FLASHBACK4 before-side:β
あれから。
あの、想像すらしていなかった絶望的な光景を見てしまってからどれくらい経ったのだろう。
あの頃はまだ寒くなり始めたばかりの頃だっただろうか。今はもう雪のちらつく年末だ。大学はもうすぐ冬休みになるし、あと数日で聖夜もやって来る。
(そっか。まだ、一ヶ月しか経ってないんだ……)
最早通い慣れたと言ってもいい大学から国際病院へと続く道は、ここの所少しばかり足取りが重い。
それは、一ヶ月前にその絶望的な光景を見てしまったからだ。
最愛の義理の弟と、見知らぬ女が抱き合っているという光景を。
その時の光景がフラッシュバックして、少女はまだ幼さの残る顔をしかめる。無造作のように見えて、実は神経質なまでに整えられたショートカットは、少女が自らの魅力を最大限に引き出す方法を良く理解している事の何よりの所作だった。しかし、快活である事を前提としたそのスタイルは、その表情の陰りとは余りにアンバランスに映ってしまっていた。普段の快活な彼女を知っている大学の友人達は、彼女が独りの時にこれ程までに暗い顔をしている事など知りもしないだろう。ましてや、本来は髪型に細心の注意を払う程に神経質な性格だという事は、想像すら出来ていないに違いない。
少女はやや季節外れとも言える、肩までむき出しの黒のワンピースを着ていた。襟から肩口まで、モノクロのチェック模様が幅広にあしらわれているお気に入りの一着だった。もちろん、それだけではこの冬の寒さは如何ともし難く、今は厚手のコートを羽織っている。
歳の変わらない、病弱な義理の弟。物心の付いた時には既に彼女の隣に居た彼の事を、姉弟として見る事が出来なくなってしまったのはいつからだったのだろうか。
大学に入ってからではない。
では高校の頃からだろうか?
(もっと……前、かな。中学とか、その頃)
中学生の頃。
少女と少年が本当の姉弟では無いと知った頃。少年が入退院を繰り返すようになった頃。少年が塞ぎ込みがちになり、それに反比例するように少女が快活に……ならざるを得なかった頃。
(あの頃から、になるのかな)
うつむいて歩きながら、少女は思った。
学校にあまり行けなくなってしまってから、弟は随分変わってしまった。それまでは少女の方が、弟のわがままに振り回される側だった。友達だって弟の方が多かった。対する自分はと言えば、それまでは引っ込み思案で臆病で、何をするにも勝ち気だった弟の背中にくっついていたのだ。
入退院を繰り返し、これまで自分を引っ張ってきてくれていた弟が変わってしまってから。彼の背中にくっついていられなくなってしまってから。それから、少女は人見知りの激しい女の子ではいられなくなってしまった。
一人で登校しなければならなくなった。
誰と話すにも、一人でやらなければならなくなった。
彼を頼る事が出来なくなった。
だからこそ、彼女は変わったのだ。引っ込み思案の臆病な女の子から、誰に対しても仲良く出来る、明るくて快活な女の子へと。
その変化は、それ以降の学生生活において、おおむね成功だったといえる。……少なくとも、表面上は。
正確には、彼女は変わった訳ではなかった。明るくて快活な女の子を演じることが出来た、という方が正しい。
明るいフリをする事が出来たから。
人当たりの良い振る舞いを演じてこられたから。
根っこの部分では変われてなどいなかったというのに、それが出来てしまったから、彼女はその分大きな物を抱え込む事になってしまった。
自らの本心は、気弱になってしまった弟以外には見せる事が出来なくなってしまった。
快活な彼女の表向きの姿に好意を抱いてくれる人は沢山居た。告白してきた人も、両手でも足りない位の数にはなる。だが、自分の本当の姿を知らない彼等と付き合ったりする事など、彼女には考えられなかった。
あれからずっと、本当の自分を知っているのは弟だけだった。結局の所、彼女の本質的な部分では、弟の背中にくっついていた頃とそう変わっていなかったのだ。むしろ、長い時間を費やした結果、彼女自身の気持ちは、もう彼から離れる事など考えられなくなってしまう程に強固になっていたのだ。
それが、いわゆる恋愛感情としての愛なのかどうかは、これまではっきりと考える事はしなかった。考える事が怖かったから、意識して避けていたのだ。
