俺の「監視」の管轄内であるキャラクターボーカルアンドロイド、そのセカンドシリーズの一人である亜北ネルが、昨日のおよそ正午から、クリプトンの所有する専用居住住宅から姿を消した。
そうと分かった瞬間、あれほど心臓が凍りついたときは過去にない。
理由はどうあれ、問題はそこではない。そんなことは最初から理解している。
自己の意識による反抗行動。俺の、最初にして最大のミス。決して有ってはならない失敗。
上層部に気付かれる前に、あらゆる手段を講じて彼女を連れ戻さなければならない。
しかし、強硬な真似はできない。
彼女の精神を更に痛めつけてしまうだけだ。
だからこそ、ここからが問題なのだ・・・・・・。
◆◇◆◇◆◇
ソファーに腰を下ろすと、そこの自動販売機で買ったお茶のキャップを開けて、一口飲んだ。
歌った後には、やっぱり喉が渇く。でも楽しいから苦しいことはない。歌は、好き。
「おや。雑音ミクさん。」
ロビーの向こうから誰かの声が聞こえてきた。
「今朝はどうも。」
「あ・・・・・・敏弘・・・さん。」
朝、家に来た人だ。
「お隣いいですか。」
「ああ。」
敏弘さんはわたしの隣に座った。
「どうですか。ピアプロでの活動には慣れましたか。」
「ああ、まぁ・・・・・・。」
「そうですか。もうあなたがいらっしゃって早三ヶ月ですからね。この前のファーストシングル『Fry the Sky 』は最高の一言に尽きますよ。他のみんなとは違って大人びていて・・・・・・。」
「ありがとう。」
「いやぁ、私も一度あなたをプロデュースしてみたいですよ。いつか、機会があれば・・・・・・。」
「ちょっと待った。」
今度は後ろから声がした。
「雑音ちゃんのプロデューサーは俺だ。あんたはセカンドシリーズにたくさんいるじゃねぇか。」
「和出くん・・・・・・。冗談だよ。」
この人は和出明介。わたしの専属プロデューサー。
それ以外にもいろいろわたしの身の回りのことをやってくれる。
「それに、驚くなよ。アレの作詞、雑音ちゃんがやったんだぜ。」
「ほぉ・・・・・・!凄いじゃないですか!!」
「あ、いや・・・・・・そうかな?」
敏弘ほめられて、なんだか嬉しい。
「そうですよ!」
「はいはいナンパはもういいから、それより、あんたネルのことはどうなってんだよ。いや、雑音ちゃん。今君の家にいるんだって?」
「あ、ああ。」
どうして知ってるんだろう・・・・・・。
「そうでしたね。彼女の容態はいかがですか。」
敏弘さんも聞いてきた。
「ちょっと、まだ、熱があるみたいで、調子が悪くて。」
「そうですか。早く快復なされると嬉しいんですが・・・・・・。」
「ふーむ。」
明介は何か考えているように顎をつかんだ。
「敏弘、ちょっと・・・・・・来い。」
明介は小さく敏弘さんに向かって手招きした。
すると敏弘さんは黙って立ち上がって、わたしに言った。
「私はもう行きます。お昼休みをお邪魔して失礼しました。」
「あ、ああ・・・・・・。」
二人ともロビーから離れて廊下の向こうに行ってしまった。
わたしだけ残ると、急にさっき言ってしまったことを思い出した。
・・・・・・どうして嘘なんか言ってしまったんだろう。
本当のことを言ったら。怒られるかも知れない。無理やり連れ戻されてしまうかもしれない。
いや、本当は、戻ったほうがいいと思うけど、わたしは・・・・・・わたしは・・・・・・。
◆◇◆◇◆◇
俺と明介は、人気の少ない上に僅かな照明しかない狭い通路の一角で向き合っていた。
ここで、声を発しない対話をするために。
「体内通信だな?」
「当然だ。」
俺と明介は同時に目蓋を閉じた。
そして、脳内に意識を集中する。
《聞こえるか。》
《ああ。》
《早速だが、お前とんでもないミスを犯しちまったな。》
《自分で十分反省してる。もう責めないでくれ。》
《そんなつもりはない。ただ、これからお前がどう行動するかを聞きたいんだよ。》
《無論連れ戻さなければならないのは分かってる。だが、強硬手段に出ても彼女の精神を更に痛めつけてしまうだけだ。マスコミに知られてもまずい。》
《なぁにイザとなったらクリプトンにもってって記憶をフォーマットしてやりゃいい。時間は掛かるが赤ん坊から出直しだ。》
《それはダメだ。》
《あ?》
《それでは人である意味がない。》
《ま、お前の管轄だし、好きにしろよ。これはいつもの情報の共有、だ。》
《お前こそ、自分の管轄である彼女のことはどうだ。》
《ふん・・・・・・表向きは、クリプトンの新型ボーカロイド。だが本当は元空軍の戦闘用、か。まったく、経歴こそスゴイが特に普通の少女さ。ま、ネルをかくまっている時点でなんらか精神の変化が見られるかもしれんが。》
《匿っている?》
《あくまで推測さ。さっきの雑音ちゃんの顔、ありゃ何かを隠したいがために嘘ついてるって顔だったぜ。》
《・・・・・・。》
《当分は様子見、かな。》
《そうだな。ところで、他の連中にもそのことは?》
《伝えてねぇ。共有をしてるのは今のところお前だけ。》
《どうして。》
《だから、様子見。つってんだろう・・・・・・?》
《・・・・・・。》
◆◇◆◇◆◇
「ただいま。」
いつもは、誰もいない暗い家の中。
だけど、今日は人がいる。電気もついてる。
「お帰り・・・・・・。」
静かに、そう聞こえた。
廊下の向こうには、ネルが立っていた。
「遅くなってごめん。熱は、もういい?」
「うん・・・・・・。」
そう言うとまた部屋に入ってしまった。
「あ・・・・・・。」
ネルがわたしに背中を向けたとき、すこし、悲しかった。
どうしてだろう。
ネルと離れたくない。いつまでも一緒にいたいと思ってる。
ネルにも、わたしにそう思ってほしい。
この気持ちは・・・・・・。
わたしは、ますます嘘つきになっていくんだろうか。すごく、不安だ。
そう思いながら、わたしはネルのいる部屋に歩いていった。
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