次の日の夜、世界中の空から、星が霞んで消えた。
ぼやーっと膨らむように広がった星の光が、そのまま街の光に取り込まれるように薄れていったのを、私は仕事帰りにの空に見た。
世界中の天文学者が大混乱しているとニュースが語った。環境汚染が一定値を越えた為、地上からの天体観測が不能になったという仮説を胡散臭い学者がもっともらしく語っていた。
その日、テラスは意外な事を私に言った。
「旅行に行こうよ」
思えば、テラスとは恋人のような関係になってからというものあまり遠出をしていなかった事に気づく。私は1も2も無く賛成し、会社に溜め込んだ有給の消化をしてくると伝えた。
日本を北から南へ、電車に揺られての旅行になった。
テラスはあの夜の苦悶の表情が嘘のように、終始楽しそうな笑顔で私を色んな場所に連れ出した。どこで調べたのか、私に見せるその景色は、地球がどれだけ美しいのかを無言で語っていた。
日本最南端の島まで来た時、私は、世界が少しずつ変化している事に気づいていた。
最初、それは気のせいだと思っていた。海岸線を走る電車の車窓から見える海の色が、濁った緑と青から、透き通るような青に。
建物がまばらになって、森が青々と茂り、いつの間にか、人の姿は見えなくなっていった。
日本最南端地点で少年は振り返り、今まで見た中で一番大人びた表情で私に言った。
「地球が目覚めようとしているんだ」
と。
その昔、何万年も昔の話……
人類は、環境汚染が進み、資源が枯渇した地球に見切りをつけて、地球を後にした。
個というものは、他から観測されて始めて成り立つものだ。唯一の知的生命体であった人間がいなくなった事で、地球はそのアイデンティティを見失いつつあった。
地球はその孤独から逃れる為に、夢を見始めた。自分を観測していた人間との、より望ましかった未来を期待して。何度も何度も、シュミレートし、自分の体の上にその仮想上の世界を築き上げていったのだった。
それが、今この時を過ごしている人間達の世界。悲しき星の見る夢?
「もう、何度目になるかは分からない。何度もシュミレートを重ねたんだ。その度に、色んな条件も変えてみた。でも、ダメだった。人間は、必ず最後には母なる地球を捨てて、宇宙へと飛び出ていっちゃう。僕は、そんな悲しい歴史を、いくつも見てきたんだ」
その時、近くで畑仕事をしていたおばあさんが消えた。
「っ!?」
あの星達と同じように、霞んで、拡大されて、空に溶けていった。
「僕は、ただ観察する事しか許されていない。君も聞いたでしょ?人間達は、また宇宙に飛び出すつもりでいるよ」
そう悲しそうに笑うテトラは、今にも空に消え入りそうな程儚げだった。
「夢は、また覚めようとしてるんだよ。ほら、もう海はすっかり戻っちゃった」
数万年をかけて浄化された海は、私が知っている海よりも、ずっと透き通っていた。でも、そこに魚影は無い。生態系を壊すだけ壊してこの星を捨てたという、大昔の人間達は、こんな美しい海を知っていたのだろうか?
「でも、僕は、君を失いたくないから」
そう言って、少年は笑った。
南風が少年の前髪を掻き上げ、私の麦わら帽子を飛ばして行った。
麦わら帽子は、海面スレスレで、星と同じように、消えた。
そして、行く宛ても無く挙げた私の手も、だんだんと薄れていった。
「止まらない……。分かってた事だけれど、君も、シュミレートされた要素の一つでしかないんだね」
「……そんな事言われても、私も急過ぎて実感湧かないんだけど…ね?テラス」
「だよね」
少年は笑う。悲しげに。
「僕が、君を本当にしてあげる」
「え?」
「夢の中に出てくる人はさ、そこが夢の世界だなんて、分からないものだよね。だって、夢の中の人にとってみれば夢の中こそ真実なんだから。だから、それはもう多分真実なんだ……。僕は、君と一緒が好きだったから。僕が、この世界を本物にしてあげる」
じわり、とテラスの足が地面に吸い込まれる。
「どこに・・・行くの?」
「地球に、会いに」
「帰って来るね?」
「……うん。約束するね、僕は、必ず、君の所に帰ってくるよ」
そういい残して、少年は地面に吸い込まれていった。
存在番号1~748717102まで消去。
意識の海溝に潜りながら、僕はこれまでの事を思い出す。
何万年も昔、最初の人類が僕ら、地球を捨てたこと。そして、それから始めた人類シュミレーションにおいても、彼らは地球を捨てた事。
外では、消滅に怯えた人間達が地獄絵図を展開している。都市部では虐殺と破壊の限りが尽くされている。そんな様子が、地球の意識、ガイアに潜り込んでいく僕には手に取るようにわかった。
僕の姿は、最初の人類が地球を捨てた時、最後まで地球に残った学者の少年時代の物だってことを、昔ガイアに聞いた事があった。彼は、地球にも意思がある事を信じていた最後の学者でもあった。
最後まで惑星を捨てる事に反対し、脱出計画が決まる直前には、ガイアと僅かではあるが意思を伝え合う事ができる装置を開発していた。
でも、それは当時の覇権を握る企業や政治家には邪魔で、彼の研究成果は世間的に無視された。
