6 7年前:5月11日
「ううー……」
「未来、どしたの? 海斗さんとケンカ?」
「いや、そーじゃなくて……」
教室で、そう言いながら未来が机に突っ伏す。
あたしの「海斗さん」という言葉を耳ざとく聞きつけた周囲の男子が、かすかにざわついた。
未来は未だに自分が美人だっていう自覚がない。海斗さんの存在が知れ渡ったあとだからざわつくのもこの程度だけれど、初めの頃はこの比じゃなかった。
未来は「なんで自分のことでこんなに皆が反応するんだろう」って思ってるみたいだけど……あたしに言わせれば、こんな美少女を放っておいて平気な顔をしていられる男子がいたら、むしろそいつはどこかおかしい。
……ともかく、あたしは未来が突っ伏している原因――机の上にある、白紙の進路希望用紙を見た。……あたしも白紙なのは言うまでもない。
「それ? 未来、大分の大学に行くとか言ってなかった?」
『……行かないでって言わないの?』
“彼女”の声に、ほほがひきつりそうになるのを、なんとかこらえる。
「うーん。この前向こうに旅行してみてさ、やっぱりちゃんと勉強しなきゃダメかなって」
「……学年五位の頭脳の持ち主がなに言ってんのかしらね」
「そーゆーことじゃなくてさ―」
机に突っ伏したまま、未来が手足をじたばたする。
……こんな子だったかなぁ?
そう思ってしまうくらいに、未来は変わった。
端的に言えば、明るくなった。
遠距離になってしまったとはいえ、海斗さんが心の支えになってるってのはあるんだろう。未来を問い詰めたところ、毎日メールをやり取りしてて、海斗さんに余裕がある時は電話もしてるそうだし。でも、それだけじゃない。この変化はむしろ、両親が未来への態度を改めたことの方が大きい。
「旅館でさ、女将さんと話す機会があったんだけど――」
「あぁ、未来のお義母様と海斗さんとの将来について話したのね」
「いやまだちが……え、ええと、もうちょっと言い方があると思うんだけど」
ジト目でにらみつけてくる未来に、あたしはそ知らぬ顔をしてとぼけた。
さっきざわついてから、あたしたち二人の会話にはクラスの皆が聞き耳をたてている。
未来は「まだ違う」と言いきってしまうのが“将来的にはそうなる予定だ”と、暗に認めているのをみんなに聞かれてしまうと気づいたんだろう。
……ここまできたら、それくらいで恥ずかしがっても仕方がないと思うんだけどなぁ。
でも、この口ぶりからするに、旅館の女将さん――海斗さんのママさん――は、少なくとも未来と打ち解けることのできそうな人だったんだろう。
対する未来の両親は……あたしには、未来を束縛してるようにしか見えなかった。
その上、未来を束縛しているということに気づいていなくて、そのせいで未来を苦しめていることにも気づいていない様子だった。
未来の両親は効率重視の人たちで、自分たちの言うことはすべて正しくて、未来がわがままを言うなんてとんでもないことだと思ってるみたいだった。
それが未来を縛りつけてて、勉強と家事以外のことはなにもできないようにさせていた。
「なんて言うか、従業員の皆さんのことを考えなきゃいけないとか、お客さんのこととか色々気にかけたり、他にも裏方の仕事がたくさんあって大変なんだろうな、とは思ってたんだけど……」
「それだけじゃなかった?」
あたしが言葉を次ぐと、未来は素直に「うん」とうなずく。
「お金のことをちゃんと考えなきゃダメなんだなって、なんか思い知らされた感じ」
「お金のこと?」
「そう。経営とか経済とか、そういうのもちゃんとわかってないといけないなって」
「あー。その単語だけで面倒臭そう」
「お金の話を聞くまでそこに頭回ってなかったし、大変だろうなとは考えてたけど、それでも甘く考えてたように見えただろうなー」
未来は、はぁー、と魂までこぼれてしまいそうなほどに重たいため息をつく。
以前なら、未来がこんなだらしない格好をすることなんてなかった。
背筋をピンと伸ばしたまま、眉根を寄せて「んー」とか言うくらいだっただろう。
それまでの学校での未来は、いわゆる“深窓の令嬢”で、品行方正で成績も優秀な優等生、というイメージだった。
それが親に強いられて形作られたイメージだったのだと知ったのは、初めて未来の家に泊まった時だ。
未来の家に――半ば押しかけるようにしてではあったけれど――初めて泊まった時、塾終わりの未来は、あたしと雑談しながらママさんが残した調理器具の洗い物をして、洗濯をして、お風呂掃除をしていた。……さすがに見てるだけなのは申し訳なくなってきて、ちょっと手伝ったけど。それから一緒にごはんを食べて、ようやくゆっくりできるかと思ったら、学校と塾の宿題しなきゃ、なんて言い出し、それを片づけてお風呂に入る頃にはもう深夜になっていた。
