それは祝いの日に贈られる切り花のような、美しいけれどいずれ枯れゆく記憶のかけら。
でもそれを貰えたことがとても嬉しくて、うつろうからこそ大切だと思えた。
記憶の中に開いた、幾つもの窓。
その窓辺に捧げられた、あなたからの想いの花。
花の色は移れど、けして消えはしない。
けして。
<無色の部屋に.3>
もう見慣れすぎて何の感想も持たなくなってしまった部屋と、何度見ても見飽きることのない端正なレンの笑顔。
それらに初めて恐れを抱いたのは、いつだっただろうか。
「リン?」
優しい声に首を巡らせれば、そこにはレンの姿がある。
「どうしたの、ぼんやりして。何か考え事?」
「…ううん、別に何でもないの。心配しないで」
「そう?…なら、良いんだけど」
色のない世界の中を、レンは静かに近付いてくる。
向けられる気遣わしげな顔と、伸ばされる優しい指先。それは確かに嬉しいはずなのに、何故か違和感が拭えない。
これは本当に、レン?
私の戸惑いに気付いたかのように、彼の青い瞳が光を帯びる。どこか獰猛で、何か冷酷さを感じる光だ。
すい、とその両手が私を捕らえる。
私は逃げないように自分を抑えることで精一杯だった。
レンの動きに荒々しさなんてかけらもないのに、どうして恐怖を感じるのか分からない。
分からないけれど、怖い。
不自然に体を強張らせる私に、彼は慈しむように言葉を紡ぐ。
「余計な事は考えなくて良いよ。僕だけを見て、僕だけを考えて。それだけで良い、それだけで良いんだ」
―――ああ、またこの台詞。
私の胸の内に、じんわりと苦いものが広がる。
私が視線を他へ向けると、彼は必ずこう言って私を戒める。
以前はそう言われる事が嬉しかった。レンだけを見ていることに、何の疑問も無かった。
でも、何度も何度もそれを繰り返すうちに、気付いてしまう。
…レンが、それしか言わないことに。
レンが意図して、私を縛る言葉を選んでいるということに。
『リンはひまわりみたいだね』
昔、ここに来るよりずっと前、私に向かってレンはそう言った。
一面がひまわりのその場所で、私とレンは花に埋もれるようにして立っていた。
『そうかなあ』
首を傾げる私に、彼は笑う。
手を上に伸ばし、私達の背丈よりも高いひまわりの花弁に触れるその指は、例えようもなく優しかった。
『そうだよ。リンが笑ったり怒ったりすると、世界が明るくなるような気がするんだ。何て言うのかな…うん、感情表現が鮮やかっていうか』
でも、私からしたら、レンのその笑顔の方がよっぽど光に満ちて見えた。
私がひまわりなら、レンは太陽。
かけがえのない、私の光。
『リンのそんな所も、好きなんだ』
記憶の中で、彼は微笑む。
鮮やかな世界の中で、それにも負けない色彩で。
…けれど。
「―――僕といようよ」
耳元で囁かれた声は、あの時と変わらない。
それが苦しくて、私は彼の髪に顔を埋めるようにして強く目を閉じた。
記憶の中のレンと、今私を抱きしめるレン。その間にある隔たりは、余りに大きすぎる。
今のレンは、同じ言葉を繰り返すだけ。あの太陽のような笑顔も、いつしか見えなくなってしまった。
―――どうしようも、ないの?
