目を開けると、そこは知らない部屋だった。

「…えっ?」

 喉を震わせてみると、怪訝そうな声が部屋の中に響いた。
 確認のために自分の手足を眺め、あの日から少しだけ伸びた髪をさらりと動かしてみる。
 そして、その青い目を何度か瞬かせ、ひとつ溜め息をついた。
 一瞬夢を見ているのかとさえ思ったが、どうやらそうではないらしい。



 これは奇跡。

 ―――小さな奇跡の、続き。



<魔法の鏡の物語・物語の終わり>



「行ってくる」
「行ってらっしゃい」

 私はお父さんを見送ってから台所に行き、我ながら不器用な手付きで食器を洗い始めた。
 最初はどうすれば良いのかわからなかった家事も、最近はようやく形になってきた。
 初めの頃にいやと言うほどお皿を割っていたのが恥ずかしい。
 あのお父さんが、哀れな食器の残骸を見て微妙な笑みを浮かべていたくらいなんだから相当なものだったのだろう。最近は間違いをしないよう、教わったことをちゃんと口に出して確認するようになった。

「大きいお皿…は、下、と」

 思えば私は、そうした生活に直結するようなことを全く知らずに生きてきた。それをどう思うわけでもないけれど、今改めてこういうことを学ぶのは結構骨だ。
 感覚的に分かることというのがない分だけ、色々なものを習得しにくい状態なのかもしれない。

 冷たい水は、食器と一緒に私の手も流していく。

「…」

 ふと思い付いて蛇口を捻ると、しん、とした静寂が私を包んだ。

 一人の家は、静かだ。

 戦争が終わればお父さんも家にいてくれるのだと思っていたけれど、実際はそうではなかった。考えてみれば当たり前のことだけれど、生きていくためにはどこかで生活の糧を手に入れなければならないのだから。
 それに、お父さんが多忙な理由はもう一つある。
 私は全然その内容を知らないのだけれど、戦争が終わってからこちら、お父さんは英雄扱いされているらしい。
 多分、戦争中に何かあったのだろうけど…私は特に聞いてみるつもりもない。
 お父さんはどちらかと言うとそれを嫌がっているのが感じ取れるから。

 私も、何となくお父さんの気分が分かる。
 …そんなことはない、そう思うんだろう。
 自分は、そんな風に思って貰えるほど大した存在ではないのに―――…

 どこかで聞いたことがある。
 英雄とは、死者に与えられるべき称号なのだと。
 そこに付随していたはずの幾つかの理論はもう忘れてしまったけれど、なんとなく言わんとしていることは分かるような気がした。

 軽く息を吸う。

 …静かな部屋に一人でいると、やっぱり思い出してしまう。

 レンのことを。

 レンと会った最後の日から、もう一年が経った。
 世界はすっかり平和になり、私もどこにでも行ける体になった。
 少し前にお医者さんに見てもらったけれど、もう普通の人と変わらない位になっているらしい。その回復ぶりは、お医者さんが運良く残っていた私のカルテを見て首を捻るほどだった。
 まるで奇跡だ、と誰もが言う。
 そして私は、それが本当に奇跡なのだと知っている。

 …その代償は、とても大きかったけれど。
 
 水で濡れた手を拭き、私はのろのろと鏡の部屋へ足を向けた。

 今でも私は夢を見る。
 鏡を挟み、レンと笑い合う夢を。
 そして、目を覚ましては泣く。何度そんなことを繰り返しても、何も変わらないんだと分かっているのに。

『リン。外には出ないのか』

 お父さんにそう尋ねられたとき、私は黙って首を横に振った。
 鏡の前から動く気にはなれない。
 もしもそれでレンに会う機会をなくしたら、と思うと、とても無理だった。

『…そうか』

 何か言われるかと思ったけれど、お父さんは静かにそう言っただけだった。
 お父さんが何を考えてそう返したのか、私には分からない。
 けれど、私はその言葉に甘え、日がな一日鏡を磨いて暮らしている。勿論家事も多少はするけれど、本当に少しだけだ。
 そんな自分が、我ながら嫌になることもある。

