強迫神経障害とはどういう病気か。最も簡単に言えば、「考えすぎ病である」。
例えば、ガスコンロの火を消したかどうかが気になって、何度も何度も確認してしまい、外出出来ないとか。
お母さんは、その状態であった。
先生が強迫神経障害とはこういう病気ですよと喋っていた内容が、もろにお母さんの最近の様子と合致していた。
これはどうしてこうなってしまうのかというと、当たり前であるが、ガスコンロの火をもし付けっぱなしにして外出
してしまった場合、家が火事になって焼けてしまうことを恐れているためである。
神経科の先生は母に向かってこう言った。
「家が火事になってしまったら何に困りますか」
母が少し戸惑いながらこう応えた。
「うーん大切な品が焼失してしまうこと…とか、通帳や現金、財産が燃えて無くなるとか」
すると、先生は次にこう話し始めた。
「なるほど、確かに思い出の品がなくなってしまうのは悲しいし、とても残念ですね。しかしきっと心のどこかでは分かっていると思いますよ
美枝さんはわかっている筈(はず)です。思い出は自分の記憶として頭の中や、心の中にありますよね」

~思い出は溶けないでそばにある~

「…はい。そうです」
「では思い出の品が火事で燃える事は怖くありませんね」
「はい」

ぼくは、先生が何が問題なのかを明らかにしているのだと感じた。
「はいそうです。その通りです」
「ではもう1つの問題の財産とお金の問題ですが、思い出の品が必需品である場合はそれは困りますよね」
「はい」
この先生は少し押しが強い気がする。
母の気持ちを先に述べてしまっている。
「残る問題はお金です」
「はい。火事で家や財産が燃えてしまったら、お金に困ります」
「もしもお金に困っても、木元さんご家族なら大丈夫だと思いますよ」
何を根拠にそんな事を…。
するとぼくの気持ちを察するように先生はこう続けた。
「木元さんご家族の親戚にお金を少しくらい貸してくれる人がいるかもしれないし、お金が無くても、
ご近所さんが野菜を分けてくれるかもしれない。そうなったら今まで関われなかったご近所さんと交流を持てるようになるかもしれない」
おお、そう来たか。確かにそれはそうだ。
「物事には表と裏がありますからね」
!父が喋った。今までほぼ喋らなかった父が突然喋った。
父は神経科の雰囲気が慣れないらしく、押し黙ったままだった。
「あ、いいえ」
「そうですね。その通りです」
先生は驚いた風もなくそう答えた。

そんな話があって、こんどは具体的な治療法を病院ですることになった。
一週間毎に病院に行っていたが、2回目の診断でもう実践的なことをするらしい。
ぼくの印象ではお母さんの「強迫行為」はコンロの火を消したかどうかの確認行為ではなく、
お風呂で体を完全にきれいにしないといけないという行為の方が症状が酷いように感じられたけど、
どうやら神経科の先生はお母さんの主な強迫行為はコンロの確認行為だとかってに思い込んでしまったらしい。
それで、コンロの火を消すことについての治療をすることになった。
「難しい言葉で言うとこの治療法をニンチコウドウリョウホウといって、この大学附属病院では行っていますが、どこでもやっているわけではないんですよ」
そう言っていた。
本当に難しい言葉だ。意味が分からないし、漢字もわからない。
「嘉人君には難しいかな」
と先生は言ってメモ帳に漢字を書いてくれた。
――認知行動療法――
これでニンチチコウドウリョウホウと読むらしい。
先生とのカウンセリングではこの「ニンチコウドウリョウホウ」という言葉がよく出てくる。
その度にぼくの頭には一瞬「?」が浮かんだ。

 その認知行動療法とは具体的にはどういうものかというと、
その内容は奇怪なものだった。
母が普段している行動も奇怪なら、その治療法も奇怪なものだった。
まずぼく達家族と先生は病院ないにある、給湯室へ行った。
コンロの火を消して、そこで先生が火を付ける。

チチチチチ、ボッ

そこに水の入ったやかんを置いて、母が消した。
確かに消えた。
そしてぼく達は別の部屋へ行ってしばらく待つのだ。
このとき、母の頭の中では「もしかしてまだ火が付いていて病院が火事になってしまうのではないか」という不安が
高まるが、それを無視して、その不安感が自然と落ち着いてくるのを待つというものだった。
なんだか時効のような感覚だ。
しかし、母はなぜかいたって平然としていた。
ソワソワした感じはない。
強迫神経障害の人ならこの状況で居ても立っても居られなくなる…らしいのだ。
先生が母に聞いた。
「あれ、けっこう落ち着いているようですが、平気ですか」
「はい」
そして母は自分が落ち着いていられる理由について話し始めた。

