夢の現実へ ~第3話~
なんやかんや言って仕事を引き受ける覚悟を決めた俺は、早速ミクの実力を知るために立ち上がる。
「よし。じゃあ決まったことだし、早速実力の程を見せてもらおうかな?」
「は、はい。え? でも創詩さん、お食事をおとりになってないのでは?」
「あぁ、それならコレで大丈夫」
言って俺は困ったときのカロリーメートを棚から取り出して口に放り込む。
「朝はいつもこれなんだ。寝起きは食欲があまり無い人間でさ」
「そ、そうなんですか?」
そうなんだと相槌を打ち、
「それと、俺は君のことはミクって呼んでいいのかな? それとも初音さんとかの方が好みかな?」
「いえ! ミクのことはミクって呼んでください!」
「ん。オケ。それとさっきから気になってたんだけど」
「はい、なんですか?」
「ミクは自分のこと――つまりは一人称なんだけど、無理して《私》って言ってるだろ?」
「はえ? …………はややややや!? ど、どうしてそれ――!?」
全ての言葉を述べる前に、手で自分の口を押さえ込むミク。どうやら簡単にボロが出ていたことに本人は自覚がなかったらしい。今更気づくと言うのも、何ともいえないものだ。
「咄嗟のこととかになると、《私》じゃなくて《ミク》って自分のことを呼んでたからさ。たぶん栗原所長辺りに、外では《私》と言いなさいって言われたんだろ?」
「は、はい。その通りです」
「やっぱり。じゃあ俺に対してでも、自分のことは慣れない呼び方はしなくていいから。もうここは君からしても“外”じゃないだろ」
にっと笑みを浮かべてミクをリラックスさせる。実際、VOCALOIDに緊張などがあるのかと言われれば疑問だが、ここに来てからのミクは人間で言う所の緊張のしっぱなしだ。
このままでは今後の歌の練習に響く可能性が高い。歌のみに集中させる意味でも、本人らしさが出せる状況を今から作る必要がある。
「では、その、お言葉に甘えて……」
恥ずかしそうにはにかむミクには、安堵の雰囲気が現れる。うむ。良い傾向だ。後は――
「ついでに俺のことは呼び捨てにしてくれて構わないから」
「ふぇ! え、えと呼び捨てなんて畏れ多くてそんな――」
胸元で手をぶんぶんと振って否定するミク。かと言って、これから紛いなりにもパートナーとして切磋琢磨する間柄。個人的観念だが、さん付けとかは好みではない。
「俺は師弟関係とかそんなの気にしないから。むしろ《さん付け》とかの方が他人行儀みたいで好みじゃないんだ」
「は、はい。創詩さんがそう仰るなら――」
「さんはいらんよ?」
「はい。えと……その…………」
もじもじとし始めるミク。そして一呼吸をして気持ちを決めたのか、勢い良く顔を上げて俺へと視線を向け、
「つ、つ……創詩――」
俺の名前を口にした刹那、頬に赤みが増し、
「――さん」
気づいた時にはさん付けをしていた。
「………………」
まぁ予想通りだったけどもね。予想通り過ぎてもなんていうか、絶句するよね?
「すみません…………」
顔を真っ赤にして尻蕾に謝罪を述べるミク。
「まぁ無理して呼ぶこともないよ。ケイや所長みたく《創》でもいいし、その辺は任せるよ」
「は……はい」
しょんぼりとするミクに思わず、失敗した、と苦笑を浮かべてしまう。何と言うか、本当に年頃の女の子みたいで難しい。
♪ ♪ ♪
俺はカロリーメートの残り一本を食べ終えると、リビングを抜け、配置からすれば玄関より一番通り部屋の扉を開ける。
「……わぁ」
俺自身では見慣れた部屋ではあるが、後ろからあがる感嘆の声に嫌な気はしない。
「ここが、創詩さんのトレーニングルーム」
眼前に広がる光景は、個人が保有するには余りある機材の数々。そして、俺自身が最も扱う楽器――ピアノが鎮座する。
さすがに研究所ほど優れた機器をおいているわけではないが、ヤ●ハの機材調節などを頼まれる建前、こういった電子機器もヤ●ハ研究員とのコネで、しっかりと設備されている。さながら小さいヤ●ハ研究所支部みたいなものだ。
だからこそ、機材の調節もとことん頼まれることが多かったり。
だがそんな中でも、一際目立つのが部屋の中央よりやや壁寄りにある一つの楽器。
「これって……オーケストラピアノ、ですよね?」
「あぁ。そうだよ」
俺が最も愛する楽器。オーケストラピアノ。
電子機器と組み合わせることにより、ピアノの鍵盤だけで多種多様の楽器を演奏できる。また、登録しておいた音符を演奏し、補助してくれる。いつぞやの小説にあった、単身楽団(ワンマンオーケストラ)を再現した一品だ。
「だが、研究所にいる以上ことさらに珍しいわけでもないだろう? 最新型だってたくさんあるわけだし」
