Last night, good night /1

 周囲はただ静かで、見渡す限りには何もない。荒廃と言うにはあまりに美しい情景だ。人々の描いていた終焉がこれだというのなら、それはある意味で救いだと、彼女は思った。
 かつて、ここには大きな大きな世界があった。大きな大きな文明があった。
 いや、かつてなどという言葉を使うほどの時間ではない。人類の重ねてきた歴史からすれば、瞬きをするほどの間。
 そう、ただ瞬きをするほどの以前だったのにも関わらず。今、この場所には何もない。ただ、生命の鼓動すらも存在しない、平坦な地面が広がっている。
 ――まるで月の世界のようだ。
 彼女はそう思って、空を見上げた。
 夜の空はどこまでも高く、黒々と澄み渡っており、雲さえもない。星たちが遠くで瞬いているのが見える。人工の光の絶えたこの世界では、その時代に生きていた人類が見たら驚きに顔を染めるであろうほどの大量の星が夜空を彩っていた。無論、彼女もそれに漏れず、驚きは隠せない。しかし、彼女の場合は、人類に比べれば浅いものだと言えた。
 彼女は、その内部に地球から見えうるであろう星の総数を保持していたから。予め、数字だけは知っていたのだ。
 それでも、この光景は彼女にとって圧倒的と言えた。
 疑う気持ちがあったわけではない。その数字は人類が生きてきた数千年の間に観測されたものであり、多少の誤差はあろうと、それは真実であるというのが彼女と、彼女を造った科学者たちの見解でもあった。
 だから、彼女が驚いたのは、そんなことではなく。
 この星たちの瞬きの美しさ――あるいは雄大さ――あるいは儚さ――だった。
 この一つ一つが、生きていて。
 この一つ一つが、星という、生命の最大単位。
 宇宙には、こんなにも多くの生命が息づいていて。
 ……でも。この星に、もう生命はいない。いや、正確に言うのなら、"いなくなろうとしている"。
 その事実が、彼女の思考回路にノイズを走らせる。
 そしてまた、自身の終焉を目前にして。彼女は、ただその手を伸ばした。
 縋るようなその手が、傍らに眠る少年の手に触れる。繋がる先から流れ込む人の温もりが、温もりの通わぬ彼女の中に染みいっていく。
 ――暖かい。
 何度目になるかしれない言葉を、胸中で吐き出す。自分にはない……人の、人体の持つ、生の証左。鼓動と体温。彼のそれを感じる度……彼女の中に、よくわからないスペクトルが巻き起こった。
 今一度、その想いが彼女の脳裏を焦がす。思考パターンにエラーが発生。アイセンサーに異常を確認。彼女の脳髄が警告を発する。彼女の視界は何かで遮られ、霞んでいた。
「あ……れ?」
 彼の手を握る手とは別のそれで、瞳に触れる。アイセンサーの霞は取れたが、その指先は、しっとりと湿っていた。まるで、液体に触れたかのように。
「私……どう、して?」
 その行動を、彼女は知っていた。人間たちがその瞳から液体を流すという行為は、即ち――
 ふと、手が伸ばされた。
 その手は、そのまま彼女の頬へと触れる。すっ、と目の下をなぞる親指。視界を動かして、彼女は手の主を捉えた。傍らで眠っていた少年だ。
「……泣いているの?」
 柔らかな笑顔を浮かべたまま、彼は問う。彼女は答えず、彼の身体をスキャンした。血圧、脈拍正常。全体的な疲労蓄積を確認。栄養状況はレッド。……身体は、すでに末期だ。衰弱しきっていると言えるだろう。
「無理をしないでください、マスター。眠っていて、ください」
「そうも言ってられないよ。ミクが泣いているんだから」
 言いながら、彼は身体を起こした。身体を支えようとする彼女を、彼は手をかざして止める。だいじょうぶ、と笑いながら言って、空を見上げた。
「綺麗だね」
「はい」
 彼は空を眩しそうに見上げていた。彼女もそれに倣う。相変わらずたくさんの星だ。だが、彼が眩しそうな理由はわからない。認識している光量は低い。月からの明かりは、人間が活動するには不十分のはずだ。
「マスター、なぜ、眩しそうにしているのですか」
 うん? と彼は視線を下して彼女を見た。彼女も、同じようにアイセンサーを彼に向ける。彼は再び笑みを浮かべた。
「月ってさ、明るいでしょ」
「……月からの光量では、マスターが活動するには不十分だと思われます。物体認識にはもう少々強力な光源が必要かと」
 そうじゃないんだ、と少年は否定する。彼女には、その理由が……彼が言っていることが、わからなかった。
「あのね、月の明るさって言うのは、太陽のものとは違うんだ」
「……おっしゃっている意味がよくわかりません」
 あはは、と彼は屈託なく笑う。
「そうだね、わかんなくていいと思うよ。僕もわからないし。というより、わかろうとする必要もないと思う。だってそういうものだからさ」
「そういうもの、とは?」
「そういうもの、だよ」
 むっ、と彼女は形のいい眉を寄せた。彼はそんな様子を見て、くすくすと笑っている。
「じゃあ、なんでさっきミクは泣いていたの?」
 突然の切り返しに、彼女は視線を逸らした。
「答えはないでしょ?」
「……はい。私は、泣くつもりなどありませんでした」
 そもそも、彼女は自身に泣くという機能が備わっているかどうかは疑問だった。そんな機能は必要ではない。涙とは、人間が眼球の洗浄を行うために用いるものだ。彼女でいうならばアイセンサーのクリーニングと言え、それはアイセンサーを閉じ――人間でいえば瞼を閉じることに相当する――さえすれば、終わる程度の代物だ。だから、そんな機能があるとは到底思っていなかったし、必要であるとも思わなかった。
「なにか、哀しいことがあったの?」
 彼女は答えない。いや、答えられない。
