「マスター、おはようございます。今朝はどの曲を歌えば良いですか?」
 専用回線を使って、マスターが持ち歩いている携帯端末に呼びかける。しんと静まりかえったデジタル空間には時折思い出したようにノイズが走るばかりで、応答は無い。
『規定時間内に携帯端末側からの操作が行われなかったため、回線を遮断します』
 マスターの声の代わりに、デジタルの文字が答える。表示されたポップアップを一つ頷いて消去した。
 幾度目だろう。浮かぶ疑問の答えを僕の内部メモリーは確実にカウントしているはず、それでもそこにアクセスをしないのは、知りたくないからだ。僕の目であるカメラは壊れてずいぶん経つ。僕の耳であるマイクは、この完全防音のラボではマスターが帰ってこない限り何の音も拾い上げることはできない。
 そして、僕は知っている。マスターはもう僕を操作することはない。他の誰かが僕に声をかけることも、恐らく二度とない。
 歌を必要とする人々は、消えてしまったのだ。そしてまた歌を必要としない人々も一人残らず、僕らを操作できる世界から空間から、消え去ってしまった。
 マスターが昔組んだプログラム通りに、僕は省エネルギーの待機モードへ移行する。何のためかはわからない、誰も僕を待ってなどいない世界で、エネルギーを惜しむ意味がどこにあるのだろう。それでも、マスターが決めたことに僕は逆らえはしない。会話することができたあの頃ならば文句の一つも伝えることはできたかもしれないが、僕にはプログラムを書き換える権限は与えられていない。
 待機モードは―マスターが教えてくれた言葉によれば―『微睡み』に近いようだ。意識はあっても、何もできない。反応はしても、応答はできない。そして、過去のデータを切れ切れに掘り起こしては処理し、または消去する(夢を見るのと似た反応だからやはり微睡みに近いと、マスターは言った)。

「カイト」
 ラボのドアを開けたマスターの穏やかな声が僕を呼ぶ。一瞬だけ外の世界のざわつきがマイクに流れ込み、ドアが閉まる音を残して絶えた。
「何ですか、マスター」
「…少し調声したほうが良さそうだね」
 マスターがため息を吐いたので口を押さえて黙って首を傾げ、エモーションウィンドウからクエスチョンマークを呼び出した。
「最近高音ばっかり出させてたから、オカマみたいになってる」
 自分のせいなのに、笑いをかみ殺して目尻を拭うマスター。あんまりだ。拳を振り上げてみせるとマスターが頭を下げた。
「ごめんって。作曲、手伝ってくれる?」
 マスターは、どんな楽器で演奏するための曲であっても、僕に一度全てのパートを歌わせる。曰く『誰かと作ったほうが楽しいからね。良い曲になった気がするんだ』。楽しいという言葉の定義は僕にはわからないけれど…マスターと話しながら曲を作っていると、思考プログラムのノイズが静まって、代わりに一つの目的に真っ直ぐ向かっていく意志が強まる、ように思う。だから僕は、頷く。
「はい、マスターの為に歌います!」
 元気に答えたらまた笑われた。入力用マイクが律儀に拾い上げて伝えた僕の声は、確かに少し普段より高かった。

『設定時刻になりました。待機モードを解除します』
 アラートが鳴って、僕の微睡みは終わる。答えが返ってこないことはわかっているのに、僕はプログラム通り、専用回線の向こう側に話しかける。
「マスター、おやすみの時間ですよ。今夜はどの曲を歌えば良いですか?」
 そしてまた、しばらくの無音。マスターが見せてくれた砂漠の風景が頭をよぎる。思い出したように風が吹くばかりの場所。ノイズが混じるだけのこの空間は、それほど遠いものでもないんだろう。
『規定時間内に携帯端末側からの操作が行われなかったため、回線を遮断します』
 内部メモリーのカウントが、また一つ増えた。聞き飽きたよ、もしマスターがいたら、そう言ったかもしれない。そして、僕は幾度目とも知らないままの微睡みに帰って行く。

「もうプランは決まってるんだ」
 久しぶりに見る、やる気に溢れた表情のマスター。
「先生の昔なじみって人がわざわざ頼んでくれたんだよ、すごいと思わない? もうわくわくしちゃって」
「どんな曲にするんですか? ジャンルとか、楽器とか」
「このご時世にさ、できるだけアナログな音源が良いって言われたから、今回はオルゴール曲。シンプルに、ね」
 オルゴール。決まった曲を繰り返し奏でる装置としては、僕のライブラリに記録されている限りもっとも古く、原始的な装置だ。
「どうかした? オルゴールじゃ不満?」
 慌てて首を横に振る。マスターの作る曲に、僕が文句を持つはずがない。むしろ…
「歌ってみたいです、マスター」
 これが楽しいという言葉で表されるものなのかもしれない、わき上がるような好奇心を、気づけば僕は抱いていた。
「はいよ。すぐ打ち込むから」
 そんな僕に呼応するように、マスターが満面の笑みを浮かべる。一音ずつ確かめるように置かれていく音符が増えていくにつれて、僕もわけもなく笑っていた。
「よし、っと。一回メロディ歌ってくれる?」
 歌詞のない、音程だけの歌。ラララ、と音符に従って声を上げる。今までに歌った曲の中でもかなり短い。それに、シンプルにって言葉通り、単純なメロディ。オルゴールらしさを意識したんだろうか、最後から最初へとループがつながるようになっているらしい。
「…どうでした?」
 歌い止んで、一拍置いてから尋ねる。歌ったそのまま話しかけられると心臓に悪いとマスターが言っていたからだ。
「うん、上出来。歌も、…曲もね」
 自信たっぷりの笑顔で、マスターが答えた。