「いえいえ! そんなことはありません! これってしかもカスタマイズ可能な初代じゃないですか! それに初代は拡張性が高い分扱いが難しいって……」
「確かにそうだけど、慣れると案外いけるもんだよ? そうだな……ちょっと準備体操もしたいし、聞いてみるかい?」
「よろしいんですかっ!?」
「かまわないよ。それにこれを使って練習するんだから、今のうちに俺がどんな音でカスタマイズしているかも聴いていてもらったほうが慣れられるしね」
「は、はい! よろしくお願いします」
パァッと目を輝かせて言われると気恥ずかしいものがある。俺は首と肩、肘と指と順番に軽く振ってほぐし、それぞれの電子機器に電源を入れ、オーケストラピアノの前に座る。
ふぅ、と一息を吐くと鍵盤のカバーを開けて指を置く。
徐々に研ぎ澄まされる感覚。今日は見物客がいるせいか、体に良い意味での緊張が奔る。
まずはゆっくりと、指を慣らすように音を紡ぐ。レの音から始まり、ゆっくりと、部屋中の空気を味方につけるように。言ってしまえば“音”とは空気の振動にすぎない。
振るえるものがなければ、それは相手に伝えることすらできないのだ。
だからこそ俺は全ての感覚を賭して音が踊る舞台を――知る。壁に反響する音。自分の息と鼓動。鍵盤を叩く指の音。腕を動かすたびに響く衣擦れ。そして今日は特別にこの部屋にいる唯一の観客の息、鼓動。
それらを五感全てで感知したとき、自分の意識は音が支配する『世界』へとすり替わる。刹那――
「~~~~~♪」
――自分が作り出した音の世界に、新たな“音”が来た。
ゾワリとした感覚に、俺の意識が『世界』から連れ戻される。
“音”は俺の意識など無視するように、今ある音の『世界』に寄り添うように溶けていく。
俺は見る。自身が作り出した世界へと自然と入り込んだ、ソプラノの音を。
ミクは瞳を閉じ、己が身を乗せるように歌っていた。ミクは笑っていた。歌うことが幸せなように。見ている俺も、心が躍るような笑顔で。そしてゆっくりと開かれた瞳は、演奏しながらも見続けた俺の視線とぶつかり――
「――っ!? ご、ごめんなさいっ!!」
俺の視線を怒っているとでも受け取ったのか、歌声は謝罪へと変化してしまった。同時に俺の集中力も完全に切れてしまい、鍵盤をたたく指が止まってしまう。
「あの、その……演奏されてた曲が素敵だったので、その、あの、つい……」
最終的には尻つぼみにミクの言葉は空気に溶けていってしまった。気のせいではなく、ミク自身の体もことさらに小さく見える。
「演奏の邪魔をしちゃって……ごめんなさい」
「………………」
俺は鍵盤から指を離し、正面からミクを見据え「邪魔じゃないさ」と笑顔で告げる。
「ただ予想になかったものでね。驚いただけさ。それに、演奏中に横合いから音を出されて怒るような大した演奏でもないしね」
「そ、そんな滅相もない! 創詩さんの奏でる曲は素晴らしいですぅっ!」
真正面から真剣なまなざしで褒められれば、それは歯がゆいものがあって思わず視線を逸らす。
「語尾を伸ばすほどか?」
「ご、語尾が延びるのと評価は関係ないですっ!」
言った本人も指摘されたのが恥ずかしかったのか、頬を赤くして反論。まぁほめてもらっていることだし、これ以上自身で貶し続けたら嫌味な性格だと思われるので中止。
「そんなことよりも」と俺は先程のミクの歌声を真剣に考察する。
先程自身で大したものじゃないと言ったばかりだが、技術だけならそこそこのものを持っているという自負はある。だから、俺からミクに併せる分には問題はない。だが、ミクから――それも自然と俺の曲調に融けるように併せられたという事実。
これはつまり、ミク自身が既に“音”というものがどういうものなのかを知っているということだ。これは大きい。
「よし!」
思わぬ収穫に思わず気合いを入れる。もしかしたら本当に、機械が人を超える偉業を、この目でこの耳で体感できるかもしれないのだ。
「俺の準備運動は終わり。ミクもできているようだし、早速本番さながらでやってみよう!」
「はぇっ!? え、そうなんですかっ!?」
「何を驚いてるんだ? 今さっきやったみたいに歌ってくれればいいから」
俺は部屋に備えられているパソコンで、研究所から送られてきているデータのうち、ミクが歌える楽曲を確認。
「よし。じゃあまずはこれからだな」
楽譜を一通り目を通して暗譜し、ミクに伝えると、再び鍵盤の前に座る。視線を横に向ければ、先程とは打って変わって緊張した面持ちのミク。
まぁ歌ううちに緊張なんて解けるだろ、と判断し、俺は鍵盤に指を躍らせた。
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