それから一日空けてのレコーディング当日。わたしは朝から気分がよくなかった。あの後のPV撮影も、昨日のインタビューもジャケット撮影も、なんかもう表情と声が感情を上滑りしすぎて気持ち悪いったらありゃしなかった。わたしは果たしてちゃんと笑えていたのでしょうか? 体調が悪いわけじゃないんだけど、ココロが完全に風邪をひいている。まったく、こんなんでマスターのあの難しい要求に応えられるわけがないじゃない。初音ミク、今まで仕事に関しては優等生を貫いてきたけれど、生まれて初めて不完全燃焼を体験しちゃうかもしれない。
ガラスの向こう側で私を待ち構えていたマスターは、一目見てわたしがおかしいと気づいたみたいだった。さすが、ご主人様。
「どうしたんだ、ミク。むくれた顔がさらにむくれてる」
……ひどい。お兄ちゃんも大概だけど、マスターも相当デリカシーのない男よね。まったく、男ってやつは、男ってやつは!
「冗談だよ。そんなに睨むなって。俺にも言えないことか?」
「ますたー……」
マスターの声が予想外に優しくなったので、わたしはそのギャップに思わずへたり込む。最近、こんなことばっかりだね。
「……わたし、お兄ちゃんもお姉ちゃんも大好きなの。生まれて初めて見えた景色が青と赤でとってもきれいだなぁって思ったの。そしたら、一緒に暮らす家族だよ、って言われて、本当に嬉しかったの。お兄ちゃんもお姉ちゃんもアルファベットの名前で私だけ純日本みたいな名前だし、わたしだけエンジン違うし、なんかアイドルとかってもてはやされちゃうし、そのわりにまだまだすごいお子様なのに、二人とも全然分け隔てなく接してくれるし。だから、なんの躊躇いもなく「先輩」じゃないくて「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」って呼ぶことができたの」
たぶんね、目の前にいる人が、わたしたちと同じ世界にいる人で、わたしたちと同じように生きている人で、触れることができて、支え合うことができるような人だったら、わたしは絶対にこんなことは話していなかったと思う。やり場のない思いをやり場のないままに、きっとささくれた毎日をしばらく過ごしていたんじゃないかと思うの。
マスターは、向こうから何も言わないで聞いてくれてる。本当だったら、今すぐにでもレコーディングを始めて、一刻も早く編集作業に入りたいはずなのに。優しいね。わたしの周りには優しい人しかいない。
「でも、いつのまにか、わたしの中で「お兄ちゃん」じゃなくなってた。……大好きな人たちに順位なんてつけたくないの。つけたくないのに……」
ポツリと、ひとつ涙が落ちてしまった。それはスタジオの絨毯に吸収されて小さな染みを作り始める。一度認識してしまうとこの感情というのはタガが外れちゃうみたいで、涙は次から次へと落ちてきた。我慢が出来なくなって小さな子供みたいに泣き続けちゃったけれど、それでもマスターは黙って気が済むのを待っててくれた。
「ミク。その気持ちのまま歌ってみろ」
しばらくして、もういい加減無理矢理に涙を止めようと思った時のこと。突然考えついたかのようにわたしはそう言われた。
「え?」
「俺の求めてる『ソフト』ってのは、たぶん、お前のそういう人間臭いところにあるんだ」
わたしの人間臭いところ? 人間も、こんなどうしようもない気持ちに悩むことがあるの? これって、わたしが機械だから処理しきれない感情なのかと思ってた。人間でも、こんな風に思うことあるの? VOCALOIDを作り出せるような優れた頭脳を持ってる人間が、こんなに、心臓が壊れそうになることってあるの?
そうやって聞いたら、マスターは苦笑した。
「何言ってんだ。それを勉強するためにお前たちにはその世界があるんだろう。そんで、人間の心情を癒すために音楽ってのは存在してんだ。そこに寄り添えてこそのVOCALOIDだろう?」
ちょっと、今のお前には酷なことかもしれないが……すまん、とガラスの向こうで謝られた。酷なこと? ううん。わたしには、今のこの自分の気持ちを持っている人たちが、ガラスの向こうにもたくさんいるって知れただけでなんだかうれしい。
「レコーディングしたら、一応ミックスが終わるまでの限定でスタジオ貸しといてやる。気が済むまで一人でいろ」
それからわたしにマイクの前に立つよう指示を出す。マスター、一体どこまでわたしに甘いの? ミックス作業の終わりって言ったら、いつも寝ないで曲を仕上げるマスターのこと、明日の朝になっちゃうよ。
思わず笑ったわたしに、今度は照れ隠しのようにぶっきらぼうな声がかかった。
「行くぞ」
クリック音と共に始まった。
音楽が、わたしを呑みこんでゆく。
「ミク! 新曲聴いたわよ!」
朝起きてリビングに着いたとたん、お姉ちゃんがわたしに飛びついてきた。すっごく嬉しそうな声をして、満面の笑みを湛えていたのだけれど、でもその瞼はちょっと腫れてしまっていたし、目はものすごく赤くなってしまっていた。
「お姉ちゃん……。どうしたの?」
寝起きのわたしでも、さすがに気づくほどの泣いた跡。一体何があったの?
