『鏡の向こう側』

冷たい雨の降る日

四階の踊り場の鏡に手をついて

「自分も連れてって」と言うと

「向こう側の世界」に連れてってくれる







そんな噂話を聞いたのは先週の話。
友達から、じゃない。
トイレでクラスの女の子が可笑しそうに話すのを聞いた。
私に友達なんか居ない。
卑屈で、いつも下を向いて歩く、目つきの悪い付子。
そんな私に、友達なんか居るわけがなかった。

・・・私は、どうして生きているんだろう。


死にたい理由はないけれど、生きたい理由もなかった。
こんな私なら…
こんな世界なら…

いっそ








私は一人、4階の音楽室の掃除を終えた。
今日は私しか残れる人が居なくって、それで、一人だった。
だから、一人だった。
分かっていても、言い聞かせても、どうしても頭をよぎる。


「普通なら友達が手伝ってくれるんじゃない?」

「一人で掃除なんていじめられてるんじゃない?」

あざけ笑うような声が、聞こえた。



ぺた、ぺた

階段を下りる音が柔らかい。
雨だから廊下も階段も湿っているんだ。
今日の雨はずいぶん冷たい。

冷たい…雨…

目の前にある鏡を見やる。



「四階の踊り場の鏡に手をついて「私も連れてって」って言うと」

「不思議な世界に連れて行かれちゃうらしいよ」



噂好きのクラスメイトの声が頭をよぎった。

こんな世界…私なんか…居ても居なくても…

震える手をそっと鏡に押し付ける。
そして、私はそっと唇を開いた。









「私も…連れてって」


絞り出した声は酷く震えていて、なんて無様なんだろうと思ったことは覚えている。
気が付けば、そこに居た。













そこは・・・不思議な所だった。
旧校舎を思わせるような木の造りなのに、床は大理石みたいに滑らかで冷たい。
窓枠は校舎と同じように木で出来た質素なものだけど、硝子の代わりにはめられていたのは全て鏡だった。
誰も居ない、何も居ない不思議な場所で、私の息と心臓の音だけが響く。

だれか、

そう言いかけた私の言葉は、声帯を震わせることができなかった。
呆然と立ち尽くす私に応えるものは何も無くて、窓枠にはめられた鏡がただ私を静かに見つめている。


ぺた

不意に何か、音が響いた。

ぺた…

背後から響いてくる。

ぺた…ぺた…

はだしで…湿った廊下を歩く…様な……

ぺた…ぺた…ぺた……

じっとりと背中のシャツが湿るのを感じながら、私はゆっくりと振り返った。


何も…居ない…
な、なんだ…気のせい…かな

怖くてそんな気になってしまっただけかもしれない。
ほ、と息をついた時だった。

目玉のない子供が私の袖を引いた。



い、いや…なに、アレ…!!
どう、して…!?
いやっ…なに…が…っ

私はどこまでも伸びる廊下を全力で駆ける。
そんな私を追ってぺたぺたと駆ける足音が私のうなじを撫でた。

いや、いや、いや…!!

そう叫ぶ私の声は相変わらず声帯を震わせることは無くて、みじめでたまらなくって、
走り続けるうちに息が苦しいとかそんな感覚はなくなって、身体もなんだか軽くなったようで、

まるで何か悪い夢でも見ているようだった。














「はぁ…っ、はぁっ……はっ」

ぺたぺたと響く音が遠くなって、次第に聞こえなくなってからもまだ随分走った。
恐ろしくて、不安でたまらなくて、視界が滲む。
私の身体は壊れてしまってもおかしくないくらい走って、ずっと走り続けているのに、
疲れたとか苦しいとか、そんな感覚が無いのが酷く恐ろしかった。
もうぺたぺたと響く音は聞こえないのに、いつまでも頭の中で響き続けている。

もう、やだ…

唇は震えたまま、言葉を作ることすらしなかった。
唇も身体も震えているのに、私の喉は震えない。
元々、
元々声を出すのは得意じゃなかった。
虚勢を張るのは得意だったけど、弱音を吐くのは苦手だった。
誰も私の声なんか聞いていないのに、私のことなんか見ていないのに、
みじめな自分を誰にも見られたくなかった。

滲んで視界はぐらぐら歪んだけど、どうしても私の瞳は乾いてしまう。
鏡に映る私の顔は、いつも以上に色が悪い。

鏡を見つめて、私は足をとめた。




い、いや…!!

