35.空に散る
リントは目一杯操縦幹を引いていた。
いつもの離脱コース。女神の岬を島から海へと抜けるコースのはずだった。しかし、高度が上がらない。加速も減速も出来ない。舵の自由も効かない。
「駄目だ! 操縦全部持っていかれた!」
「無茶するから!」
ルカの声がする。その通りだとリントは思った。
一秒が限りなく長く感じる。流れ去っていく景色でさえ、まるで写真に収めるかのように、リントにははっきりと止まって見えた。
街中を抜ける一瞬、見覚えのある姿を見た気がした。
金色の髪を白のリボンで括った娘。大柄の黒髪の男。
「くそ……生きてるじゃんかよ!」
不調に陥ったリントの飛行機を、奥の国の飛行機が見逃すはずがない。
あっというまに後ろを取られ、黄色の郵便飛行機は後方上部から弾丸に追われた。
脇を飛びぬけていく音に、一瞬、ルカの胸に希望が芽生えた。
もしかしたら、奇跡が起こるかもしれない。女神を愛したリントを、島の女神が守ってくれるかもしれない……
しかし、その願いはほんのわずかな時間に砕かれた。
がん、と一瞬バランスがくずれた。左舷と左の翼に着弾した。
燃料が噴出し、あっと言う間に黒い煙と真っ赤な炎が噴出した。
ルカの意識が静かに冷えた。
そうだ。奇跡は起こらない。
これが、戦争で、これが、現実だ。
リントの口元が笑みの形に引かれる。それは不敵な笑いだった。
わずかに機首が上を向いているのがせめてもの救いだ。左の燃料のロストと右の翼のバランスを取りながら、飛行機は未だまっすぐに飛び続ける。
……最後まで、リントは飛行機と命をあきらめないつもりだった。
「ルカ! 脱出するぞ!」
飛行機の下に広がる葡萄畑の、葉の翻る様子がはっきりと見えた。
「うん!」
ルカがすぐにうなずいたことに、リントは微笑んだ。
……リントは、かつて経験したことのない超低高度飛行をしている。機首がわずかに上向きであるので、奇跡的に安定して飛んでおり、わずかに角度分ずつは上昇している。しかし、この速度で脱出したら、同じ速さで空気に叩きつけられる。直線的に前方に放り出される。そして、高度が低いため、斜め上に飛ばされたとしても、落下傘が開くかどうかは賭けに近い。
それでも、このまま中にいたら、飛行機ごと海に落ちるだけだ。
飛行機と死ぬか、脱出して死ぬか。
……閉じ込められるのはいやだな、とリントは思った。
「海に出たらいくぞ、ルカ! 尾翼に気をつけな!」
「うん!」
ルカの目はまっすぐに前を見ている。ルカがこの島を初めて訪れた少女の頃、レンカと三人で辿った岬への道だ。駐留部隊として赴任した二日目の朝、リントの面影を探して、泣き歌いながら上った、草のたなびく道だ。
いつも一歩一歩ゆっくりと歩いた懐かしい道を、飛行機は一瞬で駆け抜けた。
海へとせり上がる岬、二人の目の前に、腕を広げた女神の背中があった。
……さあ、お行きなさい。勇敢な戦士たちよ。
リントは最後の最後まで高度を上げることを試みた。口を笑みの形に引き結び、腕に力をこめる。
飛行機が、女神の頭上をかすめて、潮の満ちた海上に飛び出した。
真下に青い海が見えた。飛行機は、煙を上げながら、徐々に炎を高く上げながら真っ直ぐに空に向かって飛んでいく。
やがて、燃料の抜けた翼がいよいよバランスを失う。ふっ、と風が止まる瞬間を、リントは見逃さなかった。
「ごめんな。……ありがとう」
リントは心の中で呟き、キャノピーを固定するレバーを解放した。
最初にルカが、続いてリントが、飛行機から空中へと飛び出した。
* *
「……愛してる」
そう、女神は思っているはずだ。もし大陸の向こうの恋人を、大陸ごと抱きしめようとしているのなら。
リントは、逃亡時に手伝ったヴァシリスの仕事を思い出した。王の像が発見されたのだ。
ヴァシリスからその話を聞いた時、驚くほど胸が躍った。
「良かった。良かったな」
リントも、島で育った者として、女神像を愛した者として、女神像の解釈にはずいぶん悩んだのだ。
女神像の下から戦争に旅立つ兵士を鼓舞する内容を示唆した石版が出てきた時、レンカが女神像を調べるのをやめたように、リントは島を出ると決意したのだ。そしてリントは、神に頼らず、生きている人間として人の心をつなごうと心に決めた。十七歳の日だった。