問いたくて、問えなくて、私は黙って目をつぶる。
考えるのが辛い。
だから私は、耳に滑り込む甘い囁きが私の疑念や不安を溶かして行くのを知っていながら、敢えてそれに身を任せた。
私の好きだったレンは、やがて形も残さず消えてしまうのかもしれない。私の中に残る記憶さえ、今のレンの圧倒的な存在感の前に掠れ始めているのだから。
…このままレンに身も心も任せてしまえば、楽になれるのかな。
気付いてしまった差異も忘れて、レンのものになれるのかな。
揺らいだ心を見透かすかのように、私を抱く腕の力が強くなる。
「忘れなよ、僕以外のことなんか。僕を見てよ。僕だけを愛してよ。そうすれば、二人とも幸せになれるんだよ」
目からも、耳からも、肌からも、レンしか感じられない。
それは、なんと心地良い事なんだろう。
ゆるり、と思考の輪郭が緩む。
そこに絶え間無く注ぎ込まれる、執拗なまでの愛の言葉。
愛してる。愛して。
君だけを。僕だけを。
忘れて。忘れて。忘れて。
―――うん。
抵抗する気力がなくなって、無意識の内に強張らせていた体から力を抜く。
それを感じ取ったレンが、笑ったような気がした。
(ほらね。気持ちいいでしょう?)
―――うん、レン。
―――凄く楽になった気がする…。
意識が、溶ける。
融けて、混ざっていく。
考えないことがこんなにも心を癒すなんて、今まで考えてもみなかった。
それは、まるで夢をたゆたうかのよう。
時間の感覚がなくなって、レンしか現実味がなくなる。
彼を愛して、彼に愛されて。それでいい。それだけでいい。
細かいことなんて、考える必要はない。
ふたりともしあわせなんだから、それでじゅうぶん。
ぼんやりとした世界。窓から見える世界がどれ程色を変えようと、私には何の関係もなかった。
花が咲こうと。葉が落ちようと。
どれほどの季節が巡っただろう。
だから、私がその日窓から外を見たのは、本当に偶然だったとしか言いようがない。
この部屋の窓には、カーテンが無かった。
そもそも、この窓というものだってそんなに大きなものじゃない。私の掌一つ分ぐらいの幅しかない、 細長い…窓の「様なもの」と言ってもいい程度の、構造物の隙間。
それは主に換気に使われているだけで、外の様子もそれ程見えるわけじゃない。
ただ、太陽の光だけは、そこから確かに入ってくる。
―――外を見た私の目に、真昼の眩しい日差しが飛び込んできたのは、当然と言えば当然だった。
目を射る強い日差しに、頭の隅が微かに覚醒する。
ああ、夏が来たんだ。
そんな事をぼんやり考え―――その思考が、何かに引っ掛かる。
何かに。
何かに。
―――「何」、に?
「あ…」
それを疑問に思った瞬間、するり、と記憶の扉が開いた。自我なんてあやふやで、引っ掛かるものなんてどこにもないはずなのに。
でも。
それは消えかけていた過去。
それはきいろの洪水。
それは忘れたくなかった景色。なくしたくなかった笑顔。
溢れてくるその色彩に、私は呆然と立ち尽くした。
「忘れていた」。
「思い出した」。
―――だから、戻れない。
なんの脈絡もなく、しかししっかりとした思考を辿って、私は理解した。
理解したくなかった。今のまま、何の疑問も持つことなく、この停滞した檻の中で生きていけたのだったらどれだけ楽だっただろう。
そこには、痛みはないからだ。
…でも私は、理解してしまった。
このままここに居続ける事が、一体何を意味するのか。
衝動のやり場がなくて、胸の前で拳を固く握り締める。
そして、考える。
私の愛する人のことを。
私の愛した人のことを。
私はもう、自分の気持ちを騙すことは出来ない。
「…リン?」
背中に投げ掛けられる、怪訝そうなレンの声。恐らく私の変化に気付いたのだろう。
私は躊躇いを振り切るように振り向き、しっかりと彼の目を見つめた。
ここに来た日、同じようにレンを見たことを覚えている。あの時は、私とレンの二人共が似た反応をしたのだったけれど。
…けれど、今は。
私は息を吸う。言葉を発する為に。
―――悲しいことだ、と思った。
とてもとても、悲しいことだと。
でも、「彼」は行ってしまった。もう二度と戻って来ることはないのだろう。
