―どうかこの祈りが消えてしまわぬうちに。私の元を旅立つ愛し子よ。凍てつくこの季節から、喜びの季節へと全ての幸いが君を祝福するように。
 

 1

ナルニアに行った少年。彼の中にはナルニアがあって、クローゼットの向こうには彼だけの世界が広がっていて、世界は彼のものだった。だけど気づいたらクローゼットもその向こうの世界のことも忘れていて、いつのまにかクローゼットは捨てられていた。もう彼には魔法の剣も道を示してくれるケンタウロスも存在しなくて、冒険もなにもかも宝箱の中に眠ってしまった。


 2

「ああ、ようやく起きてきたね。おはよう」
「おはよう、ございます」

そこにいたのは初老の男性だった。きっちりとしたスーツに身を包み、白髪は丁寧にセットされていた。一言で表すならまさに紳士という言葉がぴったりだった。

「ちょうどよかった。もうすぐ朝食ができる。適当な席に座っててくれ」

少年は戸惑いつつも、テーブルの、男性の位置から一番遠い席に座った。

「さあできた、食べよう」

紳士によって直かれたのは、両目のベーコンエッグと木でできたボウルに入った具沢山のポトフにバケットという文句のつけようがない朝食だった。冷えた寝室で目覚めた少年には、湯気をだす出来立てのそれらは、今すぐにでも手を伸ばしたいものであったが、食欲以上に疑問が先立ち恐々と口を開いた。

「あの…」
「ああ、私のことはミスターとでも呼んでくれ」

紳士は少年が質問を口にする前に名乗った。

「ミスター?」
「そう、ただのミスターだ」
「僕は…」

少年もまた自分の名前を告げようとした。しかし言葉が出てこない。名前ってなんだったっけ。そもそも自分に名前はあったのだろうか。わからない。

「大丈夫、構わないよ。君は君でしかない。私にはそれが分かってるから、もう十分だ」

これで話は終わりだというように、老人は少年の向かいに座り、両手を合わせた。





―君に魔法を見せてあげよう。
彼が見せていたのは魔法だったのだろうか。この凍てつくような季節の中、二人だけで過ごしてきた。

 ミスターと過ごす日々は穏やかで、不可思議で、居心地のいいものだった。朝目覚めて朝食を取る。一人で家の周りを散歩する。積もった雪の中を歩くのは大変ではあるが気持ちのいいものだった。夜はミスターの話を聞く。名前すら思い出せない僕は自分が話せることなど持ち合わせていない。何も思い出せないはずなのにミスターの話はどこか懐かしいという感情を抱かせる。

ミスターはいつも首からカメラを下げていた。カメラといっても、それは僕の知っているものとは大きく異なっていた。長方形の箱のような形をしており、レンズが二つ付いていた。

「ねえミスター。それってカメラ?」
「ああそうだ」
「それで何を写しているの」
「何でもさ。私が写したいと思ったもの、写したくないと思ったもの、全部撮っている」

写したいものも、写したくないものも。僕にとってその言葉は不可解で、写したくなければ撮らなければいいのにと思ったが、そんなことを言っても微笑まれるだけだろうとわかっていたから口にはしなかった。

「現像したものはないの」
「ないよ。だってこれにはフィルムが入っていないからね。何も写りはしないさ」

ミスターの奇行というか、僕にとっては不思議な言動はこれまで何度も遭遇したけれど、やはりそれでも驚かずにはいられない。僕にとってカメラというのは写真を撮るためのもので、自分にとって大切な一瞬を切り取るためのものだった。

「私は写真なんか取らなくても、すべて忘れないんだ。地層を思い浮かべてごらん。あれと同じだよ。新しい記憶はどんどんと古い記憶の上に積み重なっていく。けれど新しい層が堆積したからと言って、その下にある長い年月をかけてできたそれまでの地層がなくなるわけではないだろう。」

