――世界で初めて宇宙を飛んだ生物、クドリャフカのことを知っているだろうか。
まだ人間が宇宙に飛び立ち、旅を終えて地球に戻ってこられるようになるよりもはるか前に、成層圏の向こう側に到達した犬だ。クドリャフカというのは表記間違いで、実際にはライカという名前だったとも言われているが、詳細はよくわかっていない。
確かなことは、宇宙空間に初めて動物を送り込むという事実を作るためだけに、地球を飛び立ったということだけだ。故郷の青い星に住む人々から一心に同情の目を向けられながら、彼女は地球に戻ることはなかったという。
「死んだんですよね? その後、どうなったんでしょう」
「さぁね。流れ星になったんじゃないかな」
僕の質問に、マスターは気まずそうに苦笑しながら答えた。
答えになっていなかったので、自分で調べた。何せ古い記録だし当時の情報もかなり錯綜していたみたいで、正確なことはいまいちよくわからなかった。
わかったのは、クドリャフカ、あるいはライカと呼ばれていたその犬は、スプートニク2号に乗せられて宇宙に飛び立った。恐らくは宇宙に飛び立った後数時間で死亡して、その身体は五十七日後に大気圏に再突入したスプートニク2号と一緒に燃え尽きて消えてしまったということだ。
ある意味、マスターのいう「流れ星になった」というたとえは正解といってもいい。宇宙から地球の大気圏に突入した浮遊物が燃え尽きる時に発する光が流れ星。クドリャフカを乗せたスプートニク2号も、きっと大きな流れ星となったんだろうから。
■
「お兄ちゃん、何みてるの」
後ろからさらりと流れてくる、鮮やかな緑色の髪。振り向くと、後ろからミクが覗き込んでいた。僕が見ていたのは、スプートニク2号と、悲劇の犬クドリャフカについて書かれたサイトだ。
「あ、かわいいワンちゃん」
掲載されていた犬の写真に顔をほころばせていたミクは、しかしサイトの文を読み進めるにつれて悲壮な表情に変わっていく。
「……かわいそう」
「……うん、そうだね」
かわいそうな、クドリャフカ。宇宙の彼方に運ばれて、骨も残さずに燃え尽きた。
人類が科学を発展させるために、いくつもの犠牲が払われた。それは実験に使われた動植物かもしれないし、文字通り研究に自分の命を賭けて、賭けに負けてしまった人間かもしれない。発展することによって棄てていかれた、無数の文化なのかもしれない。
「どうして、こんなサイト見ていたの?」
「宇宙開発の初期って、どんな感じだったのかなぁ、て思って調べていたら、この記事にたどり着いたんだ」
それは紛れもない真実だ。僕は自分たちのようなヒューマノイドがここに置かれるようになる遥か昔、宇宙開発のルーツに興味を持って調べていただけに過ぎない。
ミクは素直に納得したようで、長い髪の毛先を指にからめてもてあそびながら「そうかぁ」と呟いた。
「この建物だって、色んな人の研究の成果があって建っているんだもんね」
「そうだよ。僕らも、ここがなければただのボーカロイドだっただろうね」
ここは国際宇宙科学研究所。この国の宇宙科学の全てが結集している。
僕らはボーカロイド。より正確にいうと、ボーカロイドという歌声合成ソフトを搭載した機械だ。最先端の学習機能を完備した、自立歩行型ヒューマノイド。外見は、ソフトウェア製品としてのボーカロイドを知る一般市民に親しみやすいように、ソフトのパッケージデザインに描かれたキャラクターをモチーフにしている。ミクなら長い緑色のツインテールに、ダークグレーのミニスカートとロングブーツを履いた少女。僕なら、濃い藍色の髪に、白いコート、鮮やかな青色のマフラーがトレードマークの青年型、という風に。
性格は基礎学習の段階を終えた後は、周りの環境次第で学習により変わるが、おおむね世間がキャラとして捉えているボーカロイドのイメージと大差がないように思う。
全くといっていいほど宇宙開発に縁がなさそうなボーカロイドが、わざわざヒューマノイドのインターフェイスまで用意されてここにいるのには、もちろん理由がある。最近ではかなり人間的な思考をもつことが可能になってきたヒューマノイドが、人間のかわりに宇宙に飛び立てるようにするためだ。たとえば往復で十年はかかるような道程なら、人間が行って帰ってくることは現代の技術ではほぼ不可能だ。食料などの問題もあるし、何より人間にとっての十年はあまりに長い。だけどヒューマノイドなら、電力供給さえクリアすれば食料はいらない。おまけに異変があれば自力で対処したり、詳細な不具合を判断して報告もできるし、予定外の発見を報告することもできるというわけだ。
ボーカロイドに白羽の矢がたったのは、ヒューマノイドに搭載する人口音声として汎用性が高かったことと、キャラクター性が一般市民に割りと浸透していたからだろう。特にミクは人気が高い。
ボーカロイドはあくまで歌声を合成するソフトだから、普通に話す時にはイントネーションがおかしかったり、どこかたどたどしかったりもするのだけど、むしろそこが機械っぽくて趣があるなんていう人もいるくらいだ。ボーカロイドというソフトは、本当に愛されているんだと思う。
