11.歌声#旋律♭産まれる世界
大きな黒いピアノが置かれている大きな部屋には、老人と少女と少年が立っている。
老人がすたすたと少年との距離を詰めてきた。
どうやら先程知り合った少女と関係のある人物であるらしいことは推測できたが、
名も知らない少々人間離れした風貌をしているこの老人の突然の接近に、
ライムはとっさに心の中で身構えた。
二人の距離がかなり縮まった所で、老人の右手が上がるモーションが見えた。
ライムは、それを見るなり、さらに心の中の警戒を強めた。
老人の口が静かに開いていく。
「やあ、君がライトニア君かね? 我々が今日一日君の護衛を任されたトラボルタに……」
老人は目線を後ろへやり、ドアの近くに立っている少女の方を見て、言葉を続けた。
「彼女がミクじゃ。よろしく頼むのぉ」
老人の言葉を聞き終えた頃には、ライムの警戒はなぜかすっかり解けていた。
軽調な喋り方のせいもあったが、何よりもミクとの関係が確認できたのが一番大きかった。
ミクがライムのピアノの音色に耳を傾けていた頃、トラボルタは始めに通された部屋で
執事である男性から今回の依頼内容を聞かされていた。
どうやら、今日はこの家が主催するパーティーがあって、その間だけこの家の主である
セル卿のご子息を見ていてほしいというものらしい。
概ねトラボルタがギルドで予想していた通りの内容であったが、
やはり依頼を出すにはそれなりの事情があった。そこがトラボルタの予想とは違う所だった。
護衛対象である少年は、何やら非常に希少な才能を有しているらしく、
それが原因で幼少の頃より、何度か誘拐など危険な目にあっているらしい。
以来、セル卿はご子息を家からは一歩も出さず、常に護衛をつけて守ってきたようだ。
ところが、今回のパーティーでは客人の護衛のために要員を割かねばならず、
日ごろご子息を護衛している者たちも、パーティー会場へ回さねばならなくなり、
今回、クリプトンにご子息の護衛の依頼を出したそうだ。
「護衛の方が来るとは聞いていましたけど、あなたの様な方だとは……」
ピアノから少し離れた所で、一つの机を挟んで、老人、少女と少年が分かれて座っている。
少年が老人に向かって、発した言葉に特に悪意はないようだ。
「いや、わしではないぞ? 正確には護衛を任されておるのは、この子の方じゃよ」
その言葉を受け、驚く少年の顔を見て、トラボルタは気分が良くなり、言葉を続けた。
「まあ、間違えるのは仕方ないのぅ。確かにわしも若い頃はブイブイいわせたもんじゃ」
トラボルタは、にたにたと口元を緩ませながら喋っている。
ライムは直感でこの話は長くなる事を悟り、とっさに大きな声で老人の言葉を遮った。
「あっ、あの……」
長話を遮る事には成功したが、この行為を成立させるには、この続きを言う必要があった。
「その…… ミクさんはメルターなんですか? いえ、その、悪い意味ではなくて……」
とっさの事とはいえ、ライムは自分の言葉に後悔した。
即座にフォローを入れてはみたが、相手の、特に少女の気分を害させてしまったかもしれない。
後からよくよく考えれば、少女がメルターであるのは一目瞭然だった。
肌を露出させない様にと、室内であるにもかかわらずコートを羽織り、手袋を着用している。
これは、他者への感電防止のためのメルター達の外出時の基本的な服装であると習った。
また、メルターたちが色々な偏見に苦しんでいることも知っていた。
彼自身はそんなことを一度も思ったことはないのだが、
もしかしたら心の隅にそういう偏見の心が転がっていたのかもしれない。
後悔はすぐに自責の念へと変わって行った。
その心の中の苦しみを察したのかどうかはわからないが、
トラボルタの登場以来、一度も開かれることのなかったミクの口がわずかに開いた。
「………………」
しかし、その口からは何の音も放たれることのないまま、再びその口は閉ざされてしまった。
あるいは、何か話していたのに聞こえなかっただけかもしれない。
その後、ミクは一度だけうなずいてみせた。
ライムの耳には、言葉は聞こえなかったが、
――気にしてないよ、大丈夫
と少女から言われたような気がした。
ライムが心配したことなどは、端から気にもしてないトラボルタは突然、
「そうじゃ、執事さんから聞いたが、ライトニア君はピアノが上手じゃとか……。
どうじゃろ? こうやっておってもアレじゃし、一曲演奏してはくれんかの?」
相変わらず空気を読むことを知らないこの老人の提案に、ライムは快く応じた。
少年はスッと立ちあがり、部屋の目立つ場所に置かれている大きな黒いピアノへと戻った。
ピアノの前に置かれているピアノと同じ色をした椅子に腰かけると、
ゆっくりと静かに鍵盤のふたを開いた。そして、目をつむり、軽く深呼吸――
体全体をゆっくり動かしながら、譜面の置かれていないピアノの鍵盤をたたき始めた。
ゆったりとした曲のリズムにシンクロするように、少年の体も揺れ動いている。
また、少年の十本の指の動きに合わせて、音が次々とこの世界に産み落とされる。
そして、その音が繋がり、音楽が作られていく。
部屋の中のエーテルを彼の音楽が満たしていく。
まるで、世界からこの部屋だけが切り取られ、宙を漂っているような錯覚さえおぼえる。
彼の産み出す音楽は不思議な魅力があった。
部屋を満たしている旋律に、どこからか歌声が重なるようにのってきた。
鍵盤をたたく手を止めることのないまま、ライムは閉じていた目を開いた。
先程まで、言葉少なだったあの少女が立ちあがり、自分の旋律に合わせて歌声を奏でている。
その歌声に背中を押されるように、ライムの演奏がより新たな段階へと引き上げられていく。
演奏を続けるライムは、かつて感じたことのない感覚をはっきりと感じていた。
自分の産み出す音と少女の産み出す声が、部屋の中心で出会い、混ざり合い、溶け合い、
全く新しい世界が産まれる瞬間を――。
産まれたばかりの世界は、あっという間に部屋を包み込み、そして満たしていく。
そして、少年は感じていた。自分が今感じているこの感覚を少女も同様に感じているのだと。
今まで断ち切られていた繋がりが、二人の間に結ばれるそんな感覚を――。
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