐に仕舞う。出来るものなら二度と読みたくはない。
手紙の束が重なっていく度に、腹立たしさは増すばかりだった。こればかりは、変わることはない。
「楽歩?」
名前を呼ばれて、思わず腰を浮かす。開け放した襖障子の側に母が立っていた。唯一の家族。歳を重ねても尚美しい、武家の娘らしいしなやかな物腰の女性だった。
「文が来たようですね。どうなされたのですか」
母は思案げに私の様子を窺った。その顔色に良心が痛む。私は微笑んで、何気なく顔を横に振った。
「――いえ。何もありません」
じっと、母の瞳が私を見つめる。それは疑いの色ではなく、ただ真実を選り分けるだけの曇りなき眼だった。
どうされましたかと微かに首を傾げると、母は何か心得たように息を吐いた。
「ねぇ、楽歩。お前は、それを分け合えるひとは居ますか」
「え……」
一瞬だけ、声が震える。真っ直ぐと私の心を見据える目。
私はその動揺を悟られまいと、ただその言葉を受け止める。
「母のことは構いません。ただ、貴方がひとりで抱える必要はありませんよ」
溜め息が出そうだった。
やはり母には全てお見通しなのだろう。私が父を遠ざけ、その信書を隠していることも。
もしかすると、江戸に呼ばれていることさえも。
母は強い女性だ。屋敷を追い出されたときも、兄妹が亡くなったときも、その顔に不安は見られなかった。ただ黙って父を見ていた。その眼差しにさえ揺らぎはなかった。
――得てして、女性は強いものなのかもしれない。
こうして生き悩む自分が、堪らなく小さく感じられる。
「はい。ありがとうございます」
私は心からそう答えた。
母は私を信じてくれている。その心を裏切ることだけはしたくない。
母が信じてくれる私を、私の行き方を、己が信じなくてどうするのだ。
だから、今度こそ安らかに微笑む。
心配はありません。少なくとも私は、父とは違うのだから。
例え請われても頷くつもりはない。誰かと違って、自分の罪に目を背けるようなことはしない。
そう。それが正しいと、意固地になっていた。
~肆へ続く~
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mothy_悪ノP
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ご意見・ご感想
wanita
ご意見・ご感想
はじめまして。wanitaと申します。ピアプロでは文章書いています。
「夢みることり」が好きでタグを探していたらこちらに行き着きました。
展開、楽しみにしています!
島原というあたりもツボでした。
データ紛失、へこみますよね……私も一度経験して、もう悔しくて言葉になりませんでした。
続き、いつまででも待ちますので、ぜひお願いします!
2010/04/04 00:36:26
飛色
ご意見・ご感想
>識鳥 彩月さん
おおっ!
コメントありがとうございます~
実はこの続きがあったのですが、データ紛失しちゃいまして…書く時間がなくて放置状態です;
あらたに感想も戴いたので、ちゃんと完結させたいなとは考えております。
2009/01/14 14:54:27
sai
ご意見・ご感想
なんていうか…
好きです。この小説
リンの無邪気さがなんとも
2009/01/11 22:19:25