第二章 ミルドガルド1805 パート18

 静かな夜であった。物音はリンとハクが踏みしめる土の擦れる様な音と、周囲の叢で嘶く蟋蟀が鳴く声だけである。場所はロックバード邸の裏庭であった。この場所ならば未だ眠りにつく気配も無い街の明かりに邪魔されることは無い。今宵は月もなく、ただ星の瞬きだけがリンとハクの身体を照らしつけた。
 「こうして星を見るなんて、久しぶりね。」
 立ったまま夜空を見上げたリンはハクに向かってそう言った。今の自分の立場は生まれた時からまるで変わり果ててしまったが、この星空だけはいつまでも変わらない。人も景色も変化してゆくものだけど、夜空だけはいつまでも変わらない気がする。リンがそう考えながら星の瞬きに瞳を細めたとき、ハクが唐突にこう言った。
 「昔ね、ミクさまと星を見たの。」
 「星を?」
 首の角度を一度戻してハクの横顔へと視線を移しながら、リンはそう言った。そのハクは星空を見上げたまま、リンに向かってこう言った。
 「ええ。最後に行われた遊覧会の始まる前日。全ての準備を終えた後、ミクさまに星を見ないかと誘われたの。」
 あの時は、まさかこんなことが起こるとは想像もしていなかった。カイト王の不審な行為は気にはしていたものの、まさかミルドガルド大陸全体を巻き込む大戦争があの直後に発生するとは考えてもいなかった。結局あたしがミクさまに仕えた月日は本当に僅かの期間だったけれど、ミクさまは今もあたしの心の中で生きている。ハクはそう考えながら、リンに向かって言葉を続けた。
 「ルータオにいた時、このクリスタルが異世界との扉を開く鍵だって、ルカ様が仰ったでしょう?」
 そう言いながら、ハクはルータオを出発してからずっと首から下げている王家のクリスタルを胸元から取り出した。まるで小さな恒星のように瞬くクリスタルをリンに向かって翳した時、夜風が流れて、リンとハクの服の裾を微かにざわめかせた。
 「リンは異世界の存在を信じる?」
 「分からないわ。」
 リンはそう答えた。軽い足踏みをするように一度身を捩じらせて、視線を大地に向けながら。そのリンの姿を見つめながら微かに口元を緩めたハクは、過去を懐かしむような口調でこう言った。
 「あたしは信じるわ。」
 「どうして?」
 「その時、ミクさまがこう仰ったの。『この星空の向こうに私達と同じような生活をしている人がいるような気がしてならないの。』と。」
 その言葉に、リンはもう一度視線を夜空へと移した。そして、こう答える。
 「この星達の中に?」
 「ええ。だってあたし達の大地だって、宇宙を回る一つの星に過ぎない訳でしょう?」
 「コペルレイの地動説ね。」
 納得を示すように頷きながら、リンはそう言った。それに対してハクはこう答える。
 「だから、この星空の中に必ず別の、あたし達のように生活している人間がいる。きっと異世界とはそんな星のことを指すと思うの。」
 「宇宙の中に、かぁ。」
 ルカが言ったゲートとは別の星とを繋ぐ道路のようなものなのだろうか。リンは星空を見上げながらその様なことを考えた。その星の一つにレンがいるのだろうか。その世界のレンはどんな人間なのだろう。あたし達のように、双子の妹がいるのだろうか。それとも、あたしに良く似たリーンのように一人っ子なのだろうか。でも、そのレンはレンであってレンでは無い存在だろう、ともリンは考えた。あたし達が過ごして来た日々のことを、多分そのレンは知らない。そのレンと仮に会えたとして、あたしはそれで喜ぶことができるのだろうか。分からない。やはり、レンにもう一度逢うなど敵わぬ夢なのだろうか。それでも、とリンは考え、ハクの耳にも届かないような小さな声でこう呟いた。
 それでも、逢いたいよ、レン。

