32.鳴く風、巡る音
「生きたい。生きて、この国の行く末を見たい。」
……それが黄の国の巨星、ホルストの最期の言葉となった。
小さな鞄に全ての荷物をまとめ、メイコは長く暮らした城を出た。中身は全て金貨だった。リン女王から頂いた、退職金だった。
服も本も、思い出も全て城で処分するように、出会った召使に頼んだ。メイコはホルストの血と自らの小便で汚れた服を、大きな布一枚で隠したのみで、ふらふらと城門を出た。
城壁の外に出ると、黄の国の熱い乾いた風が吹きつけた。市の日だというのに王宮前の広場には人影はなく、所々に残された屋台の骨組みが、風に壊れるままになっている。
疲れ果てた旅人か浮浪者が、城の壁のなけなしの出っ張りに寄り添い、風と太陽を避けている。うつろな目が、メイコを汚れた布の奥からちらりと覗く。しかしそれはすぐに興味を失い、そらされた。
異臭を漂わせ、ふらふらと歩くメイコもまた、疲れ果てた旅人であった。
がらん、がらんがらんがら、とメイコの足元に空の椀が転がってきた。干からびた素焼きの椀は、メイコの足に当たってぱきりと割れた。
「どうして……」
メイコの唇から声が漏れる。
「どうして……」
乾いた目が地面を見つめる。
「どうして、こんなことに……!」
ほんのたった数ヶ月前。この広場はにぎわいに満ちていた。
初夏の風に吹かれ、人があつまり、楽師が歌っていた。
足元で壊れた椀にも食べ物が盛られ、漂う香りに人が沸き立っていたはずだった。
「リン……レン……ホルストさま……!」
庶民に扮して町を歩き、快活にしゃべるリン。文句を言いつつもリンとともに素直な笑顔を見せるレン。そして、けっして清いやりかたでは無かったとはいえ、悪天に負けず領地を治め、黄の国に恵みをもたらし続けたホルスト。
リンが即位した。レンがそれを手伝った。ホルストが目の前で刺され、リンは教育係であるメイコに剣を突きつけ、凄惨に笑い……そしてホルストは無念を叫んで逝った。
どしゃっ、と足元に鞄が落ちた。中身の金貨が数枚零れた。メイコはそのまま立ち尽くした。変わってしまった全てを受け入れきれずに、立ち尽くした。
* *
「まさか、これほどの荒れようだなんて……」
吟遊詩人のルカは、黄の国に来て驚いた。
「青の国でリンが成し遂げた数々の素晴らしい行動を歌にして、黄の国に伝えればきっと良く儲かるだろう。可愛らしい幼い王女の素晴らしい機知は黄の人の心を掴むに違いない」
そう目論んで、ルカはリンたち一行とほぼ同じ日の船便で黄の国にやってきたのだった。
しかし、たどりついた黄の国は、一ヶ月前と状況は一変していた。
旱魃が幾日もつづき、人々の不安を煽り立てていた。水に税がかかり、さらに人の心をすさませていた。盛夏に向かって日に日に日差しは強くなっていった。衰えることなく照りつける太陽に、人々は家に閉じこもり、広場から物と人が消えた。
だれもルカの歌を聞く余裕など失っていた。
たどりついた海辺の町は、かつて貿易船と異国の船でにぎわっていたのだが、その商船も激減している。夜になると、生活の不安と将来の焦りに駆られて領主の館を襲撃する群衆の声が聞こえる。
「……想像以上に、酷いわね」
とりあえず王都に向って旅を続けたルカだが、主要な街道ですれ違うのは兵士に連れられていく男達ばかりだった。
「……兵士になれば、国が食料を回してくれるらしいんでね」
砂埃を蹴立てて早朝と夕方の闇の中を、黙々と男たちが歩いていく。ルカの商売相手になる商人たちには、ついに出会えなかった。そしてたどりついた王都で、ルカは、リンの即位を知った。その日立つはずの王宮広場の市は、立たなかった。国の民の祝う声無きままに、静かに黄の王はその代を替えた。
