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音楽も、映像も、文字や絵画でも、作品を鑑賞するということに我々は少なからずエネルギーを消費しているんだろうと思います。何らかの作品に触れるということは脳が情報を処理しているということで、当たり前といえばそうなんですが。
私たちがそういった作品に触れようとする際、「作品から受け取る情報の価値」と、「消費するエネルギー」というのを無意識下で瞬時に天秤にかけます。youtubeとかtiktokとかで動画漁ったり、突き詰めるとX(旧ついったー)なんてのもそういう行為じゃないかなと。
ここから本題で、「この作品は自分にとって価値があるかどうか判断できない」作品が「飛ばされる」という事実について理解しておかなきゃいけないよね、という話です。
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作品というのは世の中に星の数ほどあるので、「価値があると思われた」作品だけが触れられ、「価値なし」は言わずもがな「判断保留」の作品までも飛ばされてしまうのです。
確かに私自身、たまにほかの方の音楽作品を聴こうとする時にいきなりサビ探しするなんてことはなく、テキスト作品であっても最初の1行だけで読むかどうかを判断しています。
つまり、飛ばされないように作品に触れてもらうためには、少なくとも「この作品はこんな作品です」というのが瞬時に分からなければいけないと思うのです。
映画のアバンタイトルとか、小説のプロローグとか、音楽でいえばイントロでしょうか。動画だったらサムネ、週刊誌だったら記事の見出し、、、などなど。「結論を先に」というのもそれに類似する考え方かもしれません。
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何度か、「サビだけでも聴いて!めっちゃイイから!」と他人に曲を薦められたことがありますが、その度に心の中で思ったものです。「そうでしょうとも」と。作曲に携わった方々が良いと思った結果、そのサビが生まれたわけです。共感する人も世の中には居るでしょう。
そもそも、作品の価値なんてものは鑑賞者や閲覧者のそれぞれ個々の中に生まれるものであって、例えばクラシックの名曲といわれるものがある人にとってはまったく価値を感じられないものだったりするわけです。普遍的な価値のある作品は存在しないと思うのです。モナリザの価値だって私にはさっぱり分かりません。
触れてもらってこその芸術、と誰かが言ってた気がしますが、私たちは作品に触れてもらうための努力というのが必要なのかもしれないです。
そういうイントロを作れるようになりたい。
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