この虚無感はなんだろうか。
空白の意識の中で、誰かが疑問を投げかけた。恐らく、僕ではないだろう。
頭の中から全て吸い出され、今や意識も感覚薄れていく人間に、疑問を持つことすら出来るはずがない。
あの日に、僕は一度死んだ。希望と至福に充ち満ちていた日々を過ごしていた網走博貴は死んだのだ。夢も希望も幸せも、あの日々の僕を構成していた全てが奪われたせいで、もはやあのような人間で生きては居られなくなった。だからこそ、こうして虚無に満ちた人間とかしてしまったのだろうか。
そしてこれからは、どのようにして生きるのだろうか。
事件の責任を負わされるのは、当然現場責任者である人間。本社が下してきた最も重い処置は、僕の解雇だ。本社が子会社全てを総動員させて取り組む一大プロジェクトの要を台無しにした失態から見れば、大して驚くべくもない結果だった。
僕と責任者だった鈴木君は解雇だけは免れて別の部署に左遷させられたようだが、詳細までは確認できない上、彼とは一切の連絡ができなくなっていた。
ただ、これで僕の身が無に投げ捨てられた訳ではない。確かに本社は僕のクビを切ったが、僕という人材が惜しいと別の組織に引渡すと付け加えたが、案外どうでもよい気分がした。なぜなら、僕はもう死んでしまったのだから。もう若き天才でもなく、夢を希望に向け育て上げていくわけでもなく、ただの男になってしまったのだから。こんな僕に、これ以上何をさせようというのだろうか。僕は、これからどんな運命を辿って行くというのか・・・・・・。
「ひろき。」
ふと背後から掛けられた声に、一瞬体が反応した。そして鈍い動作で体を起し、振り返ると、そこには黒髪を左右で分けた、義手義足の少女が立っていた。
「ああ、ミク。」
「どうして床で寝てる。」
「別に・・・・・・・。」
言葉を詰まらせている間に、既にミクは僕のそばに寄り添っていた。初めて義手義足を取り付けてから長い時間を経て、ミクも既に、感覚の無い手足を自分のものにしているようだった。
ぎこちなく揺れ動くミクの手が、僕の方に触れた。
「ひろき、元気じゃない。ひろきは、もっと元気。」
覚えたばかりの言葉を繋ぎあわせた無機質な言葉でも、その声と、僕を覗き込む真紅の眼差しから、本当に心から僕の身を案じてくれる、ミクの気持ちが伝わってくるようだった。
「ちょっと、嫌なことがあってね。落ち込んでるんだ、今。」
「いやなこと? いやなことって?」
「さぁ・・・・・・忘れてしまった。」
「ひろき・・・・・・元気、だして。」
今にも雫が零れ落ちそうな瞳の顔が、僕の胸に押し付けられた。思いのようには動かない手足を必死に動かし、精一杯僕の体を抱きしめた。
「わたしも、いや・・・・・・。」
「ああ・・・・・・そうだね。ごめんねミク。」
僕もミクの髪をそっと撫で下ろした。潤い、滑り落ちるような肌触りの黒髪は、素手で触るには綺麗過ぎるほど美しい。
そして、このミクの体温に触れてさえすれば、こんな胸中の暗雲などすぐに晴れてしまいそうな気がした。
そうだ、僕にはミクが居る。この温もりさえあれば、これ以上は何もいらない。たとえもとの僕に戻ることがなくても・・・・・・。
「ミク、ありがとう。なんだか元気が出てきたよ。」
「ほんと?」
ミクは途端に目を見開いて、今度は心底嬉しそうな顔をした。その表情は、あまりにも純粋に彼女の心を現してくれる。その一片の澱みもない純粋な瞳が、今の僕にとってもせめてもの癒しだった。
その時、インターホンの音が玄関から響き渡った。こんな朝から訪ねてくる人間など、鈴木君が消息不明な今、誰が居るだろうか? そんな疑問を抱きつつも、僕はなんの躊躇も無く玄関のドアを開けた。
「はーい・・・・・・。」
だが、目の前に現れた者の姿を見るなり、僕は一瞬眩暈のようなものを覚え、絶望か驚愕の入り交じった、凄まじい負の感情が一気に胸中へと殺到した。
「おはようございます。網走博士。」
彼は、爽やかな微笑を湛えてあいさつすると、小さく頭を下げた。紺色の制服と、その胸元できらびやかに輝く勲章。右の上腕部には、JDAF(Japan Defance Air Force)の文字が刻まれた、何らかのマーク。そう、その姿は正しく空軍将校の世刻・エウシュリー・アイルだった。背後には、黒服の男たちも控えている。
「そ、そんな?! なんで貴方が!」
突然目の前に現れた異様な風貌の集団に対し平常心を保てるはずがなく、僕は無意識に半歩引き下がり、完全に固まってしまった。
「そう驚か無くても良いではありませんか。今日は網走博士にとってとても重要なことをお話に来たのです。」
「じゅ・・・・・・重要な?」
「ええ。ですから、是非とも博士にそのことを詳しくお話して、貴方の意見をお聞きしたいんです。」
粗暴だったり不作法なことは無かった彼だが、今日はいつにも増して穏やかで、常に微笑を浮かべていることが、それこそなにやら罠に誘いこむような嫌らしい印象を感じさせたが、今ここで彼の頼みを断ることは、僕にはできない。
「ん・・・・・・どうしました。ああ、彼らが気になるのですね?」
あまり僕が判断に困り沈黙しているせいなのか、彼なりの配慮なのか、世刻大佐は背後に合図を送り、黒服の男達をその場から立ち退かせた。
「さ、これで良いですか。玄関先では話せない重要な事ですから、よろしければ上がらせていただいていいですかね?」
「え!」
心臓を針で射ぬかれたように、鋭い緊張が背筋を走った。
今家に入れば、間違いなくミクの存在に気づかれてしまう。もしそうともなれば・・・・・・その先は、想像することもできない。ただひとつ言えることは、非常にまずいということぐらいだ。
だがしかしやはり拒否はできない一本道だ。何故僕にはこうも選択肢がないのだろうか?
