18. 再会
灼熱の昼間が過ぎ、滝のような夕立が過ぎ、やがて夜がやってきた。
雨の去ったころに青の国の使いの馬車がやってきて、リン王女とメイコ、そしてガクを今夜の晩餐会の会場へと誘って行った。
ひとり残されたレンは、着替えて宿の外へ出た。リン王女には、食事は宿で摂るように言われていたのだが、とてもそんな気分ではなかったのだ。
「くそ! クソ! くそ……!」
夜が深まってもなお賑わいをみせる町を、レンは不機嫌に地面を蹴飛ばしながら歩いていた。
誰もが、リン王女の噂をしていた。黄の国からやってきた王女様は、幼さが残るものの気さくな方だ。なんといってもかわいらしい。機転が利いて将来有望だ。もしや緑のミク様に勝るとも劣らない名君になるのでは……!
「なんといっても、自分から手を動かそうという心意気がしびれるよな!」
「王女さまが男装するなんて、驚いたけれども、新鮮だったわねぇ……」
誰もがリンを誉めそやしていた。レンの側を子供たちが駆け抜ける。待って、待ってとはしゃぐ小さな女の子の頭には、真っ白な布がリボンのようにゆれていた。
「……肝心なときに、オレはリンの側にいてやれなかった。自分のことばかり考えて浮かれて、挙句倒れるなんて、最低だ……」
レンは、ぐっとこぶしを頬に当てる。
昨日の舞い上がる心地が嘘のように、レンの心は沈んでいた。それでも、髪を緑に染めた燃える瞳のハクが、頭をちらちらとよぎって離れない。
初めはリンの言いつけどおりに宿にいようと思ったレンだが、浮かれて仕事を果たせなかった罪悪感に気が狂いそうになった。
その気持ちを振り払うように、レンは昨夜と同じく街へ出てきたのだった。
少し歩いて気が晴れたら、帰るつもりだった。
浮かれたことを反省し、頭を冷やして宿に戻り、晩餐会から帰ったリンを万全の態勢で迎えて今日の昼間に付いて行けなかった事を謝ろう、と。
今日も夜風は心地よい。雨上がりなので道の埃もすっかりと洗われ、まるで街全体が生まれ変わったようだった。
早足で歩くうちに気も晴れてきたレンは、やがてうつむくのをやめ、顔を上げる。
「その角を曲がったら、そのまま宿に戻ろう……」
レンはぐっと顔を上げる。風が当たり、星の明るい夜空が見えた。紫色の美しい空に、やや欠けた月が浮かんで滑っていく。
レンは大きくうなずいた。
「よし……」
と、角を曲がったそのとき。
わあっとざわめく人だかりがあった。
「え……!」
明るいざわめきにレンが一瞬怯む。と、ぽろん、と弦の澄んだ音がひとつ、レンの耳に滑り込んできた。
大きな歓声とざわめきの中でレンに届いた音。
まるで泥に咲いた蓮の花のように、自然に耳と体が引き込まれる。やんやと騒ぐ人を掻き分けるように、レンは音の中心を探した。
楽師が、街角の石段に座っていた。
手には不思議な形の弦楽器を抱えている。黒の長い衣に、黒のベール。……そして、その端から覗く長い髪は、不思議な淡い桃色をしていた。
『今日、不思議な楽師に会ったのよ!』
ふいに、リンの声がよみがえる。あれは、夏の初め。黄の国の市の日だった。
「まさか……」
黒の衣、長い薄桃の髪、そして不思議な形の弦楽器……
レンの目が、楽師の胸元に留まった。そこにあったのは、真鍮色に輝く、8の字を横にしたような、無限の記号のようなブローチ。
「『巡り』の印……!」
と、楽師が視線をあげた。
「あ、」
突然目が合い、レンは慌てて視線を逸らす。と、そこには運命のいたずらがあった。
「レン……?」
名を呼ばれてレンの瞳が釘付けになる。
楽師の正面に、ハクがいた。髪を緑に染めた、燃える瞳の彼女が居た。
* *
『巡り』の印を見に着けた楽師の商品は、歌そのものではない。歌に巧妙に隠された情報である。巷には、この不思議な形の装飾品をつけた楽師は『歌屋』という大手の吟遊詩人の集団として知られているが、その実は、各国をめぐり見聞した情報を旋律に隠して歌う、情報屋集団である。
「そのことを、ハクは知っているのだろうか……」
レンは、ハクの隣にやってきた。ハクは、レンをみとめて嬉しそうに笑顔を見せる。
「また、会ったね」
レンはあいまいにうなずく。ハクの身の上が緑の国の女王、ミクの側仕えだということをレンは知っている。しかし、レン自身は、黄の国の王女のお付であることをハクには明かしていない。
「……知っているはずだよな。彼女は、巡りの印の意味を」