そんな時間になっても帰ってきていなかった未来の両親は、遅い時間に帰ってきてはいたらしく、朝にはママさんがなぜか生キャラメルを作っていた。あたしが起きた頃には、ママさんは生キャラメルを作りかけのままバタバタと出勤していった後だった。その直後の未来はぐったりとしていて、泣き出してもおかしくないんじゃないかっていう雰囲気だった。“なんでママさんは朝ご飯じゃなくて生キャラメルを作ったのか”が疑問で仕方なかったけれど、そんな状態の未来にそれを問う勇気はなかった。……なんだか追い詰められたみたいな感じの未来を、より追い詰めてしまいそうな気がしたのだ。
あたしが欲しかった……あたしが欲しがったパパとママ。その二人がいる未来は幸せなんだな、なんて、それまではなにも考えずにそう思ってた。でも、その時の未来は「幸せそう」な姿とはほど遠かった。
あたしと未来の、いったいどっちが幸せなんだろう、なんて思ってしまうほどに。
「じゃ、経済学部のある大学にするの? 大分に無いってことはないんじゃない?」
「それはそうだけど……大学のパンフを色々見てたら、自分の学びたいことはこっちの大学の方が合ってそうで」
……さすが、推薦でどこでも簡単に行けそうな子は悩みどころが違う。
「パパさんとママさんはなんて?」
「二人とも、大学のランクが高いこっちにしろって。就職先決めてるなら、大学のランクなんて関係ないのにね」
口を尖らせる未来に、苦笑してしまう。
海斗さんのママさんを「お義母様」と呼ぶのは恥ずかしいけど、「就職先決めてる」と言うのは恥ずかしくないんだろうか。
未来は案外そういうところが抜けていたりする。
『可愛いわよね』
……うっさいわよ。
『ならこっちの大学にしたらって言わないの? 向こうに行っちゃったらなかなか会えないけど、こっちなら四年は一緒なのよ』
「……」
声に歯止めがかけられず、唇を噛む。
『海斗さんに奪われるの、本当は嫌だって言えばいいのに』
うるさい!
『……』
はいはい、と笑う“彼女”の顔が想像できた。
未来と海斗さんが付き合う時に、未来の両親が障害になるのは当然だった。
未来にとって、海斗さんとの恋愛は波乱万丈の二週間だったんだろう。
両親にほとんど初めての反抗をして……制服のままで家を飛び出すなんて、そうそうできることじゃない。
ともかく、その一連の出来事がきっかけだったのか……ママさんは未来への接し方が間違っていたのだと、未来を束縛し続けていたのだとやっと理解したのだろう。
そこでようやく、未来はパパさんとママさんからのしがらみがなくなった。
また学校に来るようになってから、未来は家事が減って、塾に行く回数も減って、帰りに寄り道しても怒られなくなったそうだ。
他の家庭と比べたら、それでも厳しい方なのかもしれないけど……結果として、未来が前よりも明るくなったんだから、それでも十分だったんだと思う。
……きっと、こっちが本来の未来だったんだろうな。
余計な我慢をする必要がなくなって、素の未来が出てきたのだ。
「それはそうとさ、メグは?」
「え?」
「もー。だから、メグは親から進路のことでああしろこうしろって言われないの?」
「うーん。うちは放任主義だしねぇ」
嘘だ。
保護者である叔父さんは、あたしの意見を尊重してくれている。それに“放任”なんていう言いぐさをするのは間違ってる。
「それもそれでどうかと思うけど……でも、ちょっとうらやましいなぁ」
でも、それを未来に白状できなかった。
……いや、そんな余裕がなかった。
“彼女”のせいで燃え上がった嫉妬の黒い炎が、ちゃんとした返事をさせてくれなかった。
……言い訳だ。
“彼女”はあたしなんだから。
あたしの本心を“彼女”が吐露しただけのことなのに。
学園祭で初めて海斗さんと話した時、こんな風になるなんて思わなかった。
こんなことになるなら、話をした後で未来に「いい男だから手放しちゃダメ」なんて言うんじゃなかった。
そんなことを言わなければ、未来はまだ……。
……。
……。
やめよう。
未来が幸せになってくれるなら、きっとそれでいいはずだから。
あたしはそれで――。
『……いいわけ、ないじゃない』
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