 リーンが目を覚ました時刻は、まだ夜が薄暗い頃合であった。昨晩は早い段階で就寝できた所為か、身体が妙に軽い。これなら今日の旅は問題無さそうね、とリーンは考えてから、今からどうしようかと考えた。起きる時間にしてはまだ早い時間ではあったが、もう一度寝るには目が冴え過ぎている。せっかくだし、朝の空気を堪能しに行こうか、とリーンは考えて、心地よい反発力を持つベッドから起き上がった。そのまま手早く着替えを済ませて部屋を出る。他のメンバーはまだ就寝の最中なのだろう。静かな館で必要以上の物音を立てぬように注意しながらリーンは廊下を歩いていくことにした。板張りの廊下が僅かに軋む。そのまま二階から階下へと向かい、正面玄関から外へと足を運んだ。
 「ん、気持ちいい。」
 思わず声が漏れたのはそれだけ朝のさわやかな空気がリーンを満足させたためであった。普段排気ガスに汚れた空気ばかり口にしているものだから、本当の意味で穢れの無いこの時代の空気はまるで肺を浄化してゆくような感覚さえ覚えるのである。そのままリーンは自然な動作で寝ている間に固まった身体をほぐすように思いっきり背伸びをした。血液が流れて身体が目覚めてゆく感覚をリーンが味わっていると、少し離れた視界の端に赤髪の女性が剣を抜いて静かに構えている姿が目に入った。メイコである。相対する人間はいない。剣の鍛錬でもしているのだろうか、とリーンが考えていると、メイコが唐突に虚空に向かって剣を振り上げ、そして一瞬の後に鋭く振り下ろした。戦の経験がないリーンであっても理解できるほどの気迫を間に受けたリーンは思わず瞳を瞬かせて、こう呟いた。
 「凄い。」
 その声がメイコ届いたのかは分からないが、満足した様子で剣を鞘に収めたメイコはおもむろに振り返り、リーンの姿を見つけるとこう言った。
 「リーン殿。お早いですね。」
 メイコはどうやらリンとリーンをその服装で見分けているような節がある。旅の途中で何度かルカから借りたこの時代の服を身に着けていた時はどちらがリンか分からないという表情を良くしていたからだ。今日は久しぶりに現代から着用している普段着を身に着けているから容易に判断が付いたのだろう、とリーンは考えながらメイコに向かってこう言った。
 「昨日は早い時間に休めたから。」
 「良い傾向ですわ。」
 「メイコさんは何をやっていたの?」
 リーンがそう訊ねると、メイコは軽く自身の愛剣の柄に手を置きながらこう言った。
 「剣の鍛錬を。一日でも欠かすと気持ちが悪いので。」
 その答えを耳に受けながら、現代にいるメイ先輩も今のメイコと同じように日々の鍛錬は欠かさず行っているのだろうか、と考えた。あれからもう二週間以上の時間が経過しているけれど、現代に置いて分かれてきた人たちは今何をしているのだろう。リーンは唐突にその事実を思い出し、僅かに瞳を落とした。ハクリに逢いたい。リーンが思わずそう考えた時、メイコが案じるようにこう訊ねた。
 「どうされたのです、リーン殿。」
 「現代に置いて来た人たちのことを考えていたの。」
 リーンが苦しそうに放ったその言葉に対して、メイコは力強く微笑むとリーンに向かってこう言った。
 「迷いの森に行けば、戻る方法もきっと見つかるでしょう。」
 その笑顔が余りにもメイに似ていた為に、リーンはやはりこの女性はあのメイコなのだろうか、と考えた。ならあの時ゴールデンシティで出会った長身の男性はメイコの将来の夫であるアレクということになる。この後、数年以内にレンとメイコが反乱を起こし、そしてミルドガルド帝国を打倒する。それはリーンが学んできた歴史であった。だが、レンはもうこの世界には存在していない。代わりに存在していたのは死んだはずのリン。或いはこれから向かう迷いの森で、本当に異世界からレンを呼び出すつもりなのだろうか。ミルドガルド共和国設立の最大の功労者であるレンは異世界人?ならば革命戦争後にレンの存在が消えたのはレンが元いた世界に戻ったためだろうか。荒唐無稽な推測だとは十分に理解できたものの、一応の説明がついてしまう推論にリーンが一人頭を悩ませていると、メイコが勇気付けるようにこう言った。
 「さぁ、リーン殿。そろそろ朝食の支度もできるでしょう。腹が減っては戦ができぬと昔から言い伝えられております。」
 メイコはそう言って、リーンを促すように歩き出した。メイコ。後の世に文章となり、ドラマになり、そして映画化されるほどの指導力を持った実在する人物。但しその姿は英雄ではなく、悲劇のヒロインとして。
 「待って。」
 思わずそう声をかけたリーンは、不思議そうな表情で振り返ったメイコの姿を見て口を閉ざした。あたしがここで何かを言えば、歴史を変えることになる。でも、言えば歴史は変わるかも知れない。その重圧にリーンは打ち負かされるような戸惑いを覚えたのである。
 「どうなされましたか、リーン殿。」
 落ち着いた口調でそう訊ねたメイコに対して、リーンはしかしなんでもない、と小さな声で答えることしかできなかった。その歴史を伝えることはできない。リーンはそう考えたのである。それは誰の手によっても動かしがたい、不可避の歴史であったからだ。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

小説版 South North Story  36

みのり「第三十六弾です!」
満「嫌な終わり方ですまん。」
みのり「本当だよね。何が起こるのかしら。」
満「今はご想像にお任せするしかないな・・。」
みのり「そうだね。では次回もお願いします!今週もう一本できるかなぁ・・?」

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投稿日:2010/09/12 19:43:11

文字数:3,736文字

カテゴリ:小説

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  • wanita

    wanita

    ご意見・ご感想

    おひさしぶりです!
    連休だということで、日ごろのストレスを発散するように書いては読み、読んでは書きの日々(二日目)です^^
    コペルレイ!出ましたね~なつかしい。あのころからこの時空を飛び越える伏線を用意されていたのですか?
    理系+おたく女子の自分としては「まぜるな危険ー!」と思わず叫んでしまった彼とここで再会(説だけですが)したことに、やっと伏流水が川の表に出たような気分になっております☆
    では続きも楽しみに読んでいこうと思います。

    2011/05/04 02:36:29

    • レイジ

      レイジ

      お久しぶりです?
      コメントありがとう^^

      俺は書いてばっかりです^^;(作品が終わる気配がない。。)
      そうです!
      実はそのくらいにはSNSの構想があったというか・・。
      SNSを書きたくてハルジオンから書き直したという感じだったので^^;
      コペルレイはたぶんこのまま説だけの存在で終わる予定ですけど。。

      ではでは、次回も宜しくお願いします☆

      2011/05/04 09:24:19

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