巡りの印を持つ『歌屋』の本当の客は、国を跨いで商売をする商人、そして、為政者である。各国の情勢を歌う、その情報に対して『巡り』の印の本当の意味を知る者は対価を払うのだ。
にこ、と楽師が、レンとハクを見て微笑んだ。ハクはちいさく笑みを返し、レンは戸惑ってしまう。
「ルカさん! 今日の唄を頼むよ!」
聴衆の中から声が響く。
「ルカ……!」
間違いない。黄の国に来ていた楽師、リンの話していた楽師だと、レンは目を見張る。
では歌います、とルカが宣言した。やあっと歓声が沸く。
それは今日の『カイト皇子の樹を植える祭り』の歌だった。
「青い海、緑の大地に黄金の少女が降り立った……」
風を従え颯爽と、大きなリボンは未来のつばさ、御身を飾るはその笑顔、
「金の心に金の輝き、太陽すらもかなわない」
答えた歌は、誰が聞いてもすぐ分かるまっすぐな誉め歌だった。大衆向けということなのだろう。『歌屋』のルカが、リンを褒め称えている。そしてルカの歌はやがて『巡り音』となって世界をめぐるだろう。
レンの心が喜びに躍り、同時にせつなさも味わった。
今日は、リンの晴れ舞台だったのだ。そして、リンはこの上なく素晴らしい王女を演じてのけた。その場面に居合わせることが出来なかったことが、レンにはたまらなく苦しかった。
「せめて、歌だけはしっかりと聞こう」
今後の予定もあるので、リンはおそらくルカの唄をしばらく聴くことはないだろう。この間の市とは逆に、今度は自分が、リンにルカの唄を伝えてやろうとレンは思った。
われながらいい思いつきだと思った瞬間に、レンの肩から力が抜けた。きっとメイコや医者のガクには宿を抜け出したことを怒られるかもしれないが、きっとリンは苦笑して許してくれるだろう。
「レン、楽しいの?」
となりのハクが聞いてきたので、レンはうなずいた。
「うん。楽しいし、嬉しいよ。……僕の、王女が、大活躍なんだもの」
「僕の王女、か。そっか、黄の国の王女様は愛されているんだね」
ハクは微笑む。その微笑みにどきりとしながら、レンは苦笑した。ハクはそのレンの反応をほほえましく受け取ったようだった。
歌が終わった。一瞬の静寂が場を満たし、次の瞬間、わっと歓声がさらに大きく夜空を揺るがした。
レンも歓声を上げる。ハクも、嬉しそうに手を叩いていた。
楽師が立ち上がり、美しく優雅に一礼した。
さて、対価を渡そうと財布を取り出したレンの胸元に、とん、と人がぶつかってきた。
「あ、ごめんなさい……」
レンの手から財布が浮いた。その瞬間、ぶつかった人の手がレンの胸元に伸びた。
と、どん、と強く叩かれた。
「ぐっ!」
レンの息がとまり、気づいたときに手に財布は無かった。
「ごめんなさいよッ!」
「……待ちなさい!」
摺られた!
レンが反応するより早く、なんとハクがその者を追いかけて人ごみをすり抜けていた。
* *
「待って! ハク! 待って!」
レンは必死で追いかけるが、ハクの足は速い。そしてスリの人ごみを抜けていく速さも鮮やかだった。
そのスリにぴったり付いていくようにハクが追いかけている。
「いいよ! 対した額は入っていないから! ハクさんが危険なことをすること無いよ!」
「ダメよ!こんどは私があなたを助ける番!」
ハクは止まらない。スリの焦る声と人の騒ぐ声とハクの追う声がどんどん道の先を行く。
レンは思い出した。ハクは正義感が強いのだ。ハクは、異国の言葉に戸惑いながらも子供のいじめを止めようと突っ込んでいくような女性なのだ。止まるはずがない。
ハクの背で荷物がゆれる。小さな荷物だが、空荷のレンが追いつけないほど速い。
「待って!本当に、いいんですって……」
勝手に宿の外に出た上に、人ごみで油断して摺られたとなれば、医者のガクはもとより元商人のメイコも黙っていないだろう。危険な目にあったとなればリンも大騒ぎに違いない。
夜通しの説教が待っているかもしれないが、ハクに再び会えた喜びは大きく、それにも増してハクを危険な目にあわせるわけには行かないという思いがレンの中で膨れ上がる。
「ハクさん! 僕はいいんだ! だから、戻って……」
スリが路地を曲がった。続いてハクも曲がる。レンも息を切らせながらそれを追いかけ、角を曲がる。
飲食の屋台が立ち並ぶ明るい表通りとは打って変わり、暗い道が建物の間に続いていく。解体された屋台の資材なのか、材木や屋根材の板、釘や道具が細い道に散らばり、レンは何度か釘を踏みそうになった。
