私は幼いころから体が弱く、しょっちゅう病院通いをしていた。
病弱なくせにやんちゃだった私は、少し体調がよくなり経過を診察してもらうときなど、大人しく待合室で待つような子供ではなかった。
そんな私を大人しくさせるために母親がとった行動は、待合室に置いてある漫画を「あんたこんなの読めないでしょ?」と負けん気をつついて私を大人しくさせる作戦だった。
作戦は大成功で、私は漫画のとりこになっていった。

小学校3年生になるころには「漫画家になる!」と公言していた程だ。
そんな私を心配した母親は「あんたに漫画家なんて無理。漫画本のまねばっかりしてるし、オリジナリティがないわ」と突き放す。
母親心理からしたら致し方ない、と思わないでもないが、幼い子供の夢を奪う『夢泥棒』でしかないと、今ならはっきりわかる。
どんな画家だって最初は【模写】というまねから入るというのに・・・
きっと大人になった今、それを言っても「ちょっと反対されるだけであきらめるんだから、その程度の夢だったんでしょ?」
としか言われないのは、わかりきっている。
ダメ押しだったのは、中学に上がったばかりの時美術の教師に「お前は美的センスがない」と言われて、一週間寝込んだ。
教師まで夢泥棒だったとは・・・

絵を描くこと自体はあきらめたが、中学・高校と進んでも、頭の中で思い描くストーリーを形にしたいという想いは続いた。
絵を描く代わりに文章で頭の中の映像を表現しようと考えた。
しかし、ここにも夢泥棒がいた。
高校三年の春。担任になった国語教師から「お前には文才がない」ときっぱり言われた。
後日、同窓会で当の国語教師から「お前に大学進学させたくて、将来を心配して言ったんだよ!」と言われた。
そしてお決まりのセリフ「ちょっと反対されるだけであきらめるんだから、その程度の夢だったんでしょ?」

そして大学で出会ったのが演劇部。
ここでなら頭の中の映像を具現化できる!そう考えてのめり込んだ。
寝る間を惜しんで演技の稽古と、生活するためのバイト。
あっという間に4年間が過ぎ、両親からは矢のような就職の催促。
今度こそ、何を言われても演劇はやめるものかと自分主催の劇団を立ち上げる。
が、金銭的に立ち行かなくなり、下町の工場へ就職。
両親からは「ほら見ろ」と言わんばかりの蔑(さげす)んだ顔。
正月に実家に集まる親戚一同からも、名のある会社に就職した弟と比較されるので、一人暮らしを始め、いつの間にか実家にも寄り付かなくなる。
月に18万の稼ぎとぬるま湯のような毎日。ここから抜け出したい。ここから抜け出したい!
タバコを吸いながら天井を眺めつつ、お経のように「ここから抜け出して~」と唱えている自分がいた。

ある日、腐っていく自分を見かねた友人が
「市民センターでスタンフォード大学の教授が、自分を変えるというテーマで講義をするんだって。無料らしいから一緒に行こうぜ!」
と連れ出してくれた。
せっかくの日曜に何で講義なんて受けないといけないんだよ!
と文句言いながらもついて行った。

講義は質疑応答も含めてみっちり3時間。
疲れるどころか、帰るころには気分爽快。大学時代のようなやる気すらみなぎっていた。

なんてことはない。私はすべて言い訳を用意して動いていたに過ぎなかった。
親に反対されたから。教師がああいったから。金銭的に立ち行かなかったから・・・
そうじゃない。
誰に何を言われても、自分で納得するまで絵を描けばよかったんだ。
誰に評価されなくても、自分が納得する文章を書けばよかったんだ。
金銭的実状を考え、派手じゃなくても魅せるための演出をもっと考えればよかったんだ。

スタンフォード大の講師は言っていた。「今からでも自分を変えることはできますよ。」と
夢泥棒は親でも教師でも誰でもない、自分自身だったのだ。

今からでも遅くない。夢をもう一度追いかけよう!
歩く足取りは軽く、自然と笑みが浮かんでいた。

ライセンス

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  • オリジナルライセンス

夢泥棒

朗読用に作った作品なので、独自の句読点のつけ方をしてあります

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投稿日:2016/09/21 12:10:07

文字数:1,646文字

カテゴリ:その他

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