34.届けられた密書
リンは進軍の只中にいて、集まる人々を激励し、鼓舞した。
「黄の国の明日は、あなたたちにかかっているわ! 」
実際その通りだった。旱魃で苦しむ人々は、女王から支給される食べ物と賃金は本当に魅力的だった。もとより居た兵士たちは新しく参じた人々を兵士として激励し、新しく兵士となった者は進軍する町で驚くほど良く物資を調達してくれた。
兵士になれば、食料がある。そして、緑の国に対する不安と不満も、人々を進軍へと駆り立てた。
「緑の国は、隣の国のくせに援助もしてくれなかった!」
「緑のやつらが発明したという海水から真水を作る機械はどうした! こっちが旱魃で苦しんでいると言うのに!」
「こんな時期に、緑の国は、大変な隣国を尻目に青の国に色目を使っている! 」
自分達の生活の苦しみが、緑の国への不満に、日に日に転嫁されていく状況を、リンはあでやかに笑いながら見守っている。
「そうね。では、あの冷血どもの緑の民に、十六代前の黄の王が『貸した』土地を返してもらいましょうか」
いよいよ緑の国の国境まであと一日と半分となった真昼。天高く昇った太陽のもとで、みずから騎乗し進軍する馬上から演説したリンに、全軍からわあっと気勢が上がった。
その頃、ネルは黄の軍へ合流していた。リンの演説と気炎を上げた黄の軍に、背筋がぞくりと硬直した。ぎらぎらとした目つきの、乾いた肌の砂に汚れた男達が、緑の国に向ってまっすぐに進んでいる。
「……この軍勢が緑の国に到達したら」
ネルの背を、冷や汗が滑り落ちる。美しい緑の町並みが、目つきと剣を光らせた汚い黄の軍勢に蹂躙される様子が容易に想像された。
「……急がなきゃ」
今は昼間である。残りの道のりは一日半。旱魃の苦しみと目と鼻の先にある利益に吸い寄せられ、黄の進軍は思った以上に早い。ネルに迷っている時間は残されていなかった。
休憩時間となり、岩陰の日陰に、隊列が少人数の班に分かれて身を寄せている。その隙にネルは、ひとり離れた岩陰に隠れ、ヒュイっと指笛を鳴らした。
空からネルのことを見守っていた鷹がすばやくネルの元へと舞い降りた。
「相棒。頼むわね」
鷹にミクから預かった密書を持たせる。そして、演説のときから居所を押さえていたリン王女が、休憩用の戦馬車に入った頃を見計らって、鷹を放った。
鷹が、戦馬車に付けられた突端に舞い降りる。一段高くなったその場所は、鳥にとって止まりやすいことに気づいたネルは、鷹の習性を利用して相棒を放ったのだった。
大きな鳥が屋根に止まったことで、振動が伝わったのだろう、中から召使らしい格好をした少年が出てきて、鷹の持つ木箱に気づいた。
「よし、あとは……」
「おい、ねえちゃん」
はっと振り向いたネルの背に、男のよろいの胸が当たった。
「あんた、鷹を使っていたな」
瞬間、飛びのいたネルを、その男は逃さなかった。振り上げたネルの腕をあっさりと掴み、そのまま地面に引き倒した。
「あっ!」
ネルは頬を地面に叩きつけられた。その首筋にひやりと冷たい『何か』があたる。
視線をめぐらせなくても、それが刃だとわかった。
ネルが隠れて鷹を使ったことには理由がある。『鷹使い』。それは、商人や貴族、そして国が、敵対する者から情報を奪うときに雇うことが多い。昔は狩の手段だったが、伝書に鳩が利用される土地では、鷹使いと隠密は同義語である。
「お前、緑の回し者だな」
ぐ、と刃に力が篭る。びくとも動かせない体と腕に、ネルの意識が死を覚悟して白く焼ける。
「おやめなさい」
ふと、少年の声が響いた。ネルの鷹から密書の箱を受け取っていた、あの少年だった。
「放してやりなさい」
ネルを押さえつけていた腕の力が緩んだ。ネルは砂まみれの体を引きずり起こす。
ネルを押さえていたのは大きな男で、声をかけたのは歳若い少年だ。
「レンどの。この者、鷹を使っておりました」
大男の敬語に、少年はうなずく。
「解った。あれは、お前の鳥だな」
横柄な言い回しは使い慣れていないのだろう、少年のゆっくりとした物言いに、ネルはうなずく。
「貴女の話を聞きます。女王が、お呼びです。黄の兵士達の大勢いる場所では話しづらいでしょう」
レンとよばれた少年が、ネルを促す。やわらかくなった口調にネルは安堵しかけたが、自分の身分がばれたことには変わらない。緊張をはらんだ足取りで、ネルはリン女王の休憩用の馬車に向った。
はたして、岩陰に停められた薄暗い馬車の中に、女王リンは、座っていた。白と銀に塗られた皮の甲冑に金の髪。輝くばかりの容姿と静かな笑みで、ネルを迎えた。
「緑の女王、ミク様のお使い、ご苦労さまでした」
リンの若さに対していささか不釣合いなその静けさに、礼をとったネルの鼓動がいっそう激しく脈打ち出した。
レンがネルを馬車の中へと促した。そして背後でぱたりと馬車の戸が閉まる。その瞬間、不安がぐいとネルの喉を押し上げた。
リン女王とネルは、暗く蒸し暑い馬車の中でふたりきりだ。緊張のためか、ネルは不思議と暑さは感じなかった。
「相棒は、まだ近くにいるのかな」
ネルは自分がここで殺されても、きっと誰も気づかないと想像し、ネルの喉がびりびりと渇いていく。礼をとりおわり、顔をゆっくりと上げると、リン女王が正面で静かに微笑んでいた。
「ミク様からの文書を拝見いたしました。
……すぐに仕度いたします。今夜ここを出ましょう。馬を飛ばして、明日の夜には、わたくしはミク様に、お会いします」
闇の中で女王の白い顔を見るのがなぜか恐ろしく、ネルは慌てて視線を逸らした。
続く!
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