36.国境
黄の国の一隊長セベクの天幕にて待つ緑の国の密使、ネルのもとへ、乗馬の装備に身を固めた女王と、荷物を抱えた召使が現れた。
「ミク様にお会いするためのドレスです」と召使は説明した。
「お待たせいたしました。ネル様。参りましょう」
静かな声音で女王がのたまう。風は徐々に夕方の気配を含み始めた。一日のうちでもっとも移動しやすい夕方がやってくる。
「セベク隊長。兵士たちをよろしく頼みます」
「お任せください。……いくつかの隊に分けて、緑の国のあちこちから攻め入ることになりましょう。それまで、どうか、ご無事で」
セベクの茶色の短髪が風にかきまわされる。女王の髪も風にあおられ、緑がかった青い瞳がてらりと光った。
女王とその召使は、なれた所作でひらりと用意された馬にまたがった。
「ネル殿の馬も用意してあります」
セベクの部下が引き出してきた馬を見て、ネルは驚いた。ネルが黄の陣営まで近付くために使った、運送屋の貸し馬と、各段に違うことが見て取れる。
「このような……よい馬を使わせていただいてもよろしいのですか」
女王が静かにうなずいた。
「もちろんです。……黄の国の命運が懸っておりますゆえ」
ネルは女王に一礼し、与えられた馬に飛び乗る。
リン女王のしずかなまなざしを、視線だけでちらりと見やる。
「リン女王様、雰囲気が変わった……? 」
きっと乗馬のための旅装と、これから会談に向かう緊張のためだろうとネルは思った。
「では、ネルさま。行きましょう」
召使のレンと呼ばれた者も、馬に乗ってすっかり出発の準備を整えていた。
「……よいのですか、供の者が……彼だけで」
馬を進めながら尋ねたネルに、リン女王はふっと笑みをみせた。
「……あなたに信じていただくためだったのですよ? ネルさま? 」
リン女王が馬をネルの横に並べ、まるで友人のように囁いた。
「もしわたくしが護衛をたくさんつけたら、あなたはわたくしをミク様のところへ案内してくれたかしら? 途中で理由をつけて殺されると警戒するのではなくて? 」
ネルは素直にうなずく。ここは女王の話を聞くことが賢明だ。
「それに」
リン女王はそっと告げた。
「わたくしとレン、たった二人なら、貴女が緑の国へ案内する道中、いくらでも狙い待ち伏せて殺すこともできるでしょう。それが貴女の安心となる。……まぁ、もしわたくしを殺したならば、後から来る黄の国の軍が、頭を失った状態で緑の国を襲う」
低い声に、ネルの背筋がぞくりと強張る。
「もとより、そのつもりはありません! 」
「そうでしょうね。貴女はそれを理解していることが、わたくしの安心です」
リンがにこりと微笑む。ネルはその瞳を、まるで底知れない森の湖のようだと思った。
ネルが馬に強く合図を出すと、すぐさま馬は走りだす。すぐ後ろに続くリン女王とレンの姿を確認し、さらに馬を飛ばす。女王も召使も、馬の扱いは慣れたものであるようだ。すぐさま女王を送り出す挨拶が次々と贈られ手を振られ、ネルと女王と召使の馬は黄の陣営を抜けていく。すぐさま陣営が出立の準備を整え、動きだす。
緑の国の境まで、歩兵の早さで約一日半。
「馬なら半日といったところです。日付の変わるころには、緑の国へ着くでしょう」
ネルが高く指笛を鳴らすと、相棒の鷹が一直線に降りてきた。ネルの馬の鞍の後部にとまる。しっかりと位置についたことを確認し、ネルは馬に鞭を入れた。
ぐんと風を切って馬が走る速度を上げる。
黄色の砂を巻き上げる大地に、太陽がゆっくりと傾いてゆく。
* *
荒野の夜は冷える。わずかな給水と休憩をとりながら、ネルを先頭にしたリン女王とレンは馬を走らせ続けた。
黄の国と緑の国の緊迫した状況は、すでに鳩が飛び交い、情報屋が口伝え、街道沿いのすべての町に知れ渡っていた。外の国の民に伝わるのも時間の問題である。
いつもの年ならば、夏の終わりのこの時期は、人と物の行き来でにぎわう街道だが、今回は、通り過ぎる家も店も、すべてまるで嵐の前のように扉をしっかりと閉ざしている。
ネルと黄の女王、そして召使の乗った三騎の馬は静まり返った夜の町を走り抜けた。やがて国境の山道に入った。木々の少ない、乾いた石ころを積んだような山だ。それでも黄から緑に到るもっとも主要な陸路である。それはだれもいなかった山間の谷間に緑の民が根付き、黄の国にとりこまれ、そして国の概念のなかった緑の民が初めて仕切った国境である。
ふたつの民族の心のへだたりが今も存在することを示すような、そんな荒れ果てた道であった。
「本来ならここから黄の港へ向かい、海路より緑の港へとお迎えするのが筋ですが、」