それでも、ルカは王宮広場に通った。どんなに『スカ』でも、今度は『黄の国はスカである』という情報を、他の国へ売り込めばよい。ルカには、世界中の国を巡り、必要とする人々に情報を売る『歌屋』であるというプライドがあった。ルカはその印である胸の『巡り音』のブローチをそっと撫でた。黒いベールの下で桃色の髪が汗ばむ。
「リン王女が女王になって、これで三日……」
ルカは、青の国で会った黄の国の一行を思い出す。
「医師のガク、お目付け役らしいメイコ、そしてリン王女、側仕えのレン……」
女王になってしまったリンはともかく、メイコやレン、それにどうやら異国から雇われたらしいガクには、なんとか接触出来ないだろうか。
ルカがそう思いをめぐらせていた時であった。
太陽が高く上り始めたころ、城門がゆっくり開いて、ひとりの女が出てきた。
陽を避けるために、他の浮浪者や行き場のない旅人たちと共に城壁に身を寄せていたルカは、ベールの下からちらりと女を見やった。
「……物乞いが追い出されたのかしら」
背の高いその女に風が吹きつけ、すえた匂いが鼻を突いた。体に厚手の布を巻きつけ、しっかりと鞄を抱えながら、ふらふらと広場を横切っていく。
一瞬だけあった目は、うつろに乾いていた。
「……血の匂い……これが怪我なら、あの女、死ぬわね」
ルカは目を逸らし、興味を失ったふりをしながらも注意深く様子を追った。何せ、城門から出てきたのである。何かしらの情報を握っている可能性も高い。
女からただよう血の匂いに、他の人間も遠巻きにして手を出せないでいる。ただし、ルカの見る限りでは痛みをひきずる歩き方ではない。
「……怪我をしているわけではなさそうね」
では、何が起こったのか。
事件だ。
ルカがついに声をかけようと膝を立てかけたその瞬間。
女が、広場の中央で立ち止まった。そして、どさりと荷物を落とした。キン、とかばんからこぼれて石畳に響いた音はたしかに、
「……金貨?!」
瞬間ルカは走った。間違いない、事件だ。情報だ。城の中で何かがあったのだ!
「ちょっとあなた、大丈夫!」
ルカは心配声と商売用の顔を作り、女を覗き込む。汚れるのもかまわずに、女の方にその白い手を回し、そっと肩を支える。
「何かあったの……」
うつろな目がゆっくりとルカを振り向いた。赤みを帯びた茶色の髪、荒み果てて汚れきってはいるが、たしかにルカの見知った容姿だった。
「あなた、メイコ……!」
ルカを認めた瞬間、女のうつろな目が狂気を孕んでぐるりと裏返り、その手が強くルカを引き寄せた。思わず帯に仕込んだ護身用のナイフに手を伸ばしかけたルカだが、メイコはそれ以上何もしてはこなかった。
「どうして」
唇から漏れた小さなつぶやきとともに、彼女はその場に崩れ落ちた。
まばらではあるが、城壁に張り付く人々の目にこのような状態の彼女をさらすのはあまりに酷だ。そう判断したルカは、人の目から隠すようにメイコを日陰に引き寄せた。
ルカがメイコの口に水を含ませ、髪の汚れを払ってやると、ぶつぶつとメイコの口からちいさくひしゃげた声と共に言葉があふれていく。
「どうして、リン。なぜ、レン。ホルスト様……シャグナ様、王様、王妃様……」
乾ききった目が涙を搾り出すように見開かれる。やがてつぶやきは嘔吐のような嗚咽に変わった。
そして、情報屋である『巡り音』ルカは、メイコがすべてを語るまで、ともに居ようと心に決めた。
「……こっちへ」
壁際にぎらついている好奇の瞳を避け、ルカは移動を開始した。
「わたしの宿に行きましょう。大丈夫。大丈夫だから……」
乾いた土の上に二人の女の影が濃くゆらめきながら、やがて蜃気楼にまぎれて砂の中の町へと消えた。
つづく!
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