 私はあの日に囚われたまま。
 折角平和になって、元気になれて、世界を広げることも出来るようになったのに、私はあの部屋から、あの 鏡から離れられない。

 今ではもう、ただの鏡でしかないのに。
 今ではもう、彼が応えてくれることはないのに。

 この依存は良くない事なのだと自覚してはいる。レンだって、こんな結末はきっと望んでいなかった。
 けれど。

 けれど―――…

「…レン…」



 ―――会いたいよ…



 飾り気のない木の扉に手を当て、私は深い溜め息を吐いた。

 いつになったら、この思いは風化するんだろう?
 何度も思い出す。
 彼の優しい笑顔に感じた愛しさと、結局私は何もしてあげられなかったという後悔を。
 考えるのも嫌だけれど、もしもレンに二度と会えなかったら―――そしてこの思いが風化しなかったら。
 そうしたら私はずっと、この感情に縛られたままなんだろうか。

 彼を重荷にして…生きていくのだろうか。

 ……そんなの、嫌なのに。

 ぎゅ、と瞼を閉じて取っ手を回す。
 掌に感じる軽い抵抗感。
 目を開くと、そこには狭い部屋が広がっている。

 電球がないせいで薄暗く、外気が通うせいで肌寒い部屋。
 けれど、わたしにとってはすっかり馴染んだ、見飽きるほどに見慣れた部屋。



 ―――の、筈だったのに。



 扉と目を開けた姿勢のまま、私は、金縛りにでもあったかのように動けなくなってしまった。

 鏡の前に、一人の少年が座っていた。
 金髪で青い目で、年の頃も私とそう違わないような少年。
 でも、その綺麗にとかされた髪や綺麗な服も、やっぱり浮き世離れしたものに見えた。お世辞にも綺麗とは言い難い部屋の中にいたからかもしれない。首元に白いラインが一本入ったタートルネックと、長い、厚手の黒い上着。
 まるで、…そう、あの日彼がふざけて黒い布を肩に掛けてみせた、あのときのような格好。

 ―――最後に見た彼の服装と全く同じ、その格好。

 驚いて固まる私の前で、彼は少しだけ目元を緩ませ、床に両手をついて立ち上がった。よいしょ、なんて掛け声が信じられない。
 差し込む日の光に、その金髪がきらきらと輝く。
 鏡越しにしか聞くことのなかった声が、私の世界に響く。触れられるはずのなかった手が、腕が、私に向かって伸ばされる。
 …綺麗な手。
 そんなことをぼんやりと考えながら、私は馬鹿みたいに突っ立ったままで彼の顔を凝視していた。

「ごめん、ちょっと迷ってた。…久しぶり、リン」

 何故、そんなに普通に挨拶してくるの?
 というか、これは本当に彼なの?
 どこにも劇的なところがなくて、だからこそ私は混乱してしまった。

「…あなたは…誰?」

 期待と不安に心臓が捕まれるような感覚を感じながら、問いかける。
 彼はちょっとだけ首を傾げて、困ったように笑う。
 その笑顔が見慣れたものであることに気付いて、胸が締め付けられるような気分になった。

「僕は魔法使いさ」

 ゆっくりと、慈しむように髪が撫でられる。
 髪から、頬へ。遊ぶように指先が滑る。
 あたたかい。温もりが確かに伝わる。

 感じる。

 ―――感じる。

「というか、分かってるでしょ?リンが願ってくれたんじゃないか、『いかないで』『そばにいて』って」
「…だって…だって、…嘘」





 少女の掠れた声に、少年は小さく笑った。
 初めて言葉を交わした、あの日のように。

「僕は魔法使いだって言っただろう?君の願いを叶えに来たんだよ。…まあその場で叶えるなんて一言も言ってないし、その辺は見逃して欲しいかな。何分未熟者だから」

 窓からの風に吹かれて舞い上がる埃が、ほんのりと輝いた。
 世界が、煌めく。
 その中で少年は言葉を繋いだ。あの日のように。



「『さあ、お嬢さん。君の願い事は何?何でも叶えてあげるよ』」



 ただ、あの日と違うのは、少女が少年の胸に縋り付くことができるということ。
 少年が少女を抱き締められるということ。
 二人はしっかりと抱き合った。
 もう二度とその温もりを離さなくて良いのだと確かめるかのように。
 溜め息のように絞り出された声は、相手だけに伝わる。
 それでいい。
 