スリは障害物を乗り越えながらすすみ、ハクは鮮やかな身のこなしで追い詰めていく。レンは見失うまいと必死だ。手をついた資材が一気に崩れ、派手な音を立てる。
と、レンは視界に、人の姿を捉えた。スリとハクを、その人の目がじっと追っている。その手元が、表から差し込んだ屋台の明かりにチラリと光った。
「……刃物?!」
レンの思考が吹き飛んだ。体が動いた。重なる材木にぶつかるのもかまわずに、レンはハクを追いかける。
「ハクさん!」
レンが叫び、ハクが振り向く。
「……危ないッ!」
レンが叫んで身を躍らせた。刃物を携えた男の悲鳴が、路地裏に響き渡った。
材木と道具の崩れ落ちる音が、狭い路地に大きく反響した。
「……し、しらねぇよッ!」
おびえた男の声が響いた。
「お……俺は、女の鞄を狙っただけだッ!」
スリも男も、仲間だったようだ。二人は顔を見合わせると、脱兎のごとく逃げ出した。
ハクは、もう追わなかった。呆然と、立ち尽くしていた。その足元にうずくまるレンを見つめて、立ち尽くしていた。
「レン……」
暗い路地に、ゆっくりと、水溜りが広がっていく。
ハクがおそるおそるかがむ。レンは背をまるめて倒れ、腹を押さえて動かない。鉄の匂いがじわりと立ち上り、ようやくそれが水ではないことをハクは認識した。同時に青ざめる。
「だ、……だれか、誰か!」
「あなたたち! 大丈夫?!」
飛び込んできたのは、なんとルカだった。
「私の目の前で摺られたから追いかけたの! おまわりさん!早く!」
正体を失いかけているハク、うずくまって震えるレンに、ルカと紺色の制服を着た警官が駆け寄ってきた。倒れているレンにルカは声を失い、警官に向かってうなずく。警官が応援を呼びに表通りに向ってすぐさま駆け出した。
刃物の柄がレンの横腹からはみ出していた。無意識のうちに抜こうとしたレンの手をルカがのける。
「だめ。抜かないで。このまま運ぶわ」
落ち着いて、と、レンの額に、ルカが触れた。
「あなた。何か押さえるもの、ある?」
ルカがハクを振り返る。
「血を止めるのよ!布でもなんでもいいわ!」
その瞬間、ハクはがばりと上着を脱いだ。目を見ひらいたルカだったが、すぐにうなずいた。
「ありがとう。助かる」
ハクの上着を、ルカは歯と手で切り裂いた。そして傷口をそっと押さえた。
「あなた!彼の頭を支えてあげて。おなかに力を入れさせないように。……大丈夫。この様子なら、思ったより浅いかもしれない」
ルカがレンのヒザを少し立てさせ、頭を起こしたハクに微笑みかける。ハクが固い表情でうなずいたとき、表に馬車の止まる音がして人の声が響いた。
「けが人と聞いたわ! このガクは医者よ! 案内して!」
少女の強い声が響いた。
まさか、とハクが振り向く。警官が路地に再び駆け込んできた。続いて飛び込んできた人影は、長い髪をひとつにまとめた背の高い男だった。正装をしているということは、今夜開かれる皇子の晩餐会の招待客だったのだろうか。
「手伝うことはあるかしら!」
短い髪の赤いドレスの女も続いて飛び込んでくる。
「あっ……」
声を上げたのはハクだった。
正装の医者はガク、そしてこの女の人はメイコ。昼間、ミク女王のお付として樹を植えに行ったときに会ったばかりだった。
「まさか、……リン王女のお世話係に会えるなんて」
リン王女つきの医者なら、腕は確かに違いない。ハクは初めて幸運を感謝した。
そして、驚きの中にいたのはハクだけではなかった。
「レン殿?!」
レンの姿を見るなり長髪の医者が叫び、
「……メイコさん、」
「……ルカ……」
楽師のルカと赤の女がお互いを見て絶句している。
ハクには何がなんだかわからなかった。
「……王女さま、お待ちください!あぶのうございます!」
「伝令は多いほうが良いでしょう! ガク、何か必要なものがあるならわたくしが宿から取ってまいります!」
本物だ。
ドレスを着た少女が、埃と散らばるゴミを掻き分けながらこちらへやってくる。ハクは今度こそ絶句した。昼間、人々に鮮烈な印象を残し、今巷で話題の黄の王女。
リンさまだ。
威勢の良いリンの声が、はたと止まった。その目が、けが人をじっと凝視している。
「うそ……」
リンの口が、呆然と動いた。
「……レン?!」
リンの目が大きく見開かれた。
つづく。
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