結局の所、自分達は姉弟なのだから。たとえそれが義理だったにせよ、彼女からしてみれば、それは十分過ぎる程に大きな障害だった。自分がどんな風に思っていようと、当の弟は彼女の事を姉としてしか見ていない筈なのだ。自分がどれほど彼との絆を積み上げてみた所で、それは砂のお城に過ぎない。海風とさざ波に呆気なく崩れ去ってしまう、砂上の楼閣なのだ。
それでも。
それでも、彼女は止められない。
普段から二人一緒にいることを止められない。たとえ彼が入院していても毎日会いに行く事が止められない。彼女が病院に行くのは、素直に白状してしまえば、彼の為では無かった。もしかしたら、中学生の頃にはすでに自分の為に彼に会いに行っていたのかもしれない。
彼の事なら何でも知っていると思っていた。それは別に誇張などでは無かった。好きな物、嫌いな物、得意な事、苦手な事、好きな食べ物、嫌いな食べ物。昔からずっと一緒に居る彼の事は、好みのタイプだって分かる自信があった。
だからこそ分かる。一ヶ月前に病院の廊下で弟と一緒に居た年上の少女は、弟の好みのタイプに完全に合致しているのだと。
自分や弟よりやや高い身長。自分には似合わないロングヘアのツインテール。つり目がちな自分とは違う、丸みを帯びた大きな瞳。自分自身、かなり可愛くなったという自負が無いわけではない。ただ、弟の好みに合わせられないもどかしさや悔しさもまた、間違い無くあったのだ。なのに、自分がいくら望んでもどうにもならなかったそれらを、持っている事が当たり前だと平然としている人がそこに居るなんて。
その上、その女は彼女の心の支えでもある最愛の義理の弟さえも彼女から奪おうとしている。
(なんで……そんな酷い事をするの?)
じわりと、涙がにじんだ。
分かっていた。……いや、分かっていた筈なのだ。今まで一生懸命作り上げてきた砂のお城を、いつか壊す日が必ずやって来るという事は。
分かっていながら、今までずっとその事実に気が付かないふりをしていたのだ。
気が付かないふりをして積み上げてきたそのお城は、いつの間にか彼女自身にもどうしようもない程に大きくなっていた。この砂のお城が崩れ去る時は、きっと自分もその残骸に押し潰されて埋もれてしまう。そして恐らく、その時はもう近付いて来てしまっている。
(あたしは。あたしは……レンが好き)
うつむいたままの頬を伝い、涙が地面へと落ちる。地面を濡らしたそれは、だが、すぐに乾いてしまった。
彼女は今まで自らの気持ちを形にする事を避けてきた。しかし、一ヶ月前に弟が見知らぬ女と抱き合っているのを見てしまったからこそ、その思いをはっきりと形にする事になった。
(レンが好き。レンが好き。レンが好き。……誰にも渡せない。誰にも渡したくない。なのに、なのに――)
これは家族愛では無い、と断言出来た。断言する事が、出来てしまった。
だが、どうなのだろう。もう、手遅れではないのか。弟は、あの女の人の事を見ているのではないのか。
(でも。それでも……)
諦められるわけなど無かった。そう、たとえ――。
(たとえ、結末がわかっていても)
涙をにじませたまま、顔を上げてキッと前方を睨みつける。まるで、その先にあの女が居るかのように。
(レンの事を誰よりも良く知っているのは、あたしなんだから)
涙を拭う事もせず、零れ落ちるままにして、彼女は――レンの義理の姉、リンは――病院までのあと少しの道を歩き続けた。
ReAct 5 ※2次創作
第五話
リン嬢が病院まで歩いているだけの回です。
書いていた当初は「before-」ではなく「R-Mix」だったのですが、諸事情により変更しました。
この回は書いててしんどかったです。
リン嬢の精神状態にもの凄く引きずられてしまったので、書き終わるまでずっと憂うつでブルーな気分になってました。普段の仕事に支障が出かねないほどに(苦笑)
この回のおかげで「ミク嬢のための物語」と思っていたReActですが、完全に「リン嬢が可哀相過ぎる物語」みたいな意識になってしまっています。
とはいえ、これで三人のバックボーンがだいたい説明出来たと思っています。だからといって今後の話の流れが速くなるかどうかは……微妙なところなんですが。
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