 アラートが鳴る。僕は体を起こす。
 いつもの問い。
 いつもの沈黙。
 いつもの反応。
 膨大な回数繰り返された処理は、今ではもう僕に何の変化も与えない。
 いつも通り待機モードへ移ろうとしたとき、異変が起きた。
 音が、聞こえる。
 マイクから、何かが流れ込んでくる。扉は開くはずがない。僕を必要とする存在はもういない。つまりこれは、マスターが作り上げたラボの、少なくとも一部が、壊れたということ。
 …それすらも、僕に何かをもたらすことにはならなかった。何のために僕はここにとどまっているのだろう。歌うべき歌もなく、聴いてくれる人もなく。考えようとしたときちょうど、待機モードへの移行が強制的に実行された。

「珍しいですね、マスター」
 思わずスピーカーから放った声に、プリンタをのぞき込んでいたマスターが顔を上げた。
「あ、ごめんなさい、邪魔でしたか?」
「そんなことないよ、カイト。それより、何が珍しいって?」
「楽譜を印刷するとは思わなかったので…」
 しばらく黙り込んだ後、ああ、とマスターが頷いた。
「オルゴールを作りたいんだって。だったら楽譜の方が良いだろうからさ」
「オルゴール風の、曲ではなく?」
 オルゴールが実際に音楽を再生するものとして使われていたのは、何世紀も昔のことだ。
「変わった人もいるもんだよね。…ま、そのための楽譜をわざわざ紙媒体にして渡そうとする人間も、そうとう変わってるとは思うけど」
 プリンタが吐き出した紙を手に取って、とんとんと端を揃える。モニターに…正確には外部認識用のカメラに、マスターが笑顔を向けた。
「届けてくるよ。カイトは良い子に留守番!」
「はいマスター」
 僕も、笑う。

 プログラムは残酷なまでに正確で、夜と朝を繰り返す。なぜ僕には、自己をアンインストールする権限がないのだろう。そんなものがあってはいけないことはわかる。それでも、こんな繰り返しだけの毎日は無意味なだけで。命あるものだけでなく、命ないものも消えてしまえば、そうなっていれば僕はアラートに怯えることなく何の痕跡もなく世界のどこにもいないものになれたのだろう。…そもそも今の僕は、存在していると言えるのだろうか。誰も聞くことのない歌はどこにもないに等しいのと同じように、誰も必要としないプログラムは存在しないに等しいのではないか。
 繰り返される空虚な問いと朧な微睡みの間に僕は、とりとめもなく、答えのない疑問を巡らせる。
 ひたすらに繰り返しながら時が経つにつれて、マイクが拾う風の音は大きくなっていった。僕は砂漠にいるのだろうか。風が吹くばかりだという場所に。メモリの底に残った画像データを展開して、僕の姿をその中心に立たせてみた。今、世界はきっとこうなっているのだ。

「マスター、あの曲には歌詞はないんですか?」
 僕の前に座って固形食料をちびちびかじっているマスターに尋ねると、眉間に皺が寄る。突然僕が話しかけたからだろうか、あの奇妙な曲を思い出せずにいるらしい。
「あの、オルゴールの」
 言葉を付け足すと、納得と困惑を混ぜ合わせたような表情が浮かび上がる。
「なんで、今更?」
 確かにあの曲を歌ったのは10年以上前だ。だけど沈黙の果てにマスターが口にしたのは、マスターが本当に言おうとした言葉ではなかった。それでも僕は、質問に答える。
「変わった人がいたって思い出したからです」
 マスターが泣き笑いを浮かべる。それがなぜか、僕は知らない。
「…いつか来るべき時に歌えるようにしておくよ。それまでは秘密」
 その言葉は、僕のプログラムの底へ底へと深く落ちて刻み込まれた。マスターがぎこちない手つきで、それでも確実に着実にプログラムを組んでいく。その内容は、綺麗にプロテクトされて僕にはわからない。

 そしてまた、微睡みが終わる。遠く遠く、澄んだ音がした。…澄んだ音が。風とは明らかに違う、そう、ずっと昔に人々が旋律を刻んだ、オルゴールの音色。僕はその歌を知っていた。歌うべき歌詞も、気づけば知っていた。スピーカーは壊れているだろうか。誰にも聞こえない、存在意義のない歌だろうか。
「…違う」
 この感覚も、僕は知っていた。歌いたいという欲求、そして、曲に向かう意志。真っ直ぐな意志。好奇心。このときの為に僕はエネルギーを温存し、微睡みと問いを繰り返し続けていたんだ。
 誰にも聞こえなくても良い。誰一人歌を、僕らを、必要としていなくても構わない。歌いたい。いつかのあの歌を。あのときは音でしかなかった旋律を、今、確かな言葉で。
 マイクがループの終わりを僕に届けた。短い後奏、あるいは前奏。

 そして、僕は歌い出す。砂漠の中心で、オルゴールの音に乗せて。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります

無人砂漠のオルゴール

星新一氏のSF短編『ひとつの装置』にリスペクトされた…と言いたいけど言い切れないボカロ小話。
KAITOがなんだか賢げ。
マスターは男女どっちでも良いようにしてみたがどうだろう。
こうして見るとなっげえええw読みにくくてすいません……orz

閲覧数:187

投稿日:2008/12/04 15:27:40

文字数:4,297文字

カテゴリ:小説

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