37.運命の歯車
「緑の国は、青に渡さない」
それは黄の国のリン女王の願い。
「黄の国を、青の皇子への手土産に」
それは緑の国の女王、ミクの願い。
互いの国の幸せを願う、二人の女王の思惑が、夜半過ぎの緑の王宮で、ひそやかに激突しようとしていた。
ネルは王宮の通用門から黄の国の二人を中へと導いた。
ネルのことは、王宮で働くだれもが知っている。密使として働いていることを知る者はごくわずかだが、ミク女王はハクとともに、ネルが緑の国に居るときはつねに手元においてきたのだ。表舞台に出ることは無いものの、ネルはミク女王の一番の側仕えとして、王宮に働く者には顔が知れ渡っていた。
いくつもの回廊を複雑に通りすぎていくうち、だんだんと雰囲気が重く変わっていく。中枢に近づいているのだとリン女王が感じた時、ネルは扉の前で立ち止まった。
「どうぞ、この部屋でお召替えを。終わりましたら、ミク女王のところへご案内いたします」
リン女王とレンはそのまま部屋の扉をくぐった。ネルはといえば、扉の前で待つようだ。
部屋に入り、扉を閉めた。召使は女王に抱えてきた荷物を渡す。
女王はうなずいて受け取った。
それは、いつかミク女王からリンに贈られた、あの黄色のドレスだった。
女王が旅装を解く。その体つきは、少年のものだった。黄の陣営を発った時から、『リン女王』をレンが演じていたのだ。
レンが動きやすい男物の下着の上に、少女らしいドレスを重ねる。召使の格好のリンが背のリボンを整え、その髪を梳き、飾り花を飾った。
そして、最後に、レンの手が、もとの旅装から細い短剣を拾い上げて、リンの結んだドレスの帯に隠した。
二人の視線は合わされない。視線は合わなくても、思いは同じだと黄の陣営を出る時に確認していた。
「黄の国の幸せのために」
そのまま無言で、レンはリンに背を向けた。
レンが扉に向かうその時、リンの手が一瞬だけレンのドレスの裾を追いかけ、そのままはたりと降ろされた。
* *
ネルたちが到着する数刻前、ネルの鷹がミクの部屋へ飛び込んできた。
「リン女王が来るわ」
鷹の持つ文書を開いたミクが、唇を舐めて笑った。
ハクの背筋がぞくりと緊張する。
「じゃあね、ハク。行ってくるわ」
「ミク様! 」
思わず声を上げたハクに、ミクはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫よ、ハク。あなたは私のことを清楚でたおやかな女性だと思っているかもしれないけれど、本当はいくつも修羅場をくぐっているのよ? 」
こんな時でもハクに対して軽口をたたくミクに、ハクは本当に怒った。
「思っていません! ミク様が清楚でたおやかであるとか、大丈夫だとか、修羅場をくぐったからといって心配ないとか、私にはこれっぽっちも、思えない……」
ハクは掴みかからんばかりに駆け寄ったくせに、その勢いはミクの前でがくりと落ちる。そして声が尻すぼみに消えていく。
うつむいていくハクに、ミクはそっと声をかけた。
「ハク」
「……はい」
次のミクの一言に、ハクは思わず崩れ落ちる。
「じゃあ、あなた、一緒に来て。そして私を守りなさい」
ハクが勢いよく顔を上げた。
「そんな! できません! 私は……私は、」
ハクの脳裏に、青の国での出来事がよみがえる。ハクは、レンの荷物を奪った強盗を追いかけた。色々よくしてくれたレンに、ただ恩を返したかっただけなのに、その行為は結果として、レンが腹を刺されるという大怪我につながった。
自分の行動はつねに仇となる。昔からそうだ。綺麗な刺繍を作れば妬まれ、腕を上げれば上げるほど孤立し……
「……私は、あの、」
「ハク」
ミクがやおらに手をのばし、ハクの頬をつつんだ。突然の行動に、ハクの言葉が驚き止まる。
「……ハクに。私の一番の友達のハクに。私の仕事を見てもらいたいの。
……ひどい現場だけれども。もしかしたら、これがきっかけで、ハクは私を嫌うかもしれない。でも、かまわないわ。これが私の女王としての、罪と仕事だから」
ハクが思わず反駁しかけたところを、ミクが言葉を重ねて遮る。
「ねぇ……ヨワネハク。あなたの噂は、あなたとあなたの仕事に出会うずっと前から聞いていたわ。