 母が喋ったことをまとめるとこうだ。
まず母にとって自宅は大切である。しかし病院は平たく言えば、大切でない。
だから母にとって病院で治療を進めてもなんら問題が生じないのだそうだ。
別に病院が燃えても、私が困るわけではないから、火が消えていなかったとしても
そこまでは、不安感がやってこないのだという。
うん、なるほど、確かにその通りだ。
もっともで、自然な意見だ。みんな自分を大切に思っている。それは大事なことだ。
誰かの家でもない病院という施設が燃えたって、皆帰るべき家族の元へ帰宅できる。
安心はその家にあるのだ。
母だけにとってだけではない。
その病院に通う看護師さんもその病院に勤めるお医者さんも、その病院で入院している
人だって、こんな所では死にたくないだろう。家に帰りたいのだ。
皆、実の所、「家に帰りたいのだ」

 先生がその話を聞いて、興味深そうに腕を組みながら手を顎に当ててウンウンと何度か頷き
そっと、丁寧に「なるほど」と呟いた。
どうやら、こういう内容の事を聞いたのは初めてらしい。
つまり、病院の施設を使って強迫神経障害の治療をしても無駄ということだった。
先生はしばらく考えて、こう言った。
「では、私が木元さんのお宅に伺いましょう。そうでないと意味がありませんからね。いいですか。」
「あ、はい。大丈夫です。お願い致します」
母が答えた。
「お願いします」
父も答えた。
そうしてその先生が、僕の家に来ることになった。
僕は自分の家に、お客さんが来る!と、ちょっと嬉しい気持ちになったが、“治療”であるということで、
「嬉しくもないか…」と思い直して、気が落ち着いた。

そういった、詳しい話をしたのは実はカウンセリング2回目だった。
さすがにその日のうちに早速自宅訪問とはいかず、来週の日曜日にということになった。
僕達は先生の個室を抜け、大きなロビーへ行きそこで何か事務手続きをして駐車場に向かった。
大きなロビーなどこの大学病院に施設は素晴らしく、高級ホテルのようだった。
ロビーで待っている時間が長かった。
病院の帰りの母はなんだか少し、気が沈んだような、疲れたような、はたまたホっとした感じだった。
大学病院の帰りの自動車の中でお父さんが口を割った。
「じゃあ、次の週まで休みを取るよ」
僕はそれに対してこう言った。
「え!休めるの?」
僕はお父さんが今週ずっと会社を休むということにワクワクしていた。
でも、よく考えてみると僕は学校へ行くのだ。
気分が上がった分僕はちょっとだけ嫌な心持になった。
母はというと、父の一週間休む発言に一言「分かった」とだけ言った。

 翌日の月曜日の朝、僕が登校するときに母と父にいってらっしゃいと言われて学校へ向かった。
なんだか2人の人から送り出されると、照れ臭い様な、やり過ぎであるような、豪華なような気分になった。
普段はお母さんだけにいってらっしゃいと言われる。僕がいつもどおりに学校へ行くというだけなのに…。
しかし、そのとき僕の頭の中にきっとテレビで聞いた台詞であろう、
―何事も当たり前ではない、感謝感謝―
という言葉が浮かんだ。

 先生の話によると、強迫神経障害の人の中には鍵を掛けてそれを何度も確認してしまって外出出来ないという人もいるのだという。
普通に外出できるだけでも感謝していいのだ。
その日はいつもよりも丁寧に一日を過ごした。何をするにも自然と「今家ではどうしているのかな」と考えてしまった。
 帰宅したときも2人が二重の声で「お帰り」と言ってくるかと思ったら、母は散歩中だそうで父だけにお帰りと言われた。
次の日曜日。先生は朝十時にやってきた。先生は病院で着ていた白衣でなく、普段着で来た。先生は黒い皮のバッグを持っていて、
それが普段着と相まって“仕事モード”なのか“プライヴェートモード”なのかを分からなくさせていた。
先生が指示したことは、病院でやったことと基本的には同じだった。ただ違うことが1つあった。
コンロの火を付けて、母が消して、そのあと椅子に座って待つのではなく、外へ散歩に行ったのだ。
歩くと思考がまとまるとか言って、先生が薦めた。

4人で外へ出て玄関の鍵を閉めて、しばらく近所を散歩することにした。母は家を出てしばらくはソワソワするようで、
「本当に大丈夫ですか」
と、しきりに先生に聞いていた。
しかし、その内気持ちが治まってきたらしく認知行動療法の結果は成功だった。
先生が期待した通りの結果だったのだ。
まるで先生が病院でした説明を繰り返すかのようだった。
「確認をしてからしばらくはソワソワするかもしれませんが、しばらく経つとをのソワソワ感はだんだんと無くなっていくんです。
それを分かって欲しいんです。」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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ワカメの国 第五章 知識の人 木下嘉人の物語

強迫神経障害の母と其れから父と嘉人の3人で大学病院に行った。
先生との対話で、奇跡的に何かを得た彼女。木下母が得た何かとは一体。
※小説「ワカメの国」はKODANSHA BOX-AIR新人賞応募作品です。

閲覧数:177

投稿日:2012/07/11 03:06:17

文字数:3,954文字

カテゴリ:小説

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