「やっと…会えた…」
「…そうだね」
「ずっと待ってたんだよ…レンならきっと、…」

 く、と少女の喉が鳴る。
 言葉を紡げずに小刻みに震えるその肩を、少年はしっかりと抱いた。

「……待たせて、ごめん。あんな酷い別れ方してごめん。…君を、傷つけたよね…」

 いいの。
 少女は首を振って、声にならない声で囁く。

「いいの、そんなの…いいの」

 自分を取り巻く全てのことが幸せな結末を迎える、なんて都合のいい事は、ない。
 それでも、少年と少女は黙って鼓動を重ねたままでいた。
 今、ここに彼が、彼女がいることだけは確かなのだから。
 ここにこうしていられること。それが何よりも幸せだった。



 もう、彼らが奇跡を願う必要はない。





 やがて時が過ぎ、遥かな未来で子供たちが彼らに尋ねるだろう。
 古ぼけた、それでも精巧な作りをしている、部屋の片隅に丁寧に置かれた鏡の由来を。

 その度に彼らは顔を見合わせて少しだけ微笑む。
 そして、こう答えるのだ。

「これはね、魔法の鏡なんだよ」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

魔法の鏡の物語・物語の終わり

やっぱりハッピーエンドが良いです!
これで連作は終了になります。お付き合い下さった皆様、ありがとうございました!

年明けぐらいにアフターと称して、再会後のリンレンの会話をちょっと書きたいと思います。ラブラブだ!ラブラブが書きたいんだ!



↓これから下妄想(リンちゃんなう)
・全然家事が出来ないリンちゃんがそれでも頑張って黒こげの料理を出して、レンがめっちゃ苦笑いしているとかいいと思います。
・すっかりひきこもリンで人見知リンになったリンちゃんをレンが頑張って外に連れ出してくれるといいと思います。
・それで外に出たら出たでちょっと常識のずれているリンちゃんにレンがはらはらするといいと思います。
・リンちゃんなう!

閲覧数:567

投稿日:2011/12/31 20:11:20

文字数:3,922文字

カテゴリ:小説

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  • 鈴歌

    鈴歌

    ご意見・ご感想

    あけましておめでとうございますっ
    1話からずっとみていましたがこのお話、大好きです!
    あ~ハッピーエンドでよかったぁ~
    バッドエンドだったらもぅ寝れませんでしたねw

    2012/01/03 01:46:43

    • 翔破

      翔破

      あけましておめでとうございます、そしてコメントありがとうございます。
      長らくこの連作にお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
      なんとかハッピーエンドに持っていくことが出来ました!よかったー!
      これはKagaminationというCD収録曲なのですが(販促)、本当にいい歌なので少しでも気に入って頂けたのなら幸いです。

      これからもマイペースにやって行くことと思いますが、どうぞ今年もよろしくお願いします!

      2012/01/03 22:59:08

  • 目白皐月

    目白皐月

    ご意見・ご感想

    こんにちは、目白皐月です。
    あけましておめでとうございます。
    そして完結おめでとうございます。私もやっぱりハッピーエンドがいいと思います。
    なんだか色々ありましたが、最後の二人が幸せそうで良かったです。

    ところで、あの鏡は結局どういう理屈だったのでしょうか?
    その辺りがよくわかりませんでした。

    ちなみにその後ですが……。
    レンが軽い気持ちで嘘を教えて、リンがそれを全部信じてしまい、とんでもない行動を取ろうとするのを、レンが泡をくって止めたら可愛くないかな~とか思いました。

    2012/01/01 00:59:47

    • 翔破

      翔破

      明けましておめでとうございます!
      この連作に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。なんとか本編は一応の完結を迎える事が出来ました。一安心です。

      鏡の件については、設定を語れる立ち位置にいるキャラがいないので結局設定を出せずじまいでした…。一応あの鏡の持っている特性としては、
      ・レンの世界はリンの世界を、リンの世界はレンの世界を覗ける
      ・ただしその為には両側に人がいることが必要
      ・特殊能力として、レン→リン方向への物の移動が可能
      という感じです。

      2012/01/02 12:08:16

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