私の想いが戻らないのと、同じように。
「…ごめんね、レン」
震わせる喉が、痛い。言葉を口にする度、ガラスの破片でも突き刺さるかのような細かく鋭い痛みを感じた。
でも、言わなければ。
でなければ、私もレンも、ここで朽ちて枯れるしかない。
もしかしたらレンはそれこそが望みなのかもしれないけど…だったら、尚更私は拒絶しなければいけないと思う。
だって私は、なくしたくないからここに来たんだよ。
このままじゃ、なくしたくないと思ったものを全て、なくしてしまいかねない。
ねえレン、分かって。私も今まで勘違いしていたのかもしれないけど、でも、分かって欲しいの。
ただ側にいるだけじゃ、意味がないよ。
―――それだけしかないから好き、なんじゃなくて、数多のもののなかから選び取って好きと言いたい。
そして、選び取って好きと言えた、そのことを忘れてしまいたくない。
ここに来る事を決めたのは、私自身の意志だ。だから私にレンの行動を拒否する権利なんてないのかもしれない。
でもレン。
私の心は初めから少しも変わらず、一つの事を思い続けていたの。
なくしたくない。
ねえ、私はこの思いを、この記憶を、消されたくないよ。
私はレンが好きだった。
だからもう、ここにはいられない。
外に出るのは危険。そうかもしれない。
もしかしたら、誰かに捕まって「修正」を受けてしまうのかもしれない。
でもこのまま何もせず、失ってしまう事だけは―――…
「私はもう行くわ」
「…リン?」
凍り付いたように目を見開くレンに、私は手を伸べる。
彼に触れるためではなく、彼とは違う道を行く為に。
「扉の鍵を頂戴。…それとも、一緒に行く?」
「何を…言ってるの…?」
ふる、とレンの髪が微かに揺れる。
ここに来た時より、少し伸びたその金の髪。プログラムである私達に成長という概念はないけれど、中の情報が変質したり増減したりすることで外見が変化するということは有り得る。
そう―――視覚情報で変化が分かるほどに長い間、私達はここに閉じこもっていた。
レンと一緒に外に行けるのなら、そうしかった。
でも、彼が示した反応は、拒否。
そんな気はしていたけれど、いざ目の当たりにするとやはり辛かった。
私を見て、怯えるように後ずさるレン。
その瞳に喪失の恐怖を見付けて、私は少し顔を歪めた。
見渡してみれば、鍵は棚の中にあった。あれを手にして扉を開けば、それで全てが終わる。
恐らく、私とレンの間の全てが。
「…レン、レンは覚えてるかな。昔、レンは言ってくれたよね、私がひまわりみたいだって」
ひまわり。
それは夏に咲く花。
強い茎と鮮やかな色彩を持ち、太陽を見詰めると言われる一途な花。
「嬉しかったし、実際そうなのかもしれないと思った。私、ずっとレンを見てたから。大好きだったから」
けれど、いつの間にか私の「太陽」は輝きも温もりも失っていた。
そして、花を枯らそうと手を伸ばして来る。
花は、気付いてしまった。
これはもう、自分の愛した太陽ではない。
「私、レンをなくしたくないよ。…でも、だから、行かなくちゃ」
私は、レンの返答を待った。
何か言ってほしかった。
レンは、この時になってまでいつも通りの言葉を繰り返すのだろうか。
それとも何か、別の言葉を…?
黙ってレンを見つめる私。
黙って私を見つめるレン。
けれどやがて、沈黙に堪えかねたように―――彼は、口を開く。
「リン、…」
色のない部屋に、音が満ちた。
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ご意見・ご感想
秋来
ご意見・ご感想
ついに部屋の外に・・・
ひまわりは太陽がないと枯れちゃうね・・・
レンから光が消えるとリンも光がなくなる
ほんとに一言でまとめたらwwwww
短っ(笑)
2011/03/31 16:40:07
翔破
コメントありがとうございます!
はい、リンが正気に戻りました。
あとはレン君の最終話のみです。ちゃんと書き終われれば良いのですが…
本当に一言で纏まるとは思いませんでした。ちょっと落ち込みました。
2011/04/01 20:02:18