この人は自分の出会ったものすべてを記憶しているのか。記憶というより、それは最早記録に近いのかもしれない。

「それならなぜ、ミスターはフィルムの入ってないカメラをもっているの」
「なぜだろうね。君が答えを見つけてくれないか。」

 質問を質問で返すどころか、質問の答えを託されるとは。ましてやここに来る前の記憶をどこかに置いてきた僕なんかに。そう思いながらも僕は頷いてしまった。それこそ理由なんてわからないが、なぜだか僕がミスターに答えをあげたら、彼はきっと喜んでくれる。そんな確信に近いものが僕の中にはあった。


 
 4

 頬をなでる風が優しくなり、山を覆っていた白いドレスも消えかかっている。ああ、とうとうこの日が来たのか。短いようで長く、長いようで短かった。
 窓の外を眺めていると、騒がしく転がり落ちるような勢いで少年が2階から寝巻のまま下りてきた。

「ありえない」

 彼も朝起きて気づいたのだろう。泣きそうな、何が何だかわからない、幼子のような顔でこちらを見つめ小さな声でつぶやいた。

「ありえない、か。その言葉は使わないほうがいい。想像できることはなんでも現実になる可能性を持っている。」

彼の定位置となった席の椅子をひき、座るよう促す。大人しく席に着いたものの、視線は決してこちらから外さなかった。嘘だと言ってくれ、とその両眼が語りかけてくる。
自分も対面の席に腰をかける。この日を待っていたはずだ。それなのにこうも辛いことだとは。愛着というのは実に厄介だ。

「じきに春が来る。旅立ちの時だ。君はここから出なくてはいけない。」
「そんなの嫌だ。」
「君がどう思うかはもう問題じゃないんだ。君は去る。」

諭すように、確信には触れず淡々と告げた。けれどこちらの想いは届かない。強い瞳に怒りを湛え、堰を切ったように少年は早口で述べた。

「わかっている。あなたはとても賢い。僕なんかの何倍も何十倍もたくさんのことを考えている。あなたからしたら僕は浅はかだろう。愚直だろう。けれど、愚直な僕でもわかるよ。あなたがいなくなっていいはずがないってことくらい」

 ああ、なんということか。ほうら。やっぱり君は浅はかで愚かだ。そしてどこまでもまっすぐだ。その君のまっすぐさがどれだけ私を救ってきたのか君は微塵も気づいていないだろう。

「なあ君。」
「なんだよ。言い返せよ」

 君の言う通り私は君よりずっと頭が良くて君よりずっとたくさんのことを考えている。考えて、考えて、何が最善で最適なのかをよく理解している。私がここでこのようなことを言うのは、きっと誤りだろう。

「君は本当に愚かだよ。考えなしの浅はかだ。けれど君に救われたよ。何度もね」

 ああやっぱり、泣かせてしまった。怒りの表情が涙に変わって、君の頬を濡らしていく。やはり君は美しい。そしてこの冬の中にもう居てはいけない。

「ずるい。あなたは本当にずるいよ」
「君の言う通りだ」

このどこまでも哀れで、まっすぐで、何よりも愛おしい少年に、私は祈りをささげよう。彼が孤独に苦しまないように。もう2度と、ここに戻ってこなくてもいいように。さあ、そして君が振り返らなくても済むように、この祈りが消えてしまわぬうちに、進んでくれ。

「私はここから消えるよ。けれど勘違いしないでおくれ。君は一人になるわけではない」
「いなくなってしまってからのことは、いくらあなたが聡明でもわからないでしょう」
「いいや、わかるさ。君に魔法の言葉をあげよう。」

これで最後。どうか彼の瞳が孤独に揺れることがないように、私はその未来だけを願おう。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【Mr. Winter】どうかこの祈りが消えてしまわぬうちに(1)

スペクタクルPの楽曲「Mr. Winter」を基に数年前自己満足で書いた小説です。供養のために挙げたいと思います。(1)(2)と続いているのでお時間のある時にどうぞ。

閲覧数:531

投稿日:2021/06/26 15:17:48

文字数:3,123文字

カテゴリ:小説

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