ネルが言葉を濁らせる。それが本来の、緑の国と黄の国をつなぐ道だ。どの商人も旅人も緑の国へは海から入る。わざわざ危険な山道を行く者はいない。
「急を要するのです。わたくしはかまいません」
召使もうなずく。リン女王はともかく、召使もきちんと馬を使えることにネルは驚いていた。
「そうだよね。王様に仕える係だものね。いろんな仕事をするんだろうな」
幸いにも、今日は月夜である。大きな月がゆっくりと天の頂きをめざして空を昇っていく。
「これだけ明るければ、たいまつを掲げる必要はありませんでしたね」
召使がそう訊いた。ネルは、この陸路を予想してたいまつも持っていたのかと感心しながらうなずく。
「馬を緊張させても困りますから、無い方がよいですわ、リン女王様」
「黄の国の馬は慣らされています。掲げたとしても問題ありません」
リン女王の答えに、ネルはうなずいた。また、釘を刺された気分だった。たいまつをかかげても驚かない馬。それはつまり夜討ちが可能だと宣言されたも同然だ。
「……相棒」
ネルは、馬の鞍の後ろにとまって眠っていた鷹を呼ぶ。鷹が目をさまし、よたりと一度よろめいたが、すぐさまネルに応じで移動してくる。
「これを、ミク様へ。お願いね。……行け」
ネルは馬を進めながら鷹に乾し肉を与え、食べ終わった鷹を空に放った。鳥は羽ばたきながら谷を海へ向かって滑り降りていく。その先にあるのは緑の国の王宮だ。
「夜なのに、飛べるのね? 」
「……緑の国の鷹は、慣らされていますから」
馬を並べて書面を確認していた女王に、ネルは言い返した。
「そう。頼もしいわね」
にこりとリンが笑う。女王のその時の表情は、強気な発言を好むミクを思わせて、ネルはわずかに金色の瞳を伏せた。
緑の国に着いたら。この若い女王は。そして、同じく声変わりもしていない若い召使もろとも。
「……でも、すべて緑の国を守るため。進軍してきた黄が悪いのよ」
黄色の髪、金色の瞳をした異形の自分に生きる場所をくれたミク。彼女から、ネルが聞かされていたのは、有能な黄の女王の抹殺だ。
「もうすぐ大国の青が私の未来の夫としてあいさつに来る。
その場でリンの理不尽な侵略を晒し、黄の女王の生命も、黄の国の信用もすべて殺す。
国としての力を失い、ただの資源埋蔵地になった黄の大地を、相手に手渡す。これが私から青のカイトさまへの嫁入り道具よ」
そのために、ミクは黄が荒れ果てるのを傍観した。そのために、黄の国が侵略を選ばざるを得ない状況を自ら作った。青との婚約も情報も、黄に流れるままにした。
黄からすべてを取り上げるために。
「あの国の力がなくなれば、隣で緑の国を脅かすものは消える。緑は青の力を得て、黄の大地を使い、さらに発展するわ」
そしてミクはやわらかに、ネルに向かって微笑んだのだ。
「そして私のもとで、黄の民も、緑の民も、自由に行き来する国ができる。よかったじゃない、ネル。あなたと同じ、黄色の髪をした緑の民が増えるわよ」
「そしたら、私は」
「ええ。悪目立ちすることもなくなるわ」
ミクの声が静かに熱を帯びた。
「ネル。私は、ずっと考えていたことがあるの。
海の民、自由の民と呼ばれた緑の民は、じつはとても閉鎖的。誰かを排除することで、仲間の結束を高めて、結果、すごくいい仕事をしてきた。
……正直、そういう民も必要よ。でも、そうでない者に生きられる場所が、今の緑の国には無い。だから、黄の国を盗ることで、緑に生まれた哀れな外れ者の受け皿にしようと思うの。
ねぇ、ネル。あなたもそう、ハクもそう。外れ者も、優秀な人がいる。そういう人をいじめやら自殺といった下らないことで失いたく無いわよね? 緑の国として」
ネルは、その言葉を歓迎した。ミクの語る国は、どこまでも正しく素晴らしい国に思えた。その国を作るために、不幸になる者はたった一人。黄の国の、リン女王。たった一人の命で、どれだけの人が幸せになるのだろう。
月夜に馬を進めていく。密使として黄の国に通ったネルとしては慣れた道だ。ひとつの曲がり道を曲がるたびに見える景色が、緑の国が確実に近づいてくることを教えてくれる。
ネルの背に、リン女王の馬の蹄の音が響く。彼女の背後には黄の大きな歩兵集団がある。
ネルの手のひらが汗に湿っていく。手を保護していた手袋を外し、帯の布で手のひらを強く拭う。そして手綱を握って山道を下る。
やがて緑の木々に囲まれた谷が見えてきた。緑の森と緑の王宮だ。
ネルの馬足が自然と早まった。
続く。
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