記憶の中の彼へ
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『空き教室で待ってる』
それだけ書かれたメモを握りしめて、私は教室の扉を開いた。カーテンの引かれた教室で、彼が背を向けて立っていた。
「来たね」
「約束ですから」
イスと机が端に寄せられた教室に、穏やかな光が差し込む。普段なら眠気が強くなるこの時間に、私は彼の姿を見据えていた。
「まずは卒業おめでとう」
「今日は最終授業日でしたから、卒業はまだ先ですけどね」
「当日は話せないだろうから、一応ね。前置きはいい。これからの話をしよう」
そこで彼は私へ向き直る。ふわりと揺れる白衣の裾。小さなガラス越しに私を見つめる瞳。一瞬、目の前の光景がいつか見た夢と重なって、目をこすった。
――“だから、俺を忘れて……笑って、くれるか?”――
大丈夫。この彼は現実の彼だ。淡々と、「忘れて」なんて私には言わない。
「先生、本当に辞めるんですか?」
「変える気はないよ。学園長に引き止められてはいるけどね」
「わかってましたけど、本当に辞めるんだって思うと、もう私たちの接点がなくなるんですね」
「そうだね。学校に来ることがなくなれば他人同士になる。卒業生と元教師の接点なんて、本当は無いに等しい」
だけど。
「俺は君を手放す気はない。君が望んでくれている限り、俺は君のそばにいる。……まあ、こう言ってはなんだけど、早々に会えない期間が来るから、しばらくはメールや電話だけのやり取りになるんだろうけど」
「冬休みもメールしてましたから、もう慣れてますよ」
「あの時は本当にごめんな」
彼が言っているのは、私が余命の話を中途半端に立ち聞きした後、ぎくしゃくしていた期間のことだ。私は気まずかったから、彼は考えを整理していたから。そして素っ気ない内容のメールが出来上がった。もうあの時のようなことは起こらないとは思うけど、今思い返すと本当に申し訳なかったな。
「私もごめんなさい」
「いろいろあったし仕方ないよ。……で、しばらく出られなくなるし、この機会に機種変更してスマホにしてみたんだけど、全然使い方がわからないな。メッセージアプリとか」
「私も春休み中にスマホに変えるので、今は相談に乗れませんけど。何かあったらグミちゃんに聞きましょう」
「俺もいろいろ聞いてるんだけど、自分で調べろって跳ね除けられた。ルカには甘いだろうから心配はいらないだろうけど」
「グミちゃん、お兄さんである先生には手厳しいんですね」
チョークの恨みじゃなく、身内故の手厳しさだと信じたい。
「初音先生はご実家を手伝いながら、教師を続けるんですよね」
「実家が孤児院らしいから、けっこう大変だと思うんだけどな。グミも手伝いに行ってるらしいけど」
「あの二人、なぜか仲が良いですよね。先生と生徒というより、古くからの友人みたい」
「なんでだろうな? 鏡音姉弟は、大学でも演劇続けるらしいな」
「レン君はリンさんにつられて渋々、という感じでしたね。リンさんはもっといろいろ脚本を書く、って張り切ってたので」
「始音はなんか迷ってたみたいだから、雑に背中を押しておいた」
「雑に? 多分メイコ関係だと思うので、もう少し話を聞いてあげたほうがいいのでは……」
「あれくらいでいいんだよアイツは。たいそうな祈りを抱えてる癖に、自分からは何も切り出さなかったんだから」
「ブーメランだと怒られるのでは? メイコは医療系の大学に行くので、しばらく会えなくなりそうです」
「ずっと同じクラスだったもんな。でもお互い支え合ってきたんだろ? 今までも、これからも」
「はい」
これまでたくさん関わりがあった友人も、お世話になった人も、みんな未来を見据えて新しい道を歩いていく。
私たちの道は一瞬交わっただけで、今後もう会えない可能性だってあるけど、みんなに会えたから今があるわけで。そんな絆を、大切にしていきたいと思うのだ。
「それで、ルカはどうするんだ? グミと同じ大学に行くんだろう?」
「はい。グミちゃんは『勉強が楽しいから、もうしばらく続けたい』って言ってましたけど。私はそこまで優等生ではないですから、何かになりたい、なんてまだ決まってなくて。まだ知らない世界のことを沢山知ることができたら、物事を知った目で世界を見たら、するべきことが見えるんじゃないかなあって」
