Like a Butterfly
1
欠伸交じりに朝食のパンをかじる。
まだ完全に眼が覚めていない頭を抱えつつ採る一人だけの朝食はいつものこと。
決して強がっている訳じゃあないが、寂しいなんていうことはない。・・・本当だ。
男の一人暮らしだって、何年も続けていればそれなりの耐性がつこうってものなのだから。
テーブルを挟んで向かいに置かれたテレビには、ステージ上で元気良く踊りながらデュエットを歌う、
二人の女性の姿が映し出されていた。
一人は、腰元まで伸ばした鮮やかなエメラルド色の長髪と、まだ幼さを残した丸い瞳が特徴的な女の子。
もう一人は、その少女よりも頭一つ分ほど背の高い、大人びた雰囲気を持つアズキ色の髪の女性だ。
少女が紡ぐ、天まで突き抜けるかのようなハイトーンボイスと、
女性が紡ぐハスキーで落ち着いたトーンの声。
この二つは互いに異なった音質であるが、それでも、互いの特徴を殺すこと無く奏でられる。
その旋律は見事という他ない。
ダンスに関してはあまり詳しい方ではないので、上手いのかどうか分からないが、
曲の方はかなりハイレベルな仕上がりだという事がすぐに分かった。
久々に自分好みの歌を聴けて、少しだけ気分が良い。
「っと、もう時間だな」
思わず魅入ってしまっていたようで、ふと時計に目を移せば、時刻は八時をまわっていた。
手を伸ばしてテレビの電源を落す。
こうやって、座ったまま部屋の至る所に置かれた物に手が届く、
というのも六畳居間の特権というやつだ。
バッグを手に台所を抜け、玄関から外に出る。空は雲一つない青天。
気温は連日に倣うように三十度オーバーをキープ中。真夏の陽光は、じりじりと肌を焼くように強烈で、
立っているだけで早くも汗が滲み出てきているが、この時点で弱音を吐いてはいられない。
なぜなら、ここから職場までは自転車で三十分もかかるのだから。
狭くくねった住宅街の裏道を抜け、駅前の大通りに出る。
自宅アパートから職場までの中間地点にさしかかったこの時点でスタートから約十分。
流石はオレ、と褒めてやりたい所なのだが・・・
最近新調した自転車の調子があまりにも良いおかげなので、あまり威張れる立場にはなかったりする。
俺と同じく、職場に向かうであろう人の波を縫うようにかわし、白い石畳が敷かれた歩道を駆け抜ける。
物ごころついてから二十年近く見てきた景色には、今日もそれほど大きな変化は無い。
確かに、個人経営の商店なんかはその半数以上がつぶれてしまってはいるが、
大きなデパートは改装こそすれ、その存在自体が消えてしまう事は無い。
自分たちを取り巻く身近な環境は目まぐるしい変化をみせていても、
こうした情景は、俺が死ぬまでに急激な変化を遂げる事は無いんだろうなと、何回も考えた事があった。
空飛ぶ自動車も、雲を突き抜ける高層ビル群も所詮は技術的に可能だというだけの話し。
不必要に環境を変化させたところで、それによって得られるメリットよりも、
必然的に生じてしまう混乱の方が遥かに大きいのだから、というのが俺の考えだ。
・・・などと、今日も独りよがりな解釈をつらつらと並べていた所で、ようやく職場が見えてきた。
めんどくさくて仕方ないが、ここからは気分を仕事モードに切り替えることにする。
「いや、だからミクは一つ前のバージョンの方が断然良いんだって前から言ってるだろう。
なぜこの違いがお前には分からないのか!」
「うっとうしいわねぇ。あなたが言ってるのは“メカ声”っていう味が良いっていう話でしょう?
まぁ、そこを重視する気持ちも分からなくはないけれど、歌手としての全体的なスキルで考えれば、
最新バージョンの方が優れてるのは明らか。本気で挑むならば新バージョン。
自分だけ楽しめれば満足なら旧バージョン。どちらを選ぶかはあなた次第だけどね」
俺と向かい合う形でテーブルに着いている男女二人。会話の流れからも分かる通り、
男側の主張は終始不利な状況にあり、今日の昼休みでも、それは結局覆ることは無かった。
そうして、八方ふさがりに陥った男が通る逃げ道が・・・
「なあ、遼もそう思うだろう? “ボーカロイド”の味は、人間には真似できないあの声色にアリ、
だよな? お前からもこの女にビシッと言ってやってくれよ~」
髪を薄茶色く染めた、一見ガラが悪そうに見えて実は小心者で気の優しい同僚であり、
俺の親友である祐樹は、いつも通り、敗者特有の縋りつくような眼差しで俺に助けを求めてきた。
とりあえず、今は箸をつけてしまったしょうが焼を口に放り込むのが先決なので、
祐樹の言葉は無視することにする。
「今のボーカロイドに求められているのはリアルさよ。
いくら、あの電子的な声が良いって言っても、それは単に個人的な趣味の範疇の考え。
音楽のプロであるなら、もっとリアルに近い声を求めるのは必然。
このおバカと違って賢明な遼くんならば、私の言ってること分かるわよね~?」
「おっしゃふほうりふぇほふぁいふぁふ」
目が笑っていない笑みほど恐ろしい物は無い。そんな笑顔を浮かべながら同意を求められては、
いくら咀嚼中でも即答せざるを得ない。
俺の答えで満足いったのか、こちらもまた同僚である黒髪ポニーテールの見た目通りに強気な女性、
恵は勝ち誇った顔で横に座っている負け犬を一瞥した。
すまんな、友よ・・・と、心の中でだけ深く謝罪しておいた。
「ああ、いいよいいよ。ボカロを連れてないお前に同意を求めた俺が悪ぅございました。
・・・っていうか、お前も音楽に興味あるんなら、一度はボカロと組んでみたほうがいいぞ。
一人身なんだから、別に、金が無いっていうわけじゃあないんだろう?
