2.
『うん……ごめん、大丈夫だから』
 そんな風に言って、まるで拒絶するみたいに彼がうつむいていたのが、たった三ヶ月前のことだなんて信じられない。
 あのとき、私はあきらめるべきじゃなかった。無理にでも教室の外に引っ張っていって、あんな先生やクラスメイトのいないところに連れて行くべきだったんだ。
 塾からの帰り道、私はそんな考えを止められなかった。
 ああしていれば。
 こうしていれば。
 どこかで私が今と違う選択をしていれば、彼はまだここにいたかもしれない。彼を救えたかもしれない。
 そんな考えが、頭を離れない。
 過去は変えられない。
 ああしていれば、こうしていればなんて考えたって、今さらどうすることもできない。
 そんなことわかってるけど、でも、でも……私は。
 あの日から、彼と永遠の別れの日から、クラスメイトたちとの決別の日から、私はずっとそんなことを考え続けている。
 不思議なもので、そんな考えにとらわれたままでも、私は授業を真面目に受け、質問に答え、ノートを取り、宿題を片付けている。
 彼が苦手としたそれらを、私は無意識のうちにやってしまうほど、習慣の一部と化してしまっていた。
 オートロックの自動ドアを抜け、エレベータに乗り、マンションの五階にある自宅の扉を開ける。
「……ただいま」
 そうして、仮に親がいなくても言ってしまうその言葉までが、習慣として、ワンセットの動作だった。
「……おかえり」
 不機嫌そうな母さんの声が、廊下の奥から返ってくる。
「……」
 玄関から廊下を抜け、自室のベッドに学生鞄を放ってからリビングへとやってくる。
 そこには、リビングのソファに寝転がってテレビを眺めている母さんがいた。
「おっそいんだけど。早くしてくれる?」
 テレビから目を離さないままで缶ビールをあおりながら、母さんは不満そうにそんなことを言う。
「塾の時間、知ってるでしょ? これより早くなんて帰ってこれない」
 そんな私の言葉に、母さんはより不機嫌になったらしい。
「あんたは頭いいんだから、塾なんて行かなくたって平気でしょ」
「塾のおかげで成績がいいの。嫌なら父さんに言ってよ」
「……ふん」
 母さんは、まるで吐き捨てるみたいにそう鼻を鳴らす。その態度に、私はそれ以上の会話をあきらめてキッチンに向かう。
 母さんは、私のことが嫌いだ。
 私は母さんに、なんでもできると思われているらしい。そんななんでもできる娘のことが面白くなくて、母さんは私を嫌っているんだと思う。
 母さんの料理が好きだった私は、幼い頃から母さんに料理を教わってきた。けれど、教えてもらうことに熱心すぎた私は、中学に上がる頃には母さんの技術を凌駕してしまった。
 実際には、そんなことはなかったはずだ。けれど、母さんがそう感じてしまったということが大きかった。
 それから、母さんは料理を放棄するようになった。代わりに、家族の食事は私の役目となった。
 朝、誰よりも早く起きて朝食を作る。同時に父さんと私のお弁当も作ると、作りおきで母さんの昼ごはんまで作っておく。塾から帰ったら晩御飯を作って母さんと食べたら洗いもの。勉強してお風呂に入ったあとくらいに父さんが帰ってくるから、父さんの分を温めて、食後に再度洗いものをする。
 母さんは専業主婦だけれど、もうキッチンに立つことはない。私が風邪で寝込んだときでさえ、やろうとしなかったのだ。もう、母さんの料理を口にすることなんてできないんだろう。
 私は冷蔵庫の中身を見て、豚の生姜焼きを作ることにする。母さんはともかく、父さんは好きなメニューだ。それで母さんが文句を言うことはないだろう。
 そう思って、そこまで気にしている自分に悲しくなった。
 母さんが納得できなければ「あんた、こんなものしか作れないの?」と馬鹿にされ、納得できるものだったとしても「これだけできるなら、本当に私なんて要らないわね」と嫌味を言われる。
 勉強ができるってことでさえ、私は母さんをいらだたせてしまっているらしい。
 母さんと父さんに喜んでほしいと思ってがんばった勉強と料理。けれどそのどちらもが、母さんにとっては気に入らないものだった。
 そして父さんは、そんな母と娘の確執にまったく気づかないくらいには仕事一筋で、どうやら私がキッチンに立ち続けていることを疑問に持つことすらない。
 そんな現実に打ちひしがれながらら、それでも私は、いつもの習慣通りに晩御飯を作るのだった。


◇◇◇◇


「……ただいま」
 そんな僕の声が、玄関にむなしく響く。
 家には誰もいない。両親は共働きで、妹は部活と塾で帰ってくるのが遅い。がらんとした家に帰ってきてから、僕は妹と共同の二人部屋にこもる。
 自分の部屋よりも広いリビングにはいられない。もし不意に親が帰ってきてしまったら、一体どうしたらいいのかわからないからだ。
 この家には、僕の居場所がない。
 妹だけが、全然勉強ができない僕を嫌っていない、おそらく唯一の存在だ。妹さえも僕のことが嫌いで嫌いでしょうがなかったら、僕はこの部屋にさえいられなかっただろう。
 だけど、そんな妹とは対照的に、両親は僕のことに興味がない。
 いや、それはきっと正確じゃなくて……そう、父さんと母さんは、僕になにも期待してないんだ。
 小学校とか、それくらいの頃まではそんなことはなかったと思う。
 成績が悪かったら怒られたし、なにかうまくいったことがあれば褒めてくれたりもした。
 けれど、もうそんなことはしてくれなくなった。
 中学に上がってから、僕は勉強についていけなくなってきていた。その結果、中間試験で学年最下位なんていう成績を出してしまった。
 保護者面談が行われ、その後の父さんと母さんの怒りっぷりは凄まじかった。もう思い出したくないくらいのトラウマだけれど、妹はときどき思い出したようにそのときのことを口にする。
 それからしばらく、二人は僕をありとあらゆる塾に通わせまくった。けれど、僕の成績はいつまでたってもよくならなかった。
 別に頑張らなかったわけじゃない。僕はちゃんと塾に通ったし、ノートもとって、必死に勉強した。なのに、用語や公式は、新しいものを覚えれば覚えるほど、古いものがはしからこぼれ落ちていったし、ちょっとした応用が出てきただけでお手上げになった。
 そうしていくら勉強してもダメだということがわかってきた頃には、両親は僕のことを完全にあきらめていた。
『お前にはもう、なにも期待しないことにする』
 あのときの、そんな父さんの低い声音に、僕は打ちひしがれた。
 もう無理に勉強しなくてもいいんだって、そうホッとしたのは確かだけど、でも同時に、その言葉に見捨てられたんだって思った。
 お前は、頑張ったって無駄なんだって、塾に通うだけ無駄で、お金がもったいないんだ……って。
 それは確かに、その通りだったのかもしれない。でも、そのとき、両親はもう二度と僕の味方になってくれることなんてないんだって、僕はそう思い知らされたんだ。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

Alone 2 ※2次創作

第二話

doriko様の楽曲は、なんだか物語を書きたいと思わせてくれるものが多いです。
「文学者の恋文」で悲劇を書いてみたいな、とか、「Electric Sheep」でフィリップ・K・ディックのあの有名小説のレイチェルのその後を書いてみようかな、とか。
前者はストーリーのラストがSFじみた対処しか思いつかず、イメージぶちこわしになると思いましたし、後者は誰得と言うほかになにも言うべき言葉が見つからず、やめたのですが。

閲覧数:79

投稿日:2015/11/29 21:39:33

文字数:2,920文字

カテゴリ:小説

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