「いいと思うよ。まだ若いんだ、可能性はどこまでも広がっている。好きなものは大切にして、目の前をまっすぐ見なさい。ただし悔いのないようにな」
「ふふ、先生ったらセンセイみたい」
「みたい、じゃなくても先生なんだけどな」
ふ、と笑みをこぼす彼の顔が、本当に幸せそうだったので。その表情でいつまでも彼が生きていてくれますように、なんて誰にも聞かれることのない祈りを、いるかもわからないカミサマに願ってしまう。
「あ、今更ながら、最終授業日といえば。明日から自由登校なので、今年はバレンタインを早めにお渡ししようと思いまして」
「おっと、先手を打たれたな」
「去年は全力の隠れんぼで、全然渡せなかったので。というわけで、受け取ってください」
はい、と私が右手を前に差し出すと、彼は不思議そうに、握手をするように右の手で握り返す。そのまま彼の手をとらえて、包みから取り出した黒革のそれを手首へ緩く二重に巻き、金具をとめた。
「ブレスレットです。先生、右の手首を見る時、いつもつらそうだから、少しでもその気持ちを忘れてほしくて。安物なんですけどね」
「それでわざわざ、俺に? ……さてはバレンタインなんて、ただの口実じゃないのか」
「だって先生、バレンタインは隠れちゃうから、チョコがお嫌いかと。いいじゃないですか、口実でもなんでも」
「そうだな。ありがとう。……じゃあ俺も、早めのホワイトデーということで」
え? と固まる私を差し置いて、ん、と先程私がやったようにブレスレットの嵌った右手が差し出される。とりあえずその手を取る私の右手を、彼はすぐに離してしまう。どうやら「握って」ではなく「同じポーズで」の意図だったらしい。
「そのままの位置で、動かないで」
「あ、はい」
白衣のポケットから取り出した箱を器用に片手で開けて、小さなチェーンの輪を薬指へ通していく。アジャスターを調整している彼の指が手に触れる度、どくどくと自分の心臓の音を意識していた。
さっきも触れていた。しかも自分から触れた、だけど今のこれはちょっと覚悟が足りていなかった。彼の動きのひとつひとつを、目に焼き付けるかのように視線を外せない。世界がスローモーションのように緩やかに流れているとさえ思うような感覚。
ああどうか、この全身にうるさく響き渡る鼓動が、彼に聞こえていませんように。
「せ、先生? これは、」
「チェーンリング。安物だけど」
「そ、それは嘘、ですよね?」
高校生の私が言う安物と、大人の彼が言う安物は、同じ言葉でも全然意味が違うであろうことはよくわかる。いや、まさか彼の方も贈り物をするなんて、想像もしていなかったことだから。
「リング、ということは」
「悪い虫がつくと困るだろう? お守りみたいに考えてくれ」
「でも、右手は」
「予約。チェーンリングなのも調整しやすいから。……俺が帰ってきたときも好きでいてくれるなら、左手のも考えておいて。今度は合うサイズを一緒に選ぶから」
お守りと呼べるものなら、以前もらったヘアゴムでも十分だというのに。
悲鳴のような呻き声のようなはたまた嗚咽のような、そんなぐちゃぐちゃな思いを乗せた声が漏れ出て、すかさず彼が唇に人差し指を置いてきた。
「こら、そんな声を出すんじゃない。……泣かれちゃ困るな、君には笑っていてもらわないと、俺もつらい」
「泣いてませんよ。これは、勝手に涙が流れただけです。嬉し涙ですよ」
「それなら、良かった」
「これ以上一緒にいるとまた涙が出るかもしれないので、先に帰りますね」
未だに落ち着かない鼓動を聞かれる前に、くるりと彼に背を向けて扉のほうへ歩いていくと、遠くからバタバタと足音が聞こえた。
あ、と思った時には腕を掴まれ、引き寄せられていた。
大きくて温かい手のひらは、初めて彼自身の想いを告げられた日と同じように、私の口元を塞いでいる。見慣れた真っ白な袖。痣のように残る切り傷。だけどただ一つ、傷を覆い隠すように巻かれたブレスレットだけがあの時と違う。
