ずんずんちゃかちゃか、ずんちゃかちゃ。
ずんちゃかずんちゃか、ずんちゃかちゃ。
この季節になると僕は太鼓の音に誘われ、あの日のことを思い出す。
それは奇しくも十数年前の今日と同じ、
忘れもしない7月18日、縁日の日のことだった。
僕の育った家庭は一般的な父と母、そして僕の三人家族だった。
父は当時、まだ世間的に職業として認められていなかった所謂フリーのプログラマーで、
原始的なソフト開発の仕事を生業としていた。
地方の三流大学出身の父が何故そんな先駆あるいは専門的な技能をもっていたのか、
今となっては些か疑問ではあるものの、ともかくまだ一般にこんぴゅーたーという言葉が浸透していなかった時代である。
当然仕事の需要は限られていて、
さらに米留学経験者や大学の研究員などが優先的に仕事を与えられていた。
そんな背景に、コネなどもない父は欠員が出た開発室等を訪れては、日雇いのように働き、 日々の生計を立てていた。
幸い、逆に父自身のそういった経験からか、
貧窮していた家庭状況ではあったものの、
僕はちきんと学校に行かせてもらえた。
ただ、前述のように父の仕事先が安定しなかったため、
僕は小中学校時代、父の職場が変わるごとに数え切れない転校を繰り返した。
また母は良家の出での人で、音楽大学を出ていた。
ただ疎遠になっていたためか母の実家から経済的な支援はなかった。
そして母は転居先ごとに音楽教室を開いては小銭を稼ぎ、生活費の足しにしていたが、
父の仕事道具がもともと高額で希少であったため、そのほとんどはそれに消えていってしまっていた。
そんな十数年前の11才の夏、僕は夏休みが始まるのを待たずに、十数回目の転校をした。
越した先は地方の小都市で、開発は進んではいたものの未だ田園風景の残る、良き日本の街だった。
越してから3日目、つまり7月18日は観音の縁日で、近所の寺院で屋台露天が出され、街全体がお祭りムードに包まれていた。
当然、僕は子供心に祭りに行きたかった。
しかし両親は仕事と、転居に伴う雑務に追われていて忙しく、僕と祭りに行けるような状況ではなかった。
むしろ子供の僕が側に居ると邪魔なようだった。
また、越して間も無く、学校への転入手続きを済ませていない僕にとって祭りへ一緒に行く友達などいるわけがなかった。
正直1人きりで祭りに行ける年齢でもなかった。
けれど結局夜まで待つも、両親の手は空きそうもなく、
駄々をこねる僕は五百円玉一枚をその小さな手に握らされて、一人、祭りへと行かされたのだった。
寺院に向かう夜道、他の親子や子供達の群れが祭りから帰ってくるのにすれ違うと、言いようのない寂しさを感じ、僕は目を背けた。
またすれ違ったあとに残る夏虫の残響と、僕自身の草履の足音がやけに五月蝿かったのを今でも覚えている。
ずんずんちゃかちゃか、ずんちゃかちゃ。
ずんちゃかずんちゃか、ずんちゃかちゃ。
太鼓の音が近い。
1/4 前バージョンに続く
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