「どうしたのって、こっちが聞きたいくらいよ! あなたの新曲聴いてたら、もう涙が止まらなくなっちゃって……」
あぁ、そうか。今日は新曲の配信初日だった。レコーディングが終わってからはもう次の仕事にかかりっきりだったから、あの曲のことはすっかり忘れてしまっていた。……なんて、うそ。本当は、今日この日がわたしの人生を変えてしまう日になるんじゃないかと戦々恐々としていたんだった。あの気持ちのまま正直に歌ってみて、マスターにも今までにないくらい褒められて、その時のわたしはものすごく充実した気分に浸ってた。でも時が経つにつれて、どんどん怖さの方が大きくなってしまって。絶対に、言葉にはしないと決めていた。言霊の力はとても大きいものだと知っていたから、絶対に言わないと。だからこそ、歌に自分の気持ちが透けて見えてしまっているんじゃないかって思うと怖かった。怖くて怖くて、完成した音源はいまだに一度も聴いていないくらい。
「もう、お姉ちゃんたら大げさだよー」
そう言って、お姉ちゃんの体を自分から離した。少しだけ緊張して声が震えてしまったけど、わたし、うまく言えてたかな?
「ミク……」
お姉ちゃんの優しい声が、頭上から包み込む。下を向いたら静かに頭をなでられて、もう一度、今度はゆっくり抱きしめられた。
「私もね、昔、悲しい思いをしたことがあったわ」
「え?」
「……歌ってくれて、ありがとう」
強くなった腕の力に顔は上げられなかった。お姉ちゃんが、何のことを言ってるのかは全然わからない。でも、ありがとうと言ってくれたその言葉がやけに嬉しくて、なんだか今までの全てが報われたような気がして、わたしは全力でお姉ちゃんを抱きしめ返した。やっぱり、わたしはお姉ちゃんのことも大好きなの。
なのに。
「ミーーーーーグーーーーー!」
完全に空気を壊したその鼻声は、階段の上から降ってきた。ドタドタと騒がしい足音と共に一段飛ばしで降りてきたお兄ちゃんは、ものすごい勢いで号泣しながらわたしたちに飛びついて……来ようとしたところをお姉ちゃんに蹴り飛ばされちゃった。
「いって! めーちゃん、なにすんだよ! 僕だってミクに抱きつきたい!」
「そんなきったない顔して天下のアイドルに抱きつこうだなんて100年早いわ!」
「だって! 感動したんだもん! 僕のミクがこんなに素敵な歌を歌ってるって思ったら、もう、いてもたってもいられない!」
「いつアンタのミクになったってのよ!」
あぁ……私のことでヒートアップしてるところ、なんだか申し訳ないけど……。これは当分終わりそうにないなぁ……。わたしはそっと二人から離れて、みんなの分の朝食を作るべくキッチンへと向かうことにした。普段あんまりお料理することはないけれど、卵焼きくらいは作れるんだから。
お兄ちゃん。残念ながら、わたしへの抱きつき権はもう当分の間お姉ちゃん限定です。もう少したったら、きっと大丈夫になるからまだ我慢してね。そしてその時にはきっと……ううん。絶対に! わたし、全力でお兄ちゃんを応援できるようになるから。
でも……。
あのMEIKOとKAITOを泣かせた歌、やっぱりわたしもちょっと聴いてみたいなぁ。今度勇気を出して、もらったサンプルをパソコンに取り込んでみようか……。
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おにゅうさん&ピノキオPと聞いて。
お2人のコラボ作品「神曲」をモチーフに、勝手ながら小説書かせて頂きました。
ガチですすいません。ネタ生かせなくてすいません。
今回は3ページと、比較的コンパクトにまとめることに成功しました。
素晴らしき作品に、敬意を表して。
↓「前のバージョン」でページ送りです...【小説書いてみた】 神曲
時給310円
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