舞踏会が終わってから、数日が経過しました。そのころには、舞踏会に出た不思議な少女のことが、街の話題になっていました。最初の日には銀のドレスを、二日目には金のドレスをまとって現れた、美しい少女。自分の名前も、どこから来たのかも告げず、片方の靴だけを残して、消えてしまった少女。王子は残された靴を手許において、ずっと何か考え込んでいる……うわさは、そうなっていました。
リンは相変わらず、汚れた格好で厨房で働いていました。厨房にも、街のうわさは届いています。リンは無視されていたので話に加わることはありませんでしたが、うわさ自体は耳に入ってくるのでした。
「なんだか変な感じがするの。わたしが街のうわさになっているというのが」
夜になって魔法の部屋にやってきたリンは、レンにそう打ち明けました。
「君がきれいだからだよ」
レンがそう言うと、リンは恥ずかしそうに頬を赤らめました。そんなリンの様子を、レンは可愛らしいと思いました。
「あの舞踏会のことは、一生の思い出にする。本当にありがとう、お魚さん」
「……大したことじゃないよ」
そう答えながら、レンは、胸の中に苦い気持ちが広がるのを感じていました。リンは、こんなところでこき使われていてはいけないのです。リンが幸せになるには、ここを出なくてはなりません。
……カイトなら、リンをここから連れ出すことができるし、幸せにしてくれるでしょう。それが、リンのためです。
何度もそう思ったものの、レンは複雑でした。リンとカイトがいっしょにいるところを見たくない。どうしても、そう思ってしまうのです。
それに……リンがカイトに連れられて、お城に行ってしまったら、自分はどうなるのでしょうか。もちろん、リンはレンも連れて行こうとするでしょう。カイトにしても、可愛がっている魚を連れていきたいとリンが言えば、反対はしないはずです。でも……それは、レンが嫌でした。リンとカイトがいっしょにいるところを見たくない……どうしても、そう思ってしまうのです。
リンがここを出て城で暮らせるようになったら、自分はどこかへ逃がしてもらおう。もちろん、リンには頼めないでしょうから、ルカに頼むしかないでしょう。ルカが自分の望みを叶えてくれるかどうかは難しいところでしたが、何故か、これは断られないだろうという気がしました。
そして、ある日のことです。いつものようにリンは厨房で働き、レンはリンを見守っていました。そこへ、興奮した様子で、使用人の一人が駆け込んできました。
「王子様がいらしてるよ!」
「王子様? なんでまた?」
「この前の舞踏会で会った女の子を探しているんだとさ。残していった靴しかないから、街中の家を回って、すべての若い子に靴をはかせてみるんだと。これから、広間でお嬢様がその靴をはいてみなさるそうだ」
「でも、お嬢様はその女の子じゃないんだろう?」
「靴さえ足にあえば、後は言いくるめられるって思っていなさるんだろうね。見に行ってみようよ」
人々は、広間へと行ってしまいました。リンはしばらく辺りを見回していましたが、そっと後に続きました。レンも、魔法で後を追います。
広間には、屋敷で働く人たち皆が、つめかけていました。カイト王子と、従者たちもそこにいます。レンの記憶と比べるとすっかり大人になっていましたが、レンにはカイトがすぐにわかりました。
カイトの前には、クッションに乗せられた金の靴がありました。間違いありません。リンが落としていった靴です。
お嬢様は自分がはいていた靴を脱ぎ、金の靴に足を入れようとしました。ですが、入りません。足が大きすぎるのです。お嬢様はむっとした様子で、足を引っ込めました。
「他の方も試してみてください」
カイトの従者がそう言ったので、つめかけていた人たちのうち、女性たちはこぞって足を靴に入れようとしました。従者が「一列に並んで!」と声をかけています。カイトは何も言わず、それを眺めていました。リンもそこにいるのですが、汚れているので、誰だかわからないようです。
リンは靴を試してみようとする人たちを眺めていましたが、不意にくるっと背を向けると、広間を出て行ってしまいました。困ったのはレンです。リンにはカイトの目の前で、靴をはいてもらわなければならないのです。ですが、今の状態では、レンにはリンに声をかけるすべがありません。
リンは庭に出ると、池に向かいました。池のほとりにしゃがみこみ、水面に向かって「お魚さん、来て。話したいことがあるの」と呼びかけています。レンはあわてて意識を身体に戻し、水面に浮かび上がりました。
「リン、どうしたの?」
「……王子様が来てるの。靴を落としていった女の子を探しているって」
「行って、自分ですって言えばいい」
「……この格好で?」
リンは水面に視線を落としました。汚れたリンが映っています。
「頭がおかしくなったと思われるわ」
レンは困ってしまいました。確かにこれだけ汚れていれば、カイトにもリンが誰なのかわからないでしょう。今は昼ですから、リンをあの部屋に入れることができません。
何か方法はないだろうか。なんでもしてやりたいのに。そう思ったとき、リンとレンの目の前に、金の靴が現れました。落とさなかった方の靴です。……どうやら、魔法は思ったよりも融通が効くようでした。
