1章(盲目少女とピアニスト)
私の世界は真っ暗だ。
それは、とある出来事がきっかけで始まった。
触覚、嗅覚、味覚、聴覚、
生きるのに必要な感覚は確かにある。
でも、唯一私に足りないのは…。
……………………………
寂しい時、悲しい時、辛い時、
私は時々妄想をする。
そして、あの頃の記憶にはいつも、
身に覚えのない知らない誰かがいる。
彼か彼女か分からないその人影は、
いつも独りで、ピアノを弾いている。
綺麗な音色を奏でながら、
休むことなく、ただひたすらに、
今もこうして弾いている。
私は、人影に聞く。
「どうしてあなたは、ピアノを弾いているの?」
すると突然、ピアノを弾いていた手が止まった。
そして、私に視線を向き直すと、音のない声で答えた。
「君が、望むから」
そして、私の目に映る光景は、
いつも灰色だった。
......................................................
「はいこれ、白い桃。
“はくとう”って言うのよ。
昔、好きだったでしょ?
りんちゃんの為に、久しぶりに買ってきたの。
今お母さんがあーんしてあげるね」
青井林檎、十二歳。
私は目が見えない。
だからこうして、いつも母親に助けてもらいながら
暮らしている。
目が見えなくなってから、友達もいなくなった。
前まで親しくしていたクラスメイトにも、
声をかけられなくなった。
先生は、私に気を使うようみんなへ告げた。
だから、虐められることはなかった。
悲しくない、と言えば嘘になる。
たまに、朝なのか夜なのかわからなくなって、
不安になることもある。
だが、こうして母が隣にいてくれるだけで私は満足だ。
...................................................
寒空の下、負け犬一匹。
今日も私は、星一つない夜空を見上げる。
「よっ、子供がこんな時間に何してるんだ?」
「あなたは誰?」
「お前もしかして、目が見えないのか?」
「あの、あなたの名前は?」
「名前はまだない」
「...」
「そうだな、なら私の名前を君が付けてよ」
綺麗な声。
まるで、声優さんみたい。
「私、一度でいいからあなたの顔を見てみたい」
「それは、遠慮しておくよ」
「どうして?
こんなに綺麗な声なのに、
見えないのはもったいない」
「いや、寧ろ見えなくてよかったよ。
こんな姿、君には見せられない。
それに...」
「そんなに酷いの?」
「あぁ、そりゃもう、周りから引かれるくらいね」
震えた声。
笑っているようで、泣いているような声。
何があったのか、私は聞こうにも聞けなかった。
「私は私が好きじゃない。
けど、そんな私でも、唯一誇れるものがある。
それが、ピアノなんだ」
「見て、綺麗な満月だよ」
当然、私に見えるはずもない。
それでも私は、空高く手を伸ばす。
暖かい。
「私ね、夢を見るの。
ピアノで綺麗な音色を奏でる人の夢を」
2章 (妄想少女とピアニスト)
「私、やっぱりピアノを弾きたい」
父から、ピアノの発表会の情報を聞き、
私は参加を決意した。
人前に立つのは、幼少期のアマチュアピアノコンクール以来だ。
もうこれ以上、弾くつもりもないし、
どうせやるなら、今しかないと思った。
「本気なのか?」
「私には、時間がないの」
そして、そのことを彼女にも伝えた。
「じゃ明日、私がピアノのある所に連れて行ってあげる」
彼女に連れられて向かった先は、
とある街にあるコンサートホールだった。
「会場に着いたぞ」
目が見えなくても、ここが会場である事は、
匂いですぐに分かった。
間違いなく、あの頃の懐かしい香りがした。
「結構広いな、私は初めてだ」
「なんか怖い...」
「過去のトラウマか?」
「うん」
「誠実であろうがなかろうが、アンチは付くものだ。
だからって、許す必要はないが」
私がピアノをやめたのは、目が見えなくなったからではない。
幼少期のコンクールで失敗して、
大恥をかいた挙句、
友達にもからかわれてピアノが嫌になり、
それ以来、一人でこっそり練習する事はあっても、
人前で演奏する事がなかった。
「他人の正しさじゃない、自分の正しさを信じろ。
この世界では、私がルールだ。
そう思っていた方が、少しくらい人生が気楽になれる」
「私は、嫌いな人に否定されるよりも、
大切な人に否定されることの方が辛い」
「欲望を解放せよ。否定する者を許すな。
君は大丈夫だ、思いのままに弾けばいい」
「ありがとう、ナナシさん」
「ナナシじゃないよ」
「ごめん、まだ名前も分からなくて…」
「私は、ななこ。今もこうして、君の中にいる」
「どういう事?」
「そのうち分かる」
私は、ななこさんに誘導されながら椅子に座る。
その時触れた、ななこさんの手は、
不思議なくらい冷たかった。
「弾いていいぞ。何から弾く?」
私は、自分の心に問いながら考える。
初めはやっぱり、得意な曲から。
私は、パッヘルベルのカノンを弾き始めた。
最初は、一音ずつゆっくりと弾いていく。
そして、左の指も使って徐々に音を増やし、
メロディーラインに差し掛かったところで、
鍵盤を押す力を強める。
オリジナルの弾き方も入れつつ、
自分の頭の中に自分だけの世界観を作り出しながら、
ようやく、約七分間の演奏を終えた。
「やれば出来るじゃん。その調子」
ななこさんの言葉を聞き、
自信がつき始めた所で、
二曲目の喜びの歌の演奏を始める。
優勝とか、賞賛の声とか、
そんなものはもう要らない。
私は、私の弾きたいように弾く。
これが私だ。
会場にいる人達に、知らしめてやる。
この思いを胸に、自分の指に従う。
自分のイメージするべートーヴェンになりきりながら、楽譜を無視して弾き続けた。
またやらかしてしまった。
演奏が終わり、退場しようとした時、
演奏終了の後でも静まり返っていた観客席の方から、
一つの拍手が聞こえた。
それに続いて、次から次へと拍手の数が増え、
気づけば私は、舞台の上で涙を流していた。
初めての事だった。
そして、お礼を言おうとななこさんを探したが、
いくら問いかけようとも返事はなく、
ななこさんは、何処にもいなかった。
END
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