手と手が触れるよりも近い、互いの呼吸さえ意識してしまうほどの距離。胸の高鳴りが伝わってしまったらきっと笑われる、そんな思いは一瞬で頭から追い出された。抱きとめられた胸から、口元を塞ぐ手のひらから伝わる脈から。人より脆く、厄介な運命を抱えた彼の鼓動もまた、先程までの余裕そうな彼の態度でごまかせないほど、私と同じ感情を伝えてきたから。
廊下側の窓全てに引かれた遮光カーテンは、足音の主から私たちを隠してくれた。遠ざかる足音にほっとして、口元から離される手が、そのまま私の体へ回される。
「ねえ、神威先生。先生は、私のことが好きですか」
「ああ、好きだよ」
「私、センセイ方の望むような優等生なんかじゃないですよ。あなたの大切なものを壊して奪ってきた。悪い子なんですよ」
「それでも、そばにいてほしい」
「意外と欲張りですよね。でも私も諦めようとして、結局どうしてもほしかったものがあるんです。……あなたが笑ってさえいてくれれば良かったのに、私のそばにいるなんて言ったせいで、その気持ちが大きくなってしまった」
彼の体温を振り払うように、緩い拘束を解いて、口元を覆っていた右手を両手で包み込む。
「先生。いつまでも待っていますから、絶対に帰ってきてください。他のひとなんて見ないで。私は、あなただけがいい」
「約束する。重荷が無くなったら、君を迎えに行く」
教卓までの距離が、遥か遠くのように感じていた、あの頃とは違う。生徒全員ではなく、間違いなく私ひとりだけに向けられた言葉。……きっともう、悪夢は見ない。だから大丈夫。
「私も、神威先生が好きでした。これまでも、今この瞬間も。……遠い未来でもきっと、変わりません」
永遠なんて言葉で縛るつもりはないけど、彼と過ごした日々を覚えている限り、私はそれを誓える。
「さようなら、先生。どうぞお気をつけて」
手のひらを離して、彼の顔を見ないままに空き教室を出る。
最後の言葉はどんな表情で口にしていたのだろう。だけどきっと、穏やかな表情をしていただろう。想像するくらいでいいのだ。顔を見ると、いつまでも離れがたくなってしまうから。
そうして私は、未練と思い出をあの教室へ置いて行った。
何も知らなかった高校最初の春。あの日、彼が私に与えてくれたのは初恋でした。だからこそ、得てしまったこの感情を、大切にしていきたいのです。
願わくば。記憶の中の彼もまた、この感情で満たされていますように。
今も抗い続ける彼が、この感情で救われていますように。
【がくルカ】memory【31・終】
2021/03/16 投稿
「記憶」
完結まで9年半ってどういうことなんでしょうね(笑い事じゃない)
前回の話から5年くらい経っててびっくりです(びっくりじゃない)
元々はとあるコラボのお題「初恋」を元に書いた「私の初恋と白衣の彼」の投稿が2011年10月1日でして。
オリジナルのがくルカ作品としては初めて書いたのがこのシリーズなので、一番思い入れのある話でもあります。
いろいろ広げすぎて回収できてない伏線とか、矛盾とかもいろいろありますが、とりあえず完走できたのでよかったです。計画性もなく書くからこうなるんだぜ。
本編は終わりますが、シリーズ関連の話はまだ書き終えてないものもありますので、ちびちびと続けたいと思います。
改稿しましたが行をつめたくらいの変更なので内容自体は変わっていません。
memory
プロローグ 私の初恋と白衣の彼: https://piapro.jp/t/dZC0
本編 前回の話(30話): https://piapro.jp/t/90TM
Plus memory 前回の話(7話): https://piapro.jp/t/Fmz0
パラレルワールドの話 Memoria 最終話(5話): https://piapro.jp/t/s95d
前世の話 音を失った少女に 前回の話(4話): https://piapro.jp/t/CkA0
劇中劇の話 Future: https://piapro.jp/t/qYrl
時系列
memory30→Plus memory6→Plus memory7(https://piapro.jp/t/Fmz0)→今回の話→next?
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