第二章 ルーシア遠征 パート6
ただ、広い。
ニーベル出立から十日が過ぎた日に、カイト皇帝は前面に広がる大地を眺めながらそのようなことを考えた。東西南北、どの方角を見ても見えるのは一面の大地ばかりであった。まるで緑色をした海原を歩む船に揺られているかのように。この時ニーベルから既に二百キロ程度の奥地に進軍しているにも関わらず、ミルドガルド帝国軍は未だに敵軍の襲撃はおろか、敵兵の影すらも見えないままの行軍が続いていたのである。季節は本格的な夏を迎え始め、北方に位置している為に酷暑とは行かないまでも、額に汗がにじむ程度の暑さを保つようにはなってきている。整備された道も存在していないために、帝国軍は自然と一面に広がる草原を行軍する羽目になったのだ。
まずは街道の整備が必要だな。
馬の背に揺られながら、カイトはそのようなことを考えた。丈の長い一年草に包まれた大地はそれだけで行軍の妨げになる。先行する第六軍は後続の部隊を通すために草を刈り、湿地帯を避け、遭遇する川には簡易的な橋脚を立ててから進軍しているものだから、とにかく効率が悪い。第六軍には既に過労で倒れた兵士もいるという報告が入ってきている。整備された街道での移動に慣れた帝国軍にとっては、それだけでもルーシア王国は交通の難所であるという印象を与えることになった。勿論、時折通過してゆく貿易商人が作り上げた、獣道に毛が生えた程度の道は存在している。だが、そもそも大軍の移動を想定している道ではない。この困難な道を一体いつまで歩んでいけばいいのか。兵士たちにはそのような不満が僅かながらも出始めていたのである。そして、もう一つ、結果的に後のカイトを苦しめる事態となる前兆がこの頃から現れはじめていた。予想以上の難所であるルーシア王国での進軍は当初の予定通りには進行していなかった。一日あたり、平均で十キロ程度も行軍予定に遅れが出ていたのである。そしてその差は今や百キロにまで拡大していた。日数にして、五日以上の遅延が発生していたのである。だが、この時点でカイトはその事実を重視してはいなかった。遅延を解消するために無理な行軍をしたとして、全ての兵士達が付いて来られるとは限らない。多少の時間的なロスが生じても、確実な進軍をすべきだと言う判断をしていたのである。
そしてこの日、六月十七日はルーシア遠征史の中で記録すべき日となった。ルーシア王国からの初めての襲撃がこの日、行われたのである。
随分と兵が疲弊している。
先陣を任されたホルスは、夕暮れを迎えて野営の準備を始めた兵士たちの様子を眺めながら、自然とそのような感想を抱くことになった。この十日間で最も活躍した軍はなんと言ってもホルス率いる第五軍であっただろう。何しろホルス率いる第五軍は先陣として後に続く帝国軍の為に道を切り開くという役目を有していたのだから。その活躍が戦によるものではない事をホルスは心から遺憾と感じてはいるものの、それでも道無き道を開拓してゆくという単純作業を見ず知らずの大地で十日間も続ければ、精神が相当に鍛えられている兵士であっても疲弊する。一度先陣を第六軍と交代したほうが良いのかも知れない、とも考えたが、名誉ある先陣をただ道を開くことに困難が生じた為という理由で辞退する訳にもいかない。そうなると結果的にホルスに出来ることは、せいぜい兵士を飢えさせないように十分な食料を与え、行軍速度に支障をきたしたとしても必要な休息を取らせることであった。
明日は少し早めに、野営に入ったほうがいいかもしれない。
日没を過ぎ、兵舎を照らす最低限の照明以外の明かりが消えた後に、ホルスは一人、明日の行軍進路を確認しながらそのようなことを考えた。そのまま、思索にふける。現在第六軍はニーベルから二百キロを多少越えた地点に到達している。後陣の第一軍はまだ二百キロ付近に留まっているはずであった。ニーベルから王都ルーシアまでは大よそ五百キロの距離があったが、十日という日数が経過しているにも関わらず、未だに目的地までの半分にも到達していない。しかも、今の季節は日を追うごとに気温が上昇してゆく。日が暮れた後は気温も落ち着くが、行軍が必要以上に長引くと日中の作業に支障が出ないとも限らない。北国だからといって、真夏の気温を油断していると命取りになりかねんな、とホルスは考えた。
静かな夜であった。宿舎として設営された革張りのテントには今、ホルス一人しかいない。聞こえる音は照明のために用意した、目の前のランタンが燃える微かなガス音と、心地よく響き渡る羽虫の鳴き声だけである。従者は交代で終夜ホルスの宿舎を警備しているはずだが、ホルスの思考を遮らない程度に気配を消していた。暫くの間地図を眺めていたホルスは、この調子で行軍したとしても、順調に行けば七月の頭には王都ルーシアに到達できるか、とホルスは考えた。そこから一月でルーシアを占領すれば、八月には全ての占領手続きが終わる計算になる。後は必要最低限の人員だけ残してミルドガルドに帰還すればいい。順調に行けば十月には帰国できるはずだ、とホルスは考えた。