私の足を引いた幼子の手を振り払ってまた長い長い廊下を駆ける。
怖くて、恐ろしくて、目眩がした。
それでも私の足は、身体は、崩れ落ちること無く動き続ける。
もう随分と走り続けているのに、私の身体はどうしてしまったんだろう。
恐怖に埋められる心とは裏腹に、私の頭はひどく冷静だった。


ぺたぺたぺた

あの音が、私の鼓膜を揺らした。

逃げなきゃ、隠れなきゃ。

廊下から、
教室に入ろうと、
硝子の代わりに鏡のはめられた扉を、

開けた。




もう、もう、もう…!!
どうして…!?

跳ねるようにその場を離れた。
駆ける私の耳に、

ずるり

そんな音が聞こえた気がした。

私の中で、何かが壊れた。


動く、動く。
私の身体も、私の頭も。

この世界は何?
あの目玉の無い子供は、何?
あの幼子の手は、何?
あの大きな口は、何?

気味が悪いほど、私の頭は冷たく動く。
じんわりと指先が痺れた。


どうしてあの子供は私を追うの?
どうして私の袖を引いたの?
どうしてあの小さな手は私の足を引いたの?
どうしてあの子たちはここにいるの?

どうして私は、ここにいるの?

冷たい頭は滑るように動く。
私のシャツはもう乾いていた。
















走り続けていると、扉のあいている教室を見つけた。
走る足を緩め、ゆっくりと教室を覗く。

何も居ない。

私はそのまま教室の中に入って、教室の隅に座り込んだ。


スカートに顔をうずめると、足を引かれた。
私はそれを無視してただ縮こまる。

ぽた ぽた

私の足元を、赤黒いナニカが濡らした。
私はそれを無視してただ縮こまる。

ずるり

遠くで響く音が聞こえた。
私はそれを無視してただ縮こまる。

きつく唇を噛むと、鉄の味がした。




「もう、やだ…」

ようやく震えた私の喉は、酷く乾いていた。

「かえりたい…」

震えた声が、絞り出した声が、あんまり惨めで、無様で、
逃げたいと思ってきたはずなのに・・・なんて、
なんて滑稽なんだろう。

そう思ったときだった。


かたん

静かに扉を引いたときの、引っ掛かるような音がした。

ぺた

湿った音。

ぺた、

もう・・・もう・・・・・・いいや
不安げに私の足首を掴む幼子の手をそっと撫でた。


ぺた、ぺた

短く息を吐いて、顔をあげた。

そこに居たのは、目玉のない子供じゃなかった。





「…こんにちは」

薄い唇から出た言葉は酷く穏やかで、冷たかった。

その人は、恐らく人間ではないのだろう。
色の悪い皮膚も暗い緑の髪も、少し濡れたように照っていて、冷たく見える。
人より細長い身体は不気味に感じた。

「こ、んにちは」

応える私の声は相変わらず酷く震えていて、無様だった。


「…血が」

そう言いながらその人は私の口元を撫でる。
唇を噛んだときに切ってしまったのを思い出した。
ただ私はなによりその人の手があんまり冷たくて驚いた。

「…冷たかったですか」

暗い瞳が私を見つめる。
その人の何もかも、ひどく冷たいのに、私はなぜだか・・・酷く安心した。

「…いきましょう」

そっと手を差し伸べられる。
・・・いきましょうって、どこに?
そうは思ったけれど、私はなんにも言えないで、ただ手を引かれた。











ぺた、ぺた

私達は二人で冷たい廊下を進む。


ぺた、ぺた

なんにもいわないで、ただ手を繋いで歩く。


ぺた、ぺた

握る手が冷たくて、優しくて、私はどうしてここに来たのか、あと少しで思い出せそうな気がする。


ぺた、ぺた

私達の足音とは別に、遠くでぺたぺたと響く音が私の鼓膜を揺らす。


ぺた、ぺた

遠くに聞こえるぺたぺたと駆ける音は、とても焦っているように聞こえる。


ぺた、ぺた

ぽたぽたとナニカが垂れる音は私達のすぐ後ろをゆっくり追いかけている。


ぺた、ぺた

ずるりと聞こえた音も、重い身体を必死に動かしているように聞こえる。


ぺた、ぺた

足元を見降ろしたけど、何も居なくて何故だか寂しく思う。


ぺた、ぺた

痺れる指先は冷えて、冷たい頭がよく動く。


ぺた、ぺた

私は何かが分かったように思う。


ぺた、ぺた

黙って歩くうちに、私はなんだか涙が出そうになった。











