君が笑わなくなってから8ヶ月
明菜の部活が終わったのは、19時を少し回ったくらいだった。意味もなく待っていた僕に気づくと、明菜はひどく焦ったようすでこちらに走ってきた。
「──な、なんで?」
一言目はそれだった。
「なにが?」
「なんで……。今日、部活あるの知ってたでしょう?」
早口に、明菜はてぶくろをした手をブレザーのポケットから出して言った。
「うん」
「じゃあ、なんで──?」
「さあ」
僕は曖昧に笑った。周りはもう暗かったから、それが彼女に見えたのか否かは分からなかったけど。でもまあ、別にどちらでもよかった。
「帰ろう」
僕はそう言うと、明菜の返事を待たずに歩きだした。
「っちょ、待ってよっ」
明菜の追いかけてくる音が聞こえる。僕はかすかに笑うと、少しだけ歩く速度をおとした。──君に分からないくらい、少しだけ。
「きれいだね、月」
群青色の中にある、明るく光る黄色い丸を指差して明菜が言った。
「うん」
僕は彼女が指差した月を見上げてみた。──なぜか月が笑っているように見えた、気がした。
「なんか、嫌な月だね。すごくきれいなのに」
僕は自分のマフラーを、淋しそうに目をふせた明菜に巻きつけた。
「あ、ありがと……」
ななめ左下を一瞬視界に入れると、僕は再びきれいすぎる月を見上げた。
「──なんだか」
「ん? なに?」
僕の小さな呟きは、見事に鼻を赤くした幼馴染に拾われてしまった。
「なんだか、笑われてるみたいだ」
一度言葉を切ると、続ける。
「大きすぎて、僕たちなんてちっぽけすぎて──嗤われてるみたいだ」
「分かる」
明菜はもう一度だけ嗤いながら僕たちを見下す月を見上げると、ため息をついて視線を目の前の信号機に移した。信号機は赤色のランプを無機質に灯しつづけていた。その赤色が、なぜか記憶の中から君の熱かった手を引き出した。
君が笑わなくなってから10ヶ月
「ほら、あの子。ショックで笑わなくなっちゃったんでしょう?」
「親が親なら子も子ね」
じろじろと汚い目で、明菜を見るな。
「笑ってるときはまだましだったのに、ねえ?」
「それさえもなくなっちゃったんでしょう? 他になにがあるっていうのかしらねえ?」
じろじろと──好奇心と嫌悪が混ざった──汚い目で、──僕の──明菜を見るな。
「ホント、ずっと無表情で歩いてるんですもの。怖いわねえ」
「汚い目で、明菜を見るな!」
──はっと目が覚めた。携帯を探し当てた手にそれを掴ませる。
なんだ、まだ4時半すぎじゃないか。
「汚い目で、明菜を見るな──か」
実際、近所の大人にそれを叫ぶほど僕は無神経にできていない。でも、あのときそう叫べればどれだけよかったか。
アラームを切ると携帯を閉じ、僕は起きあがる。あのまま二度寝しようとしても無駄なことは明白だった。机にむかうと、わきにかけてある鞄の中から参考書を数冊取り出す。
いらいらする。頭は参考書の問題にあるはずなのに、気がつくと手は止まっていて。頭の中は明菜のことに切り替わっている。
いらいらする。あの日、僕はああ叫ぶ代わりに明菜の手を取って走り出していた。行く宛てもなく──ただ夜闇と同化して消えたかった。普段冷静な僕がなんでそんなことを思ったのかは、自分でもよく分からなくて。
10ヶ月前の、あの春の日──。
『──もう、やめるわ』
明菜が笑顔でいることを、頑張ることを諦めた日。一瞬で無表情になったその人形みたいな彼女を。僕はきれいだな、と思った。こころをうばわれた。でもきっと君は、そんな僕に気がついて失望したんだろう。
だからあの春の日から明菜は、笑顔はもちろん──泣き顔さえも見せてはくれなくなった。僕は知らない。彼女がどれだけあの人たちの前で笑っていたのか。彼女があれからどれだけ泣いたのか。隠されてしまえば、僕は知ることも、分かることもできなくなる。
「そんなの、嫌だ」
だとしてもそれが明菜の望むことなら──、彼女がそうしようと決めたことなら──僕はなにも言わずなにも気づかないふりをしよう。
「そう誓ったのは、いつだったっけかな」
君が笑わなくなってから12ヶ月
僕も君も、今日からひとつ上の階の教室を使う。
「帰ろう」
でも、相変わらず僕は明菜にそう言う。そして、彼女も相変わらず素直に頷いて鞄を手にする。
「もう、3年生ね」
「うん」
急に吹きつけた風は僕の声を攫っていった。だから僕は君に聞こえるように、もう一度「うん」と言った。
「なんで二回言ったの?」
──いっしゅん。明菜が笑った気がした。
僕は「さあ」なんて曖昧な言葉をこぼしながら、彼女を二度見してしまった。無意識に。でも目の錯覚だったようだ。彼女が笑わないのは僕が一番知ってる。
「ねえ、紡」
「なに?」
「桜、きれいね」
「うん」
また、あたたかい風が吹いた。
「紡、──……」
君が呟いた言葉は、それに掻き消されてしまった。
「ねえ」
「ん? なに?」
僕は、聞く。
「なんて言ったの?」
風に掻き消されてしまった言葉を。
「なんでもない」
誤魔化す明菜に、もう一度聞く。
「なんて言ったの?」
真剣に君の目を覗いた。明菜はそんな僕の目に、観念したように微笑してみせた。
「紡、──好き」
僕も彼女と同じように微笑してみせた。
「僕も好き、君よりもずっと」
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8月15日の午後12時半くらいのこと
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決して検出されることなく...そこで取引をしませんか
mikAijiyoshidayo
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