「分かりました。上がってください・・・・・・。」
僕はシャツの中で滝の如く汗を流しながら覚悟を決めて、彼を招き入れた。
◆◇◆◇◆◇
ミクはリビングで大人しくしているらしく、大佐を客間に招き入れることに何ら問題はなかった。大佐を椅子に座らせ、刹那の沈黙が流れた後、大佐の口から深い呼吸が漏れる。
「さて、博士。いきなり本題に入りますが、貴方は先の事故で例のプロジェクトに多大なる支障をきたしてしまったため、クリプトンから辞退を言い渡されました。ただし、貴方は以後クリプトンと関係する別の組織に所属していただきます。」
「では何故貴方が――」
僕はそこまで言いかけた瞬間、その言葉の意味を理解し、凍りついた。
「まさか・・・・・・そんな?!」
「大体はお分かりいただいているようですね博士。その通りです。貴方はこれから、我々日本防衛空軍が進めているプロジェクトに参加して頂きます。我々は、貴方が開発された素晴らしいアンドロイド技術に必要としています。クリプトンの協力で、博士の受け入れ準備は既に整っています。向こうでも、私としては是非とも博士は優遇させて頂きたいと存じます。」
「ま、待ってください! 僕が? 軍に?」
ペラペラと流暢に話す大佐に反して、僕は言葉を詰まらせながら尋ねた。
「ええ。今、軍が進めているアンドロイドの研究に携わってくだされば、確実な飛躍が望めるでしょう。なにせ、業界では貴方の実績はもはや伝説的ですから。如何でしょう博士? 御二人の協力さえあれば、私としても心強い限りです。」
拒否権など元から無いのは分かりきっていた。だが、突然転がり込んできた突拍子も無い話に、僕は唖然として、いかに受け答えしたらいいのかも分からなかった。よりにもよって、クリプトンが僕を軍に異動させるとは。
その時不意に、部屋の外で床の軋む音がした。まずい。恐らくミクがこちらに近づいてきている。
「驚かれるのもご無理はないでしょう。しかし博士、悪い話ではないと思うのですが。」
「あ、ああ・・・・・・。」
部屋の外から近づく足音は、もう既に大佐の耳にも届いているはずだった。しかし、大佐はそれを気にする様子もなく、再度僕に問いかけた。だが、ふと僕は先程の大佐の言葉に、何か不自然があるのを思い出した。
「あの、大佐。」
「はい。」
「とりあえず、僕はこれから軍のプロジェクトに参加することになるんですよね。」
「ええ、よろしいことではありませんが、強制です。」
「では『御二人』とはどういう事ですか・・・・・・?」
僕が尋ねたと同時に、部屋の扉が開かれ、その隙間からミクが顔を出した。
一瞬脳内が空白になり、次の瞬間には為す術も分からず呆然と彼女を見ていると、目の前の席から、冷ややかな笑い声がした。大佐は意外な人物の出現になんらおどろく様子は見せず、椅子から立ち上がりミクに近づくと、彼女と同じ目線まで屈んだ。
「相変わらず、そのお姿ですかミクさん。」
「え?」
「その手足は博士に付けてもらったようですが、それは所詮、あなたの一部には成り得ませんよ。」
まるでミクの存在を当然のこととでも思っているような、そして彼女を洗脳するような口ぶりは、彼が、最初からミクの存在を知り、これから利用しようとすることを予め考えていたからに違いなかった。
「ミクさん。あなたのそれは、手足でも何でもありません。このままでは、一生あなたは走ることすらできませんよ。私の所に来れば、今のあなたに足りないものを全部差し上げます。」
「足りない・・・・・・もの?」
「そうです。自由に物を掴んだり、あらゆる事ができる手、走ることが出来る足・・・・・・いえ、後一つ足りません。その背中にまだ一つ、備わるべきものがありますね。」
彼がミクに語りかける言葉の数々は、傍でみている僕には理解出来ないが、少なくともミクは、彼の言葉に引き付けられているかのように、その瞳を見上げていた。
「なにが、何が足りないんだ。」
ミクが尋ねると、大佐の口許が微笑を浮かべた。
「黒い翼です・・・・・・。」
「つばさ?」
「そうです。自由に空を舞うことが出来る翼です。それが、今のあなたには足らない。無ければ、あなたはこのまま永遠に不自由です。ミクさん。私のところに来てくれますか?」
「行く。手と足と、その、つばさがほしい。」
大佐の言葉に対し、ミク本当に何の躊躇いもなく、自らの判断で断言した。だが、その瞳には、これまでに見せたことのない、力強い輝きがあった。
ミクは望んでいるのだ。本当の人の姿、本当の自分の形を。大佐の言葉で、自分がまだ不完全な存在にあることを理解したのだろうか。
「さて、それでは博士。あなたの方は?」
ミクが自らの意志で決意した時、既に僕の中でも、心は決まっていた。僕はミクを絶対に離さないと決めたのだ。だから、いかなる時でも、僕はミクと共にいる。僕達は運命すらもを共にする。だからこそ導き出した、一言の答え。
「行きます。」
運命が、走りだした。
Eye with you第二十一話「手と足と」
今日は記念すべき初音ミクの発売日ですね。
彼女が世に出なければ私も小説を書く事はなかったでしょうから、これも運命を感じます。
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