「…つきました」

手を引かれ連れてこられた場所にあったのは、鏡で出来た扉だった。
銀色に光るノブが、静かに私を見つめている。

「これ、は?」

絞り出した声はかぼそかったけれど、もう震えてはいなかった。

「…帰るんでしょう」


帰る・・・
その言葉を聞いた、私は、
あの教室であんなに帰りたいと思っていたのに、
駆けまわった廊下であんなに帰りたいと思っていたのに、
長い長い廊下を歩いた私の胸に浮かんだものは、
ひどい虚無感だった。


この世界は、おそろしい。
でも、それでも、それは、わたしがおそれるからで、

ほんとうは、
やさしい手は、
つめたいせかいは、

ほんとうは、

むこうのせかいは、

こちらのせかいは、

わたしは・・・





→かえる
→いや





→かえる


・・・私はそっと、繋いだ手を解いた。

その手に、何かとても大切なものを忘れていってしまったような気がして、
心にぽっかり穴があいてしまったような気がして、
視界が滲んだ。

ぽたぽたと透明な雫と赤黒いナニカが私の足元を濡らす。
ずるりと音がして、うめくような声が聞こえた。
顔をあげると、冷たい瞳が私を見つめている。
私の瞳はもう乾いていなかった。
ぺたぺたと遠くから慌てて歩く音を聞きながら、
名残惜しそうに私の足を引く幼子の手を優しく蹴散らして、扉を開けた。








気がつけばそこは見覚えのある場所だった。
朱色の光が差し込む場所で、ぼんやりと虚空を見つめる。
滲む視界を拭おうと頬にあてた右手がまだ酷く冷たくて、
私は一人、冷たく湿った床に崩れ落ち、泣いた。











→いや

・・・私はきつく、繋いだ手を握った。

繋ぐ手が冷たくて、しびれた指先はひどくかじかむ。
もう私にはその感覚すら遠くて、
ただ心地のいい冷たさだけがしみて、
視界が滲んだ。

きつくつむったまぶたの裏で、クラスメイトの顔が浮かぶ。
ひとり、ひとり、順番に。
うわさ好きのあの子、いじわるなあの子、甲高い声で笑うあの子・・・
そうして順番に、振り返る。
去年のクラスメイト、おととしのクラスメイト、その前のクラスメイト・・・
お世話になった先生、毎日声をかけてくれる近所のおばさん、一緒に遊んだ近所の小学生・・・
順番に、順番に、思い浮かべる。
厳しかったお爺ちゃん、優しいおばあちゃん・・・
それから、おねえちゃん、おとうさん、おかあさん・・・

私の人生の登場人物を、たくさんの人を、ひとりひとり思い浮かべたけど、
誰ひとりとして私を引き留める人が居なくて、
心配そうに私の足を引く幼子の手を、
細く冷たく優しい手を、
きつく握り、私は泣いた。






冷たい冷たい世界で、やさしいやさしい世界で、
私も冷たくなって、やさしくなって、


私はこの学校の七不思議を思い出した。















「冷たい雨の降る日に」

「四階の踊り場の鏡に手をついて」

「「自分も連れてって」って言うと」

「「向こう側の世界」に連れてってくれるんだって」


「そこにはお化けみたいな住人たちが居るんだけど」

「みんな元々はこの学校の生徒で」

「向こうに行ったら私達もお化けになっちゃうんだって」

「すぐに帰ってくれば助かるんだけど」

「長くいるとどんどん身体が変わっちゃうらしいの」


「・・・おととし先輩が行方不明になったでしょ?」

「きっとあの先輩も「向こう側の世界」に行っちゃったんだよ」

この作品にはライセンスが付与されていません。この作品を複製・頒布したいときは、作者に連絡して許諾を得て下さい。

「鏡の向こう側」 full

前のバージョン、で指示入りです
今回は指示すごくざっくりにしました
シナリオ担当の人にある程度任せようと思います


表現を増やして、少し整理して変えてみました
「優しい化物」と言うのが私の好きなテーマなのですが、
増やしたことでより鮮明に描けたかなぁと思います^^

指示なしの文字だけとって、4,486字でした

閲覧数:286

投稿日:2015/05/30 20:09:01

文字数:5,078文字

カテゴリ:小説

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