「これを持っていけばいい。もう片方があるんだ。信用してもらえるよ」
「でも……どこからか盗って来たんじゃないかって、言われるんじゃない?」
「君の足にしかあわないのに?」
ルカが用意してくれた不思議な靴です。リン以外の人はきっと、はけないでしょう。
「心配しなくても大丈夫だから、行っておいで。そして、王子様にお城に連れて行ってもらうんだ」
リンは、びっくりしたように目を見開きました。
「どうしてそうなるの? 王子様がわたしを探しに来たのは、きっと靴を返しに来ただけよ。わたしが靴をなくしたのは自分のせいって、そういうふうに思われたんだわ」
「その程度のことで、王子自らやってきたりしないし、一晩中君と踊ったりもしない。王子はきっと君が好きなんだ。だから、連れて行ってもらいなさい」
「お魚さんといっしょに?」
レンが予想したとおりのことを、リンは言い出しました。ですが、この件に関する、レンの心はもう決まっていました。
「僕は……行かない」
幸せになる二人を、レンは見たくありませんでした。それには、リンとここで別れるしかないのです。
レンは、そう決めていました。ですが、リンはゆっくりと首を横に振りました。
「じゃあ、わたしもお城には行かないわ」
レンは困ってしまいました。リンがこんなことを言い出すとは、思っていなかったのです。
「リン、自分の状況のことを考えて。君は、ここにいるべきじゃない。今ままではなんとか、僕が君を助けてあげることができた。でも、僕にできることはこれが限界なんだ。この屋敷の奥様は、君に対して、何かもっとひどいことを思いつくかもしれないし、その時、僕は君を助けられないかもしれないんだ。だから王子のところに行って……」
「いやよ!」
リンが強い調子で言ったので、レンはびっくりしました。
「いったいどうしたの。王子はいい人だし、リンだってすてきな人だって言っていたよね」
「でも、王子様のことはろくに知らないわ。舞踏会で二晩いっしょに踊っただけよ。そんな人から好きって言われても、わたしには受け入れられないし、よくわからない。それに、お魚さんを置いていけない。ずっと助けてくれたお友達を置いていくようなことは、したくないの」
リンは、レンが思っていたのよりもずっと頑固でした。もちろん、リンがこう言ってくれて、うれしいという気持ちもありました。でも、それでは困るのです。こんなところで、ずっとこうしているわけにはいかないのですから。
「いいから僕の言うとおりにしてくれ。僕なら一匹でも大丈夫だから。普通の魚じゃないのはわかっているだろう?」
「じゃあどうして、魚屋さんで売られていたの? お魚さん、もしかして、自分で自分を守ることはできないんじゃない?」
痛いところを突かれ、レンは黙る羽目になってしまいました。実際、ルカがどの程度、自分のことを気にかけてくれているのか、それはよくわからないのです。もしかしたら、レンのことなどどうなろうと構わない、そんなふうに思っているのかもしれません。
「とにかく、僕は大丈夫だから」
「どうして? どうしてそんなことを言うの? お母さんがお魚さんを買ってくれたときから、ずっといっしょにいたわ。辛くてもお魚さんがいてくれたから、わたしはがんばることができた。これでお別れなんて、いやよ!」
「いつまでも魔法に頼るべきじゃないし、君は幸せにならないといけないんだ。死んだお母さんだって、それを望んでいる。だから、君は行くんだ!」
レンは、強い調子で言いました。でも、リンは承知してくれません。かたくなに、首を横に振り続けます。レンは困り果てました。どうやったら、リンをカイトのところに行かせることができるのでしょうか。
「……リン、僕はもうじき、消えてしまうんだ。そうなったら、もう君のために何もしてあげられない」
リンが瞳を見開き、呆然としてレンをみつめました。これなら上手くいくかもしれない。そう思ったレンは、言葉を続けます。きりきりと心が痛むのを感じながら。
「僕からの最後のお願いだ。王子のところに行って、舞踏会で踊ったのは自分だって言ってくれ」
リンの瞳に涙が浮かんでいます。こんな嘘をついてしまってすまないとは思うものの、レン自身、本当に消えてしまえればと思っていました。リンのいない人生は、どれだけ味気ないことでしょう。そんな時間を過ごすくらいなら、消滅した方がましだと、レンは思いました。
「……もしかして、わたしのせい? わたしのために魔法を使って、舞踏会に行かせるなんてことをしたから、だから、お魚さんは消えてしまうの?」
「違うよ、君のせいじゃない」
リンが悲しそうな声でそう言ったので、レンはあわててそれを否定しました。自分がリンの前からいなくなったとしても、そのことでリンの心に陰を落としてはならないのです。
「これは君とは関係ないところで、起きてることなんだ。だから自分を責めたりしないで、幸せになることだけを考えてくれ」
リンは芝生の上に手と膝をつき、レンに顔を近づけました。小さな声で、こう言います。
「……お魚さん。わたしの大事なお友達」
リンの唇が、静かにレンの額に触れました。そして、次の瞬間。
辺りは、まぶしいくらいの金色の光に、包まれました。
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