泣き出しそうになり、だけど泣き顔をこんな奴らに見られるのは嫌で。ぎゅう。と堪えるように目をつぶっていると、不意に人の気配が私の前に立ち塞がった。
「何やってんだよ。」
良く知っている声が聞いたこともないような荒々しい口調でそう言った。
そっと目を開けると、見慣れたコックコートの背中が目に入ってきた。まるでピンチに現われたヒーローみたいな後ろ姿。男たちの視線から守るように私の前に立つその安心感に、ぽろりと涙が一粒だけ零れ落ちた。
「小林。」
私と男たちの間に割って入った小林は、鋭い視線を男たちに向けた。
「ここは、そういう店じゃないから。女の子に構って欲しいんだったら、駅前でティッシュ配ってるから、それ貰ってこいよ。」
そう辛らつな言葉を言い放つ。男たちは怒りを露に、何様だお前。と睨んできだ。
「客に酷いこと言う店だな。俺はちょっとこの店員と話してただけだろ。」
「ふざけんな。こいつは嫌がってただろうが。」
小林が声を荒げ、男たちを怒鳴りつけた。男の人特有の低い声音が空気を揺らす。
いつも無愛想で可愛げがなくて、冷たい小林が、こんな風に怒るの初めて見た。
意外な一面だけど、不快な感じはなくて。むしろ私のために、小林が怒っているという状況が嬉しく感じて。怒っている顔もそれはそれで格好良いかも。なんて一瞬この状況を忘れてそんな間の抜けた事を考えていた私に、不意に小林はくるりと振り返って、お前もだ。と言ってきた。
「お前は馬鹿か。呼べよ、俺を。何でひとりで泣きそうな顔してるんだよ。」
そう、男たちと同じ口調で荒々しく怒鳴ってくる。瞬時にして、甘い思考は吹き飛んだ。
酷い目にあったのは私だというのに。何故、私まで怒鳴る。格好良いかも。なんて考えた私が馬鹿だった。
嫌な目にあい恐怖で泣きそうになっているのは私だというのに、怒るなんて理不尽ではないだろうか。恐怖や不安は簡単に怒りに変換される。血が逆流するような感覚を覚えながら、私は目を釣りあがらせて小林を睨みつけた。
「だって、なんとかなると思ったんだもん。」
強い語調でそう言い返し、そのままの勢いで私は男たちに顔を向けた。
「ちょっと、あんたたちのせいで私まで怒られたじゃないのよ。さっさと帰りなさいよ。」
「客に向かって帰れだと。」
私の怒鳴り声に逆上した男がそう怒鳴り声を上げた。
火に油。怒鳴り声に怒鳴り声で返されて、更に逆上しかけた私の耳に、突然、くわんくわん、と大きな音が鳴り響いた。あまりに大きな、だけど少し間の抜けたその音に、怒りで沸騰していた頭が瞬時に醒めた。
驚き目を向けたその先、音の発生源は床に落ちたトレンチだった。プラスチック製だけれど床に落ちればなかなか大きな音が立つ。そしてその音の発生源の横、休憩に行っていたはずの店長と帰ったはずの森さんがにこやかに微笑んでいた。
「失礼しました。」
そう店長は何事もなかったかのような口調で言い、トレンチを拾い上げて私たちの傍にやってきた。そして穏やかな雰囲気のまま、どうなさいましたか?と男たちに尋ねた。
「どうなさいましたか、お客様。」
怒りに水を注された男たちは、しかし不機嫌な態度のまま、スタッフの態度が悪い。と言った。
「この店のスタッフは態度が悪い。」
「愛想よくして欲しいんだけど。俺ら客なんだから。」
そう横柄に言う男たちに小林がふざけんな。と声を上げた。
「お前らが先にこいつの写真を勝手に撮ったからだろ。ふざけんなよ。」
「そうですか。」
申し訳ございません。と店長は男たちに頭を下げた。
店長の従順な態度に男たちが一瞬、隙を見せた。その瞬間、店長の横に立っていた森さんが手を伸ばしてテーブルの上に置いてあった男たちの携帯を手に取った。あっという間に慣れた手つきで操作をする。
「ちょ、おま。人の携帯、勝手にいじるなよ。」
そう喚く男たちに、森さんが有無を言わせない調子で私が写った画像を表示させた携帯をそれぞれに突きつけた。
「盗撮は犯罪ですよ。」
そう男たちに森さんは厳かに告げる。言葉に詰まる男たちを尻目に、森さんはその携帯を店長に渡した。店長はその画像を確認してから消去して、男に携帯を戻した。
「お客様。お代は結構ですからお帰り願えますか?」
にっこりと、絶対零度の笑顔で店長はそう言った。
穏やかでにこやかで有無を言わせない、店長の態度に、男たちは圧された格好でそそくさと顔を伏せて店から出て行った。
店長と森さんの態度に気圧されたのは私も小林も同じ事で。微笑む店長たちの横で、呆然と男たちが去り、からん、と扉が閉まるのを見送った。
まるで嵐が通り過ぎたような奇妙な静寂の中、私は立ちすくみ、ぼんやりと3人を見つめた。店長も森さんも、小林も視線をこちらに向けてくる。ボサノヴァが何事もなかったかのように、小さな音でのんびりと流れた。
見合わせた視線の中、そして、まるで示し合わせたように私たちは噴き出した。
「ははっ。」
「くくっ。」
「ふふっ。」
「あははっ。」
それぞれの笑い声が重なる。
「あー吃驚した。上で休憩してたら、小林君の怒鳴り声が聞こえてきたんだもんな。何事かと思った。」
「本当よ。私も着替えてた最中に聞こえて。ホント吃驚したわよ。」
くくくっ、と店長と森さんは可笑しそうに笑う。
よくよく見ると、森さんは上半身だけ私服で下半分はコックコートのボトムだった。店長も靴がいつもの黒い靴じゃなくてプライベートで使っている、ちょっと出歩く用のサンダルだった。相当慌ててたんだな。と思うと頭が下がらない。
「本当に、助かりました。ありがとうございます。」
そう二人に礼を言って私は頭を下げた。
「小林も、ありがと。助かったよ。」
そう小林にも礼を言うと、小林は別に、と首を振った。
「俺はたいした事していない。事態を収めたのは店長と森さんだ。」
その言葉に、森さんが、そうね。と笑いながら言った。
「お客さんだけでなく、ミクちゃんまで怒鳴りつけるし。」
「小林君が冷静でないところ初めて見たよ。いつもだったら、あんなの簡単にあしらえるだろ?」
店長も笑いながらそう言う。その言葉に小林は、笑いを引っ込めて、まあそうですね。と視線を外に向けた。
「ちょっと虫の居所が悪かったから、誰でもいいから怒鳴りつけたかったってだけです。」
「あら、そうなの?」
そう森さんが茶化すように重ねる。その言葉に、小林はそれ以上の理由はありませんよ。とそっぽをむいた。
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