「別れた」
玄関先で一言呟いたカイトは、俯いたまま私を抱き締めた。
眩暈を起こしそうな程、嬉しいと感じている自分の醜さに吐き気がする。
私とカイト、ミクはずっと一緒だった。
小学校、中学校。高校はミクだけ離れたけれど休日には三人で一緒に遊んだりもした。
大学に入り、カイトとミクが付き合うことになったとしても変わらない。私がカイトへの恋心さえ隠してしまえば、何ひとつ。
私は今までと同じようにふたりと笑い、遊び、感動する映画で泣いたりした。帰りの駅でふたりと別れ、ただ消えていく背中を見詰めて。
家に帰ってから思い出すのだ。
ああ、今日もカイトはかっこよかった、と。
やはり隣を歩くのがミクで良かったと。
それがただの綺麗事でしかないことは十分理解していた。胸の奥で黒く渦巻く醜い感情を見ないように、忘れるために二十歳を過ぎてからお酒を飲むようになった。
行き付けのバーで、無口なバーテンダーにぽつりぽつりと愚痴を零し、嫉妬が消えてくれないものかと悩む毎日。
バーテンダーの男はただ黙って私のためにカクテルを作り、無言で頷く。美しい容姿から女性客が店の半数以上を占めていたが、私にとって彼は愚痴を零す相手でしかない。というかそもそも彼に相手にされるだなんて思ってもいないし。
酒を飲みながらぼんやりと目の前の男を見て辿り着いた思考に、自分自身でげんなりした。
なんだこの悲劇のヒロインめいたマイナス思考は。大丈夫。私だって可愛い。振り向かないカイトが悪いのだ。
思い直してカクテルを飲み干した。
「メイコさん」
彼が声を掛けたのと、テーブルの上で携帯電話が震えたのはほぼ同時だった。正直言うなら携帯電話が後からなのだが、表示された名前に思わずバーテンダーを後回しにする。
「はい」
気持ちを落ち着かせて出たが、相手に元気はなくただ一言「家に行っても良いか」と聞かれた。
「もちろん。じゃあ…えっと、そうね。十五分後に来て」
これは美味しいお酒でも用意しなければ。
私は電話を切ると財布を取りだした。だがお金を取り出す寸前バーテンダーが押し止める。
「何?」
「次回で結構です」
「は?」
「お急ぎのようですし。メイコさんを信頼しておりますから」
バーテンダーが微笑むことなく告げ、私は一瞬迷った末財布を仕舞って店を出た。
家に帰って酒臭いのをどうにかしなければ。だが一体なんだろう、唐突に。あれか、ミクにサプライズでプレゼントを渡したいとかそういうことなのか。それとも別な、たとえば、万が一の話だけれど、私に心変わりしただとか。うん、あり得ない。
ヒールで半ば走るようにしながら、私は自宅へと戻った。いつカイトが相談に来ても良いように一応は部屋を綺麗に片付けている。が、さらに念入りにしておかねば。
私は服を着替えてから部屋を掃除し、約束の二分前に料理まで完璧に揃えた。
約束きっかりにチャイムが鳴り、私はドアスコープから覗く。青い髪が見え、私は扉を開けた。
その瞬間、カイトが私を抱き締めた。
「え…?」
「別れたんだ、ミクと」
「な、なんでまた…」
凭れかかって来るカイトを受け止めるように、私は相手の肩を掴む。
「最初はただの喧嘩だったんだ。ミクが最近…忙しそうで、浮気してるんじゃないか、って不安になって…」
「でもミクは浮気なんてしないでしょ?」
嘘だ。心のどこかでは、どうか二股でも掛けていてくれないか、だなんて。
「…もう疲れたんだ。彼女は、違いすぎる」
何が、とは聞かなかった。ミクは私やカイトとは違い令嬢だ。ミク自身はそんなこと微塵も感じさせないし、そう扱われるのが嫌だとも言っていた。
それでも彼女には出会いが多すぎる。金持ちの他の男とミクが家のことで仕方なくとはいえ、会ったりするのが嫌なのだろう。カイトも自分に自信がなさすぎる。ミクが他の男と知り合う度に不安になり、嫉妬して喧嘩して。
今まではどうにか乗り越えて来ていたではないか。
「メイコなら、俺だけを見てくれるだろう?」
囁かれるように吐きだされた言葉。私は思わずびくりと反応した。
「メイコ」
身体を離したカイトが私を見下ろす。合った視線が、気付いていたのだと語っていた。
「今までごめんね、メイコ」
ああ、望んでいた展開だ。
私はこれを待っていた。
やっと、カイトが。
頬に添えられた手のひらの熱さに思わず目を閉じる。
ごめんミク。私はやっぱり。
心の中で謝った瞬間、ミクの泣き顔が浮かんだ。
「っ」
がたん、とカイトが玄関に背中を付けて、呆然とした顔をしている。