「あ、そうだ。お兄ちゃん。ミクね、こんど月面ライブするんだって! リンちゃんとレンくんも一緒に行くの!」
「ん? そうか、ミクはすごいなぁ」
「えへへへ。みんな一緒に行ければいいんだけどねー。シャトルはそんなに広くないよ、って。残念!」
ミクが心底残念そうに口を尖らせた。
月面でコンサートをする初音ミク。なるほど、それはセンセーショナルだ。技術力の宣伝になる。ただの宣伝だけでシャトルは飛ばさないだろうから、おそらく月面で使える音響設備や環境調査、地球への中継放送の実験も兼ねるんだろう。将来、人間が月面に移住するようなことがあれば、きっと役に立つ。
「きっと僕らは地球のほうで駆り出されていると思うよ」
「うん、地球に残ったみんなと中継でセッションするんだって。多分説明がくると思うんだけど。あ、そうそう、お隣さんたちも一緒だって!」
「お隣……っていうと、がくぽさんに、グミちゃん?」
「うん。それと、キヨテルさんとか、ミキちゃんとか、みんな! ここにいるボーカロイドは全員!」
ボーカロイドは総出演らしい。この研究所には、国産のボーカロイド搭載のヒューマノイドは全てそろっていて、ソフトの開発元のでそれとなく居住区を分けられている。お隣さん、は別社製のボーカロイドのことだ。
「お金かけるんだなぁ」
「マスターが、スポンサーがたくさんついたって言ってたよ。前にミクがルカ姉さんと無重力ライブやった時の、好評だったみたいで」
僕らがマスターと呼んでいるのは、僕らヒューマノイドの管理者のことだ。僕らにプロモーションの歌を作っているのも彼なので、ボーカロイドとしてもマスターと呼んでいい。僕らが事業の宣伝を兼ねて歌を公開したりする時には、営業の人と一緒に挨拶しにいったるもしていた。今回もそういった事業宣伝なんだろう。
「へぇ、よかったじゃないか」
「うん、いつか全員で月面ライブできるように、広報活動頑張りますっ!」
ミクがビシッと敬礼をするので、僕も釣られて敬礼をする。
ただのソフトとして流通していた頃でも電子のアイドルなんて呼ばれていたミクだけど、最近は本当にリアルのアイドルになりつつある。その内銀河の歌姫なんて呼ばれるようになりそうだ。
宇宙開発進んでいくにつれて、僕らのようなヒューマノイドは増えていくのかもしれない。いつか人間が地球だけじゃなく、月や火星に住むようになるころ、ヒューマノイドは一般市民の中に溶け込んで生活するようになるのかもしれない。
そうなったら、最初に宇宙に飛び出したヒューマノイドとして、僕らの名前は歴史の教科書に載るのだろうか。
――あるいは。
「……いや、うん、深く考えないでおこう」
「ん? 何か言った? お兄ちゃん」
「何でもないよ」
言葉を濁す僕に、ミクは釈然としない顔で小首を傾げる。
僕は。
その内、どこからともなくにぎやかな声が聞こえてきて、自動扉が横にスライドする。金髪の頭が二つ覗いたかと思うと、リンとレンの二人が怒涛のごとくなだれ込んできた。
「あっ、ミク姉ここにいた!」
「月面ライブの仕様届いたってさ。見に行こうぜ!」
賑やかな双子仕様のヒューマノイドたちに、ミクは浮かない表情をころりと変えて、にこにこと笑い出した。
「本当? ねー、地球側はどうなるのかな。お兄ちゃんも行こうよ!」
「カイト兄も連行っ!」
「メイコ姉とルカ姉は今マスターん所かな。呼んでこようぜ」
リンに右腕をひったくられ、レンに背中を押され、ミクに左手を引っ張られ、僕はパソコンデスクから引き剥がされた。
僕は幸せなヒューマノイドだ。
人間だってそうそういない数の姉妹弟に囲まれ、賑やかで、やりがいがある仕事をもらえて日々を過ごしている。
僕はとても幸せだ。
――だから、今よりも多くは望まないでいようと思う。
だって、僕は人間のために生まれてきたんだから。
人間の役に立つために生みだされるのが、機械の本分なんだから――その先は望まない。そう思ってきた。
ボーカロイドのソフトウェアとしては、僕は二番目に古い歴史をもつ。
そのせいか、一番長い歴史を持っているメイコ以外の姉妹機は、僕のことを兄と呼んで慕ってくれる。
だから僕は、自然と自分は兄でなくてはならないんだと思っていた。
人間で『兄』と呼ばれる立場の人が、どういう風に振舞うのか、自分なりに学習してきたつもりだ。
僕の幸せは、人間の役に立つことだ。
そして僕の『兄』としての幸せは――この愛しい妹弟が、ずっと笑っていられることだ。
僕は、心からそう願っていた。
クドリャフカの身に起こった悲劇を知って、もしかすると僕たちの誰かにも同じことが起こったとしたら?
その疑問に対して出した結論は、今はまだ誰にも語らないでおくことにする。
【後編に続く】
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