何が気に入らなくて意地張ってるのか分かんないけど、
趣味の幅が拡がるっていうのはマイナスになることは無いと思うんだけどなぁ」
恵とやりとりをしていた時とは、また少し違った真剣味を含んだ口調。
こいつとの付き合いはそれなりに長いだけに、
本当に俺の為を考えて言ってくれているという事が分かってしまう。
やっぱり祐樹はとても良い奴だな、と改めて思い知らされた。
「その意見には私も賛成。私の読みでは、遼くんはすごく良い音楽勘してると思うのよね~。
だから、遼くんのミクと私のルカを組ませて、コンテストに出てみない?
絶っっ対に上位狙えるわよ~!」
まだやるって言ってねぇし、そもそもお前の読みが正しいという根拠は何処に?
というツッコミを入れてやりたいところだが、
明後日の方向を眺めながら妄想全開の恵には何を言っても無駄なので、
ここは抑えておくとしよう。
「意地張ってるっていうわけじゃあないんだけどな。毎度毎度言ってるように、
俺の気持ちの問題っていうか・・・まぁ、そんなところなんだよな」
いつもどおり、話を半分はぐらかすかたちで答える。
それでこの話題は終了。これも毎回同じ話しの流れである。
ボーカロイド。その単語は、今や音楽業界のみならず、各種マスメディアを通して、
あらゆる場面で耳にすることができる。
もともとは楽曲作成用の音声編集ソフトであったそれは、画期的な編集システムと汎用性から、
数年前に爆発的な人気を博した。
その後もバージョンアップや新シリーズの追加などで人気が更に加速する中、
ある一つの発明がボーカロイドの運命を大きく変えることになった。
超論理的高速思考回路を備えた、自律型の人工知能。
業界ではアルティミット・ロジック、と大層な呼称をされているらしいAI。
それが、ボーカロイドソフトと組み合わさることによって完成したのが、
“本物”のボーカロイド。つまりはアンドロイドだ。
日本は、他の先進国と比べてロボット産業技術が飛躍的に進んでいた国である。
それでも、今までに具体的なアンドロイド製造案が出せないでいたのは、
その機械の身体を統率する知能に不安があったからだ。言うまでも無く、人間とアンドロイドでは、
運動能力、耐久力などに差がありすぎる。
反逆されてしまえば、生身の人間では制圧するのに手を焼くことになるだろう。
半端な人工知能を搭載した結果、大量のアンドロイドが制御不能状態に陥ってしまう、
という可能性は決して低くはない。
先進国として恥を晒したくはない、というプライド故に、
限りなく安全な知能が出来上がるまでは待とうというのが、当時のエンジニアの考えだったらしい。
そこに彗星のごとく現れたのが、アルティミット・ロジックである。
誰が発明したのか、どういう構成で成り立っているのかまでは俺も分からないが、とにかく、
このAIは搭載機体に“マスターからの指示”を厳守させ、かつ、
AI自体が外界からの影響をほとんど受ける事が無い構造をしている、というのが謳い文句だった。
これを備えたアンドロイドを試験的に市場に投入するにあたって、
エンジニアは同時期に話題を集めていたボーカロイドに目をつけた。
これには幾つか合理的な理由があるようなのだが、一説(某大型ネット掲示板)によると、
アンドロイド計画の開発チーフが“みくみく”にされていた、というのがかなり有力らしい。
・・・冗談なのか本当なのか疑わしい話はともかく、家事の手伝いをするというわけでもなく、
戦争に赴くというわけでもない。
あくまでも、ユーザーの楽曲作成をお手伝いするということを前提とされた、人間にとって無害な、
おしゃべりロボットの延長線みたいな存在として実践投入を試みたかったから、
というのがもっとも適切な理由かもしれない。
ボーカロイド“初音ミク”の初号機が発売されてから今年で三年目。
当初はそれこそ乗用車一台分ほどの価格設定が成されていた高級品であったが、
様々な改良とコストダウンが図られ、
今となっては庶民でも少し背伸びをすれば手を出せるぐらいの価格にまで落ち着いている。
俺が勤務している会社では、音楽機器の製造メーカーという職種故か、
大体六割の社員がボーカロイドを有している。
評判は決して悪くない。歌って踊れる、従順なアイドル的サポーターは、
音楽を作ることを生きがいにしている人にとって強力な味方だ。
それに、恵がさっきも言っていたように、最近はボーカロイドのコンテストが各地で開催され、
大きな賑わいを見せている。
今朝、俺が見ていたニュースでもコンテストの特集が組まれていたほどだ。
アマチュアがコンテストで名を上げ、プロに転向することも多々あるらしい。
遠くに見ていた夢を近づけさせてくれる、
というのも昔から変わらないボーカロイドの人気の一つなのだろう。
続く
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