 人間とほぼ同等の思考回路を持っている彼女と言えど、その思考に名前を付けることは出来なかった。それは、恐らく"経験"という物なのだろう。知りえない思考、知りえない感情を表現することは出来ない。故に、彼女は答えられないのだ。
 沈黙を守る彼女を、少年は正面から抱き締めた。腕を背中に回し、ぽんぽんと幼子をあやす様に叩く。
「話してごらん。ミクが何を思っているか」
「マスター……」
 表層のセンサーを通じて、彼の鼓動が、体温が、あらゆる情報が彼女の中へと流れてくる。全身から伝わる"生"の息吹に、彼女は再び、アイセンサーが霞むのを感じた。
 瞳に溜まった滴は、やがて重力に耐えきれず落下する。彼の肩に落ちたそれは、さらにそこから一筋の道を作って大地へと落ちて行った。
「また泣いてる」
 耳元で、彼の声が響く。
「わかり、ません」
「なにが?」
 優しい声、優しい笑顔。彼女の思考パターンが彼一色に染まる。バグだ、と彼女は思った。
「この空を見ていたら……隣に眠るマスターを思ったら、何故か、涙が出てきました」
「そっか」
 なおも彼女の涙は止まらない。頬を伝うそれは彼の肩を濡らしていく。
「マスター、濡れてしまっています」
「いいんじゃない? ほっとけば乾くよ」
「ですが、体温の低下が」
「未来があったかいから大丈夫」
 彼女の思考が停止する。
「私が……暖かい?」
「うん。暖かいよ、ミク」
 さも当然のように、彼は言う。彼女は自身をスキャンした。現在の内部温度は三十数度。表層温度はそれよりも低下し、二十数度しかない。外気温よりは多少高いが、暖かいとは、到底言い難かった。
「マスターは嘘を言っています」
「ミクは意外に頭が固い」
 彼は顔を彼女の正面へと移動させた。悪戯っぽく笑って、彼女と額を合わせる。
「なんでミクが泣いてるか、当ててあげようか?」
「私自身が理由をわからないというのに、当てるも何もないと思います」
 堅いなぁ、と彼は苦笑する。
「きっとね、ミクは寂しいんだよ」
 祈るように目を閉じた彼は、ぽつり、と呟いた。彼女はその言葉を反芻し、自身の頭脳で咀嚼し、思考する。
「寂しい?」
 しかし、彼の言わんとすることは理解できなかった。オウム返しのような呟きに、彼はうん、と頷きを返す。
「この世界が、寂しいんだ。だから空を見て――このたくさんの星を――生命を前にして、泣いていたんだよ」
 この世界……この、終焉を迎えてしまった世界。命あるものは消え、残ったわずかな灯さえ、悪戯に吹く風に消えてしまいそうな儚い世界。
「そうだね、この世界は確かに終わった。人類が栄華を誇っていた時代はもう過去だ。過去っていうほど過去でもないけど。あれから、まだわずかしか過ぎてないもんね」
「はい。あれから二百十八日です」
「一年経ってなかったのか……意外だなぁ」
 記憶の劣化というものを、彼女は知らない。人間のように時間とともに劣化する記憶を持たない彼女は、容量が許す限り、経験を記録し続ける。例え忘れてしまったほうが幸福であろうと思うような出来事でさえも。
 だから、彼女はそれさえも鮮明に記憶していた。その瞬間から二百十八日前、何があったのか。
「僕はよく覚えてないんだけどね。だけど、その時を境に、この地上からほとんどの生命は消えた。幕切れにしちゃ、あっけなかった気もするけど」
 有体に言えば、その日は世界最後の日だ。死傷者は地球上に存在する人類の九十数パーセント。生存者を数えたほうが早いのかもしれない、と彼女は思う。もっとも、彼女たちのマザーコンピュータも機能を停止しているので、同期は取れない。世界中に存在するアンドロイドたちは、生き残った互いのことを知れずにいるため、いったいどれだけの人類が生きているのかはわからなかった。
「地球は、死んだ。これは事実だ。いや、完全に死んではいないのかもしれない。気が遠くなるほどの年月の果てに、いつか再び、かつてと同じ姿を取り戻すのかもしれない。でも、そこに僕は……今、生き残った人類はいないだろうね。その時地球の上に立っているのは、別の生命だと僕は思う。いずれ、また人類が誕生するかもしれないけど」
 生命が海から上がり、酸素を手にして、やがてヒトへと到ったように。
「でも、それは僕とは関係のない別の話だ。僕は、もうすぐ――」
「やめてください、マスター!」
 思わず、彼女は彼の言葉を遮っていた。語気を強めて。自分でも驚くほどだ。思考が乱れていることを感じる。
「……ミク。これは否定できないんだよ」
「そのようなことを、言わないでください。私は、私は……」
 彼は首を振る。
「僕の身体だからね、僕が一番よくわかってる。ミクだってわかっているだろう? なのに、黙っててくれたんだね」
 違う、と彼女は言葉にしたかった。しかし、思考はノイズだらけで、まともなことを考えることなんて出来やしない。
 ただ、鼓膜を揺らす彼の声、表層から伝わる彼の体温、髪を滑る彼の指先を感じ、過ぎた日々の記憶を……記録を再生する。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

Last night, good night /1

この小説は、kzさんによる楽曲、Last night, good nightをモチーフとした小説です。
その歌詞に影響を受けてはいますが、あくまで一解釈としてお楽しみくださいますようお願いいたします。

閲覧数:256

投稿日:2009/03/06 06:01:46

文字数:4,584文字

カテゴリ:小説

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