時計の針はいつしか深夜十一時の時刻を示していた。懐中時計からその時刻を確認したホルスが、いい加減に就寝しようとランタンに手を伸ばした時である。
敵襲。
小さな音声がホルスの耳に届いた。それは余りにも小さく、歴戦の騎士であるホルスであっても幻聴かと疑う程度に。伸ばしかけた手を一度止めたホルスは、自身の耳を確かめるように精神を聴覚に集中させた。その声は一度だけでは終わらなかった。かなり遠方で響いているのだろう。聞こえる音は微かなものでしかない。だが、確実に複数の声が響き渡っている。
「ホルス将軍。」
ホルスが敵襲を確信し、外の従者に指示を与えようと腰を浮かせたとき飛び込むように宿舎へと飛び込んできた人物がいる。第五軍副官であるネッカーであった。その表情は固い。ランタンの乏しい明かりに浮かんだネッカーの表情を確認して一つ頷いたホルスは、努めて落ち着き払いながら、ネッカーに対してこう尋ねた。
「敵か?」
「仰せの通りです。敵の数は不明。」
「すぐに行く。」
ホルスはそう答えるとすぐに従者を呼びつけ、戦闘用の鎧の装着を手伝わせた。慣れたもので、五分もかからずに装備を整えたホルスは愛用の槍を掴み取ってテントから飛び出した。先に外に出て部隊の編成を行っていたネッカーが、ホルスの準備が整ったことを核にんすると、こう告げた。
「敵は北方から攻めてきた模様です。」
そう告げられてホルスはすぐに北へと視線を移した。火責めを懸念したが、北方は勿論、どの場所からも火の手が上がっているような様子は見えない。ただ、北の方角から鬨の声が響き渡っていることは確認できる。続けて、散発的な銃声が響き渡った。敵か味方か、どちらの銃声かは判断できない。とにかく、現場の情報を知りたいと考えたホルスの元に、騎馬を操る伝令兵が訪れた。下馬する手間も惜しいと言う様子で飛び降りた伝令兵が半ば叫ぶようにこう伝える。
「敵竜騎兵の襲撃です!兵力は不明!」
ふむ、とホルスは頷いた。早速ルーシア王国最精鋭部隊である竜騎士団の襲撃と耳にしても尚、ホルスは落ち着いた様子であった。
「すぐに行く。それまで前線は耐えよ。」
ホルスは伝令兵に向かってそう告げると、用意された愛馬の背中に飛び乗った。同行する騎士団はおよそ百名、ホルス直属の強者どもであった。しかしホルスは、数分後に肩透かしを食らうような気分を味わうことになったのである。次の伝令兵がもたらした報告を耳にした時、流石のホルスであっても呆気に取られた様子でこう答えたのである。
「撤退した、だと?」
次の伝令兵の報告は簡素なものであった。ホルスが戦場に到達する前に、ルーシア王国軍は整然と退却を開始したという。その後の報告を受けて、ホルスが襲撃の全容を把握したのはそれから一時間後のことであった。要約すると、以下のようになる。敵兵が竜騎士団であったこと、敵兵は百名程度の小部隊であったこと、ひとしきりマスケット銃を撃ち鳴らし、難を逃れようと飛び出した兵士を十数名切り裂いただけですぐに撤退したこと、味方の被害は死傷者合わせて二十名程度に過ぎないこと、などがホルスの把握した襲撃の全容であった。夜襲にしては攻撃が小規模すぎる、とホルスは考えたが、ホルスは割合慎重な性格を持ち合わせている人物であった。小規模とはいえ攻撃には違いない、と判断したホルスは、カイト皇帝の判断を仰ぐべく、夜襲の仔細を記した報告書を書き上げたのである。
その報告書がカイト皇帝の元に届けられたのは翌朝のことであった。これまで一度も接触が無かったルーシア王国からの初の襲撃ということで懸念する将軍も存在していたが、カイト皇帝はその攻撃を重視しなかった。被害がごく僅かであり、襲撃に参加した敵兵も少人数であったために、カイト皇帝にとってはルーシア王国のささやかな抵抗に過ぎない、という印象しか与えなかったのである。この時カイト皇帝が指示したことはただ一点だけ、夜襲の警戒を現状よりも強めろ、という命令のみであった。
しかし。この襲撃がルーシア王国の壮大な戦略の元に成されており、既にミルドガルド帝国軍がルーシア王国の張り巡らした罠に陥っているとカイト皇帝が気付くのは、もう暫くの日数が経過した後のことであった。
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