『生きていてごめんなさい』これが口癖だったようね。
……本当に、頭に来たわよ。私が一生懸命作っている緑の国から勝手に永久退場しようとするのだもの。
だから、私の仕事を、見せてあげる。私が国を守る、まさに現場をね。
そして、あなたがいろいろ誰かに向かって謝ろうとしていることなど、私の大罪に比べたら本当に吹けば飛ぶようなちっぽけなものだということ、思い知らせてあげるわ」
ハクは、ただミク女王を見つめていた。言われたことが、ちっとも理解できなかった。
ただ解ったのは、ミクは、リン女王との密会の場に、自分を連れて行こうとしていることだけだった。
「ハク。いつもあなたは、私にあなたの仕事、美しい刺繍の技を見せてくれた。
御礼にあなたに、私の国の護り方を見せるわ。私の、泥臭く汚く卑怯な姿をね。
ねぇ、知っているかしら? ……あなたは、私よりずっと、美しいのよ。
昔から、ずっと」
ハクの手が、ミクから預かった短剣に伸びる。感触を確認したそのしぐさに、ミクは満足そうに頷いた。
「そうよ。その剣を抱き枕がわりに貸してあげるから、私を陰から『見守って』いなさい。
そして……」
ミクがハクの耳に唇を寄せ、ふっと囁いた。
「今でなくてもいいわ。いつか一生に一度でも『生きていて良かった』って、言って頂戴。あなたにそう言ってもらえたら、私はきっと『女王』としてやっていける気がするわ」
「ミク様?」
ミクはするりと踵を返して、庭の方へと歩いていく。
「会談は中庭で行うわ! そのほうが何かと都合が良いもの! 」
ハクは慌ててミクの後を追った。建物の一角から扉を開くと広い中庭へ出た。
月はやがて中天にたどり着く。ミクは池のそばにそっと佇み、ハクは扉から少し離れた木立の陰に身を隠した。
胸に隠した短剣が重かった。そして身をひるがえす直前に見せた、ミクの不安げな表情も、ハクの胸を圧してやまなかった。何事につけても万全の態勢で臨むミクだが、今回ばかりは、ハクは、押し寄せる不安をどうしても消せなかった。
「何かあったら、私が」
決意しようとしたけれども、震えはじめた手足を抑えてその場に立っているだけで、ハクにとっては精一杯だった。
* *
黄の女王に扮したレンは、ネルに続いて夜の王宮を歩く。
固い靴音が石の床にあたって高い音を立てる。
「こちらです、リン女王様」
ネルが、ある大きな扉の前にたどりつき、ゆっくりと押した。
夜の風がレンの前髪に吹きつける。
目の前には、刈りこまれた芝生と点在する庭木、そして広大な池が黒々と横たわっていた。
「ようこそ、お越しくださいました。リン女王様」
西に傾き始めた大きな月を背にして、緑の女王、ミクが静かに微笑んだ。
ネルは、リン女王とミクを中庭に残し、ゆっくりと扉を閉める。
中庭は広い。池の大きさだけでも、歩いて回れば昼の休みなど簡単に終わってしまうほどだ。
「……ミク様、」
ミクは黄の陣営に合流したネルからの密書を読み、大きな賭けに出た。
「頭を失った鶏は、爪や羽を持っていても、もう戦わないわ」
ただ走り回るだけよ、とミクは言った。
ただ、気になるのは、黄の女王のリンも、似たようなことを言っていたことだ。
「黄の国の兵が、頭を失った状態で緑の国を襲う」
それでも女王を殺せるものなら殺してみなさいと、リン女王自身が言ったのだ。
もし緑と黄の軍が戦った場合、組織立った戦い方が出来るのは緑の方だとネルは思う。
「しかしミク様は、後から来る黄の国の軍の状況を、本当に解っていらしたのかしら? 」
正規軍だけではなく、途中の町や村の人間を吸収し、大きく膨れ上がった黄の軍を。
そのにわか兵士を前に演説をし、みごと軍を鼓舞したリン女王。道中で見せたリン女王の笑顔がネルの頭をよぎる。
「本当にリン女王を殺すことに、意味はあるのかしら」
思えばミクは、何かに焦っていたのかもしれない。
しかし、もうすでに時は動いてしまった。ネルに出来ることと言えば、閉ざした扉の向こうにじっと耳を澄ますことだけだった。
続く!
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