「オレも、レンカのことを笑えないな。……夢見ていたんだ。女神像は、見上げる皆が憧れるような、純粋な愛の象徴でいてほしかった、って」
作られてから長い年月の間、彼女は人々の愛の支えとなり、時には戦争の道具になり、解釈の移り変わる日々を、毅然と岬に立ち続け、腕を広げながら全てを受け止め、孤独に過ごしてきたのだろう。
頭で解ってはいたが、幼いリントにとっては、自分の理想が崩されたようで苦しかったのだ。
本当にそのことに納得できたのは、ヴァシリスと顔も知らない大陸の学芸員の唱えた、なんともむずがゆい『愛の仮説』を聞いた時だった。
「よかったな。この時代では、ロマンチックな解釈をしてもらえて」
王の像を見つけた大陸の学芸員と、この島の歴史を研究してきた学芸員のヴァシリスがやりとりした手紙を見せてもらったとき、リントの心にあったわだかまりも溶けたのだった。
女神は女神。事実は事実。それに思いを重ねるのは、それぞれの時代を生きている人の心だ。……そしてそれが、伝説となり、美しい神話となる。
「どうやら、オレたちの時代は、なかなか呑気な解釈ができそうだ」
……これでいい。と。
「女神さん。あんたは、ひとりじゃないって、この時代の人は言ってるよ。大陸の王様と、また向き合えるんだ」
そして、最後に島を守り、この島を女神の岬から飛びぬける自分を、誇らしく思った。
* *
……いとしいひとよ、あなたをよぶ、
ルカの身体が、座席を離れ、海上の空中に放り出された。
空気が全身を打った。真っ直ぐに水平線に向かって飛び、やがてものすごい速さで水面が迫ってきた。
ひっくり返された視界に、主を失った黄色の飛行機が、燃えながら崖を落ちていくのが見えた。
「リント」
これでよかったのかどうかは、解らない。
リントが満足したかどうか、リントを命がけで助けたレンカやヴァシリスが笑ってくれるかどうか、解らない。
でも、とルカは思う。
私は、満足だ。
真っ白なパラシュートが背負ったパックから飛び出したが、間に合うかどうかは解らない。
綺麗な海と空がルカを包んでいる。
「生身で空を飛ぶなんて」
ルカは、心から笑った。
「素敵だった。リント」
沈み行く太陽が、金色の光線を放った。
笑みを浮かべたルカの頬と空と海が、薔薇色に染まる。
ルカは、頭を起こし、腕を広げた。まるで、岬に立ち続けた女神像のように。
この世のすべてを抱きしめるように。
「リント」
リントを助けるために、海に向かって銃弾を放った日を思い出した。今の我が身のように、あの日の銃弾はまっすぐに飛んで海のどこかに沈んだのだろう。
「……愛してる」
と、視界に、リントの姿が見えた。ルカがとっさに手を伸ばしかけたその時、背中に強い衝撃が走った。背に掛かる抵抗力がぐっと重くなる。
「ああ、空を飛ぶのってすごいんだな」
一秒が、とてつもなく長い。一秒で、いろいろなものが変わる。
「ああ、すごいだろ」
リントが、そう言ったかのように微笑んだ。ルカは驚き、笑みを返す。
「まだ、生きてる」
「ああ、生きてる」
紺碧の海面が迫る。
「リント」
「ルカ」
ふたりの心が、同時に響いた。
「愛している」
目を合わせ、落ちていく二人が海面に触れるその時、
風が変わった。海から吹きつける風に、一陣の陸からの風が吹き込んだ。
どう、岬から吹いた風が海からの風と混じり合い、巻き上がった。その風が、ふたりの背と落下傘を押し上げ、抱き取った。
それは女神の腕と手のひらのように。
つづく。
滄海のPygmalion 35.空に散る
発想元・歌詞引用 U-ta/ウタP様『Pygmalion』
http://piapro.jp/t/n-Fp
空想物語のはじまりはこちら↓
1. 滄海のPygmalion http://piapro.jp/t/beVT
この物語はファンタジーです。実際の出来事、歴史、人物および科学現象にはほとんど一切関係ありません^^
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まふまふ
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BPM=200→152→200
作詞作編曲:まふまふ
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