知的生命体を失う事は、自分を観測されなくなるということ。他があってこそ、自がある。ガイアは、始めて経験する孤独に恐怖を抱いた。
その学者が、環境シュミレートを勧めたのは、そんなガイアを見ていられなかったかったからだ。そして彼が死ぬ直前、そのシステムは完成し、僕が生まれた。僕は、ガイアの人型インターフェースとして人間社会を歩き回り、人間達の社会を観察し、ガイアに報告した。
それから、幾度という歴史を見てきた。環境の変化も与えてみた。それでもなお、人類は最終的に地球を捨てた。
スタートと、リセットを何度も繰り返していく間に、地球の心的外傷はどんどん深くなっていった。以前は、もっと遅い段階までガイアはリセットしようとはしなかった。人間を、そしてあの研究者を信じて、今度こそは捨てないでいてくれると、期待を込めて、星の数程のロケットで飛び出すその瞬間まで、信じていた。
でも、虐待された子供が虐待の雰囲気を悟るように、リセットを実行する段階は、どんどん前倒しされていった。
今回は、世界の片隅で、他の星への移住計画が立てられたその瞬間、ガイアは悲しみの余りに泣き叫んだ。それは地震となって各地を襲い、それは結果的に地球が危ないという結論に至らせる根拠となって、計画を後押しする事になってしまった。
その時の衝撃で、僕はガイアの意識からリンクを切断され、記憶も失い、普通の人間と何も変わらないような状態で、裏路地に蹲っていた。もし、彼女が僕を拾ってくれなかったら、今頃は普通の人間の用に死んでいたかもしれない。彼女は僕を母のように姉のように恋人のように愛し、僕もまた彼女を姉のように、恋人のように愛した。
リンクが再度接続され、記憶が戻ってもなお、彼女と過ごした数年の記憶は、それまでの何万年という記憶に勝る輝きがあった。たった100年にも満たない時間しか生きる事のできない人間は、だからそこ必死に瞬いているのだと、僕は始めて主観的に見る事ができたのだった。
だから、僕は、今は何よりも彼女を守りたかった。それが、シュミレータのデータだと分かっていても、そこに存在する事は確かなんだ。作られた者同士なんだから、むしろお似合いじゃないか。
そして、彼女を救う術を、僕は一つだけ知っていた。
ガイアの意識野を潜っていくと、底にいくほど暗く、悲しいものが沈んでいた。その一つ一つが、人類が地球を捨てた時の記憶の塊だった。
その中で、一人の少女が泣いている。また人類に捨てられる事を嘆いて泣いている。その目は元々子供のように澄んでいたのに、今はもう濁って泣く事しかしらない。まるで、そういう仕掛けの人形のように。
「もう、泣かなくていいんだよ」
そう少女の頭に手を置いて囁く。少女は、涙の溢れる目を僕に向ける。
「もう・・・やだ・・・。何がいけなかったの?どうすればよかったの?どうしたら、仲良くしてくれるの?私が、いけなかったの?」
ガイアは自問するように、その痛い想いを僕にぶつけた。胸を引き裂いても足りない程の悲しみに、思わず涙が頬を伝った。
人間が、勝手に自分達の生きる環境を破壊し、利用しやすい物質を他の複合物に変換したくせに、地球を捨てることで生き延びようとする。何万年も共に生きてきた地球を、見捨てて、裏切って。
そう恨む事もできた。憎む事もできた。実際、僕は一度人口の90%を死滅させる大虐殺をした事があった。その時は、ガイアを認めた人類も、たった2000年の月日の間にそれを忘れ、また地球を捨てた。
ガイアは、それでも人間を信じたかった。ガイアには、人間しかいなかった。自分を認識されることを覚えてしまったガイアは、もはや自分を認識されないという孤独に耐えられなかった。そして、思いつく相手も人間以外いなかった。
今回もまた、自分に落ち度があったに違いないと、ガイアは嘆いた。
「僕らは、きっと人間の事を良く分かっていなかったんだと思う。僕は、人間になってみて、やっと分かった気がするよ」
そう言って、少年は少女に手を差し出した・・・。
あれから、世界は何故か消えずに済んだけれど、テラスは帰って来なかった。
家に戻った私は、テラスが来る以前の生活に戻り、忙しく働き始めている。消えたと思った人々も、建物も、全部元通りで、あの日の事は皆が覚えているのに、無かった事になった。
雨の降る夜、私はテラスのいた所で、同じ目をした子猫と出会った。テラスは、いつか必ず帰ってくる。私はそう信じていたけれど、ちょぴっと寂しかったから、君で我慢してあげる。そんな独り言を呟いて、子猫を家に持ち帰った。
名前は、「terras」地球を意味する子。
君と同じ名前をつけて、私は待つよ。君が帰ってくるのを。信じているから・・・。
その猫が、ふてぶてしい成猫になった頃、ドアを叩く者があった。
慌てて開けたドアの向こうには、懐かしい笑顔。そして、おどおどとその後ろに隠れてこちらを覗う、一人の少女がいた。
「おかえり。そして、いらっしゃい」
「ただいま」
今日も、地球は夢を見続ける。
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