天国というのは、ずいぶんと良いところらしい。
 何せ、行った人が誰ひとり帰ってこないのだから。






 雨が、降っていた。濡れるのも構わずに、いつもどおり、歩き出そうとして
 立ち止まる。このまま歩いてももう、あの人には辿り着けないんだ。
 わたしのためにたくさんの曲を書いてくれた。大好きな歌を歌わせてくれた。人に、家族にするように、あたたかな愛情をくれた人。
 このまま歩き続けても、もう会えない。あたらしい曲が書かれることも、もう無い。

「…ミク、風邪ひいちゃうわよ」

 髪や頬を塗らす冷たい雫がふっと消えて、振り向くとめーちゃんが傘をさしてくれていた。何も答えないわたしに、めーちゃんは何か問い詰めたりしなかったし、かといってその場を離れることもなかった。変わらずにすぐそばで、傘をさしていてくれた。

「めーちゃん…、もう、歌えないよ、どうしよう」

 わたしは歌うために生まれた。歌っている間は生きていられた。だけど、わたしを唯一歌わせられる人は、
 わたしが一番、歌を聴いてもらいたい人はもう、いない。

「もう、なにもないの。どうしたらいいかわからない」

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。雨に濡れた地面がわたしの涙を一緒に吸い込んで、溶けていく。
 わたしが落ち着くのを待って、めーちゃんは
 空いた方の手でそっと、わたしの髪を撫でた。

「なにもないなんて、嘘よ。ミクもわかってるんでしょ?」
「え…?」

 見上げるとめーちゃんはいつもどおり優しい表情で、わたしを見下ろしてた。そのままゆっくりと傘をたたむ。先端から落ちた雫がまた、地面に同化して溶けた。雨はいつのまにか、あがっていた。

「マスターがあなたのために書いた曲全部、あのひとがわたしたちのそばにいた証でしょう?あなただけが、それを証明できるの」

 ほんとうはずっと、痛くてたまらなかった。全部、心の中から消し去ってしまいたかった。そんなこと、できるはずもないのに。
 あの人がそばにいない、もう会えない、その事実を、忘れてしまえたらきっと楽だけど、

「ミクの歌の中に、マスターはいるの。あなたが歌い続ける限り、ずっと」

 冷たくて、寒くて、凍えそうだった心の中に 温度が宿って、一気に花が咲いたような気がした。道しるべのように光が射して、花々を照らす。ああ、あの人がいるのがこんなところだったらいいな。きっと、すてきな場所だよね。すごく遠いところだけど、わたしの歌声が届いたらいいな。
 失ってからずっと怖くて歌えなかった。わたしが歌う度にあの人がいない事実を突きつけられるようで。でも、そうじゃないんだ。
 わたしの歌の中にあの人が生きてる。わたしが歌えばその度にあの人には生き返る、なんどでも。

「歌いたい」

 怖いことなんか、ひとつもなかった。わたしが歌うことに意味がある。そのことが、わたしを生かしてくれるから。


 めーちゃんは相変わらず優しくわらって、そっとわたしの肩を抱いてくれた。あたたかいその温度を感じながら、もう一度あの人のことを思い出す。

 この気持ちが恋だったのかはわからない。もしかしたらもっと違う感情だったのかも。はっきりと言葉であらわすのはとても難しいけど、
 大切だった、それだけはまぎれもない事実。

「…好きだったのかな」

 目の前に広がった大きな虹は、まるでマスターの音のようにあざやかできれいだった。

「すてきな恋をしたわね」
 
 わたしを構成するすべてだった人。なにもなかったわたしの世界を、鮮やかに染め上げてくれた人。
 わたしを歌わせてくれた、命をくれた、大好きなあなたへ

 さよなら。


 …ありがとう。
 




ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

サ イ ハ テ

大好きな曲です。勝手にノベライズさせていただいてしまいました。

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投稿日:2010/10/24 19:40:50

文字数:1,542文字

カテゴリ:小説

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