突き飛ばした私さえ思わず呆然とした。
「メイコ……」
「…ばか、言わないで」
私は両手を前に伸ばしたまま口を開く。
「ミクを泣かせたままで、良いわけないじゃない。確かに私はカイトが好き。抱き締められて嬉しかった。それは本当だけど…」
ぐっと唇を噛み締めた。零れる涙など知ったことか。
「気持ちを利用して慰めてもらおうなんて、あんまりじゃない? カイト」
カイトははっとした表情で、顔を歪めて頭を下げた。
「ごめん!」
「謝るくらいなら最初からするな!」
精一杯の力で、私は上からカイトの頭を叩く。
カイトは小さく呻いて膝を付いた。私はそれでも手を休めず、カイトの頭を手のひらで叩き続ける。
「こんなことする前にミクに電話して、今みたいに謝ってみなさいっての」
「ごめん、メイコ。ごめん」
されるがまま、カイトが言った。私は手を止めてやっと涙を拭う。
私は一体何なのだろう。
カイトが無言で立ち上がり、私の頭をそっと撫でた。
「ごめんね、メイちゃん」
子供の頃のように呼んで、カイトがにっこりと微笑む。ああ、だめだ。やはり私はカイトが好きだ。本当に好きだ。惜しいことをした。さっきみたいにちょっとずるいところもあるけど、優しくてともすれば優柔不断にも見えて。
私はずっと見ていたのに。ああ、ちくしょう。
「め、メイちゃん…!」
カイトがはっと私の頭から手を離し、おろおろと顔を覗き込む。
「煩いばか。もう良いからミクの所へ戻りなさい! それで、今のことはお互い忘れる」
泣きながら私は言って、カイトをぐいぐいと玄関から押し出した。
「メイちゃん」
「絶対仲直りするのよ。私を傷付けたんだから。明日一緒に居る所が見れなかったら、あんたを許さないから」
扉を押さえたまま早口で捲し立て、私はそのまま扉を閉める。
「ありがとう、メイコ」
扉越しに伝わる優しい声に、私は唇を思い切り噛んだ。そのまま遠ざかる足音を聞き、私は頑張ったと自画自賛を繰り返す。
あいつはやっぱり卑怯だ。ずるい。それでもやっぱり私は、ふたりが並んでいる姿を見たい。そして出来ることなら今日、今さっきのことをなかったことにして明日に向かわなければ。
ずびずびと鼻を鳴らしながら私は携帯電話からバーを選び出した。
「今日最後の一杯を飲ませて下さい」
私が伝えると閉店間際だというのにバーテンダーは了承してくれた。
「…どうぞ」
長い指がグラスをこちらへと押し出す。
「どうも」
閉店した店内はカウンター以外の照明が落とされ、いつも以上に目の前の男の姿がはっきりと浮かび上がっていた。
無理を言って店を開けていてもらったのだが、それと引き換えに新しいカクテルの試飲を頼まれてしまった。
誰が見ても泣いたと分かる顔で私はグラスを持ち上げる。
「本当に、ただで飲んで良いの?」
「ええ。試作品ですし」
「じゃあ遠慮なく。あ、もちろんさっきの分はきっちり払うからね」
無理矢理笑って私はグラスを傾けた。桃の強い香りがしたが、すぐその後にグリーンアップルの味が広がる。舌先にぴりぴりとした炭酸を感じて少し首を傾げる。
「不思議な味」
言ってから思わず顔を顰めた。鼻腔から思い切り突き抜けるような独特の辛みが襲ってくる。
「……何、このわさび」
「やはり駄目ですか」
バーテンダーは最初から分かっていたとでも言うように頷き、次のグラスを差し出した。
「ちょっと待って。もしかしてこういう変わり種ばっかり?」
「ええ。驚きも必要でしょう」
「だめ却下。試飲は却下。別のカクテル作ってよ、ちゃんとしたやつ」
「ですから、これを」
バーテンダーは真っ白なカクテルを差し出し、私の飲んだグラスを下げる。
「これは大丈夫なの?」
「はい」
自信たっぷりに頷いたバーテンダーを訝しげに見ながら、私はグラスを傾けた。唇に花弁が当たり、強い香りが広がる。
「あ、これは美味しいかも」
「それはミルクをベースに作りました。ちなみに、その白い薔薇の花弁は品種改良がされて、食べられるものですので」
「本当?」
「恐らく」
私は顔を顰めてグラスを置いた。
「でもこれは素直に美味しいわ。ね、名前は付けてあるの?」
「ええ。白薔薇です」
「そのまんま?」
「ちなみに花言葉は『私はあなたに相応しい』です」
「…え?」
私が思わず見返すと、バーテンダーは素知らぬ顔で言葉を続けた。
「恐らく」
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