どうしてあんな事をしたのか、言ってしまったのか。
人によって程度の違いこそあれ、そんな過去の申し訳ない気持ちや反省、失敗談や恥ずかしい経験は誰にでもあると思う。
と言うより、全くそんな事が無いと豪語する人間なんて胡散臭くて信用できないし、したくもない。それだけを話すと、ひねくれているだの斜に構えているだの思われるだろうし、そうである自覚はあるから、あまり他人には言わないようにしているけれど。
話が少し逸れた。とにかく、誰もが一つは持っているであろう、歴史に記される事なんてありえないけれど、大切な思い出話。
「暇……」
穏やかな昼下がり。屋敷の客間で椅子に座っていたレンは、ぼんやりと天井を見上げて呟いた。体の前にある円卓の上には、先程読み終えたばかりの本が閉じた状態で置かれている。楽しかったと思うと同時に、読み終えてしまった時に出る特有の心に穴があいた感覚がする。
養父と一緒に家事を行い、毎日の家の掃除や洗濯は朝の内に終わらせてあるし、まだ食材には余裕がある上、今すぐに何か欲しいと言う訳でも無いので買い物に行く予定もどこかに出かける予定もない。今日は養父を訪ねて来る客もいないから、こうして居心地の良いこの客間を使う事が出来る訳だが。
こんな時、兄妹や姉弟が傍にいたら良いなと思う。双子の姉はいるにはいるが、遠く離れた王都の城にいて気軽に会う事なんて出来ないし、向こうは弟の自分はもういない事になっている。
この港町の領主である養父と二人暮らし、別に今の生活に不満や不安がある訳ではない。物心が付いた時にはこの家で暮らしていて、それが当たり前だった。
「暇だなぁ……」
円卓に顔を乗せ、両腕を投げ出して再度呟く。お菓子を作ろうかと言う気持ちも、散歩に出ようかと言う気も何故が湧いてこない。やるべき事もやりたい事も見つからないもどかしさだけが募る。
窓の外にはいつもと変わらない景色。しばらく頭を空っぽにしたまま眺めていたが、それにも飽きて来た。
「あぁぁ! 暇!」
体を起こして座ったまま叫ぶ。時計を見ても、さっき見た時から十分程しか経っていなかった。時間の流れは、忙しい時や遊んでいる時ははやたらと早く感じるのに、暇な時は遅く感じるのが嫌でたまらない。
ふと、壁に飾ってあった一振りの刀が目に入る。この家で暮らしているのが当たり前であるように、その刀が飾ってあるのもレンの中では当たり前で、それについてあまり深く考えた事は無かった。
何でも、養父が城に仕えていた頃に王から貰った物らしい。それ以上詳しい事は知らないし、どうでも良い。
『触っては駄目だ』
ずっと昔から養父にそう言われていたし、さほど興味も無かったから触ってみる気も起きなかったのに、何故か今は変に惹かれた。立ち上がって壁の傍まで歩き、顔を上げて刀を眺める。
持ってみたい。中身を見てみたい。
レンが鞘に納められたままの刀に手を伸ばした理由は、たったそれだけだった。少し触るくらいなら大丈夫だろう。こんな細長い物であれば自分でも持てる。
子どもに良くある過信と、何が危険なのかを理解していない行為他ならなかった。
駄目だと言われた事を破ったと言う罪悪感と、好奇心が満たされる寸前の高揚で心臓が激しく鳴っていた。両手を上げて鞘を掴む。そのまま持ち上げようとして予想外の重さに驚く。軽そうだと思っていたが、まるで小麦粉と野菜をまとめて買った時と同じ、下手をするとそれよりも重い。だが、持てない程では無い。なんとか持ち上げ、壁から刀を下そうとした。
「うわ!」
刀の重さ全てが両腕にかかりレンはよろめく。その際に右手がずれて鍔に当たり、鯉口が切れて刀身が鞘から滑り出した。
「レン!」
突然名前を呼ばれ、驚いた拍子に鞘から手を離す。ほぼ同時に、自分の意志とは無関係に体が後ろへと引っ張られて移動する。その直後、けたたましい音が部屋に響いた。
「え……?」
ほんの一瞬の内に起きた出来事に混乱したまま、レンは床に落ちた鞘と、ほとんど抜けてしまった刀を呆然と見ていた。
「怪我は無いか?」
真上から声をかけられ、恐る恐るそちらに顔を向ける。服の襟首を掴まれていると気が付いたのはその時だった。
「とう、さん……」
いつの間に来たのだろう、レンが養父に対して真っ先に思ったのはそれだった。言いつけを破った、しかもそれを見られた。どうしよう、どうしようと不安が駆け廻り、何も言う事が出来ない。
「どこかを切ったりしていないか?」
ガクポは襟首を掴んでいた手を離して問いかける。顔を俯かせて口をつぐんでしまったレンの姿を目に入れ、正面に回り込んでレンの両手を持って確認した。幸いどこも怪我は無いようで、手や腕にも切り傷は無く、出血も見当たらない。良かったと呟き手を離し、レンと目線を合わせる為に屈みこむ。
「レン、あの刀は触ったら駄目だと言っていたはずだが?」
静かに言われた言葉に、レンはびくりと肩を上げる。俯いたまま目を彷徨わせて、ガクポの顔を見ようとしない。
「好奇心を持つのは良い事だ」
思わぬ言葉に驚き、レンはゆっくりと顔を上げる。そこにあったのは、真っ直ぐに自分を見つめる養父の姿。
怒鳴られるよりもずっと怖い。本当に自分が悪い事をしたと痛感させられる。本気で怒られているのが嫌と言う程分かる。ここから今すぐ逃げ出したい、上手く誤魔化せないだろうか。
黙り込んだままレンが考えていると、肩に手を乗せられた。
「……どうして叱られているのか分かるか?」
ガクポは顔を険しくして告げる。自分の心を見透かされたようで、レンは何故か無性に腹が立ってきた。下した両手を拳にして震わせる。
「……よ……」
自分がいけない事をしたのは分かっているのに、それを認めたくなかった。それだって良くない事を知っているのに、湧き上がった小さな反発心から叫んでいた。
「何だよ! そんなの養父さんが大事にしている刀を勝手に触ったからだろ! どうしてそんな大事な物をこんな所に置いておくんだよ! 触ったら駄目だって言うんなら、自分の部屋に置いておけば良いじゃないか!」
完全に八つ当たりの主張だった。爆発してしまった感情に任せて、レンはガクポに激しい言葉をぶつける。
「偉そうな事ばっかり言うな!」
こんな事を言ってはいけない。心の隅ではそう分かっているのに、口から出る言葉を止められない。
大声を上げているのにも関わらず、ガクポは何も言わずにレンの言葉に耳を傾けている。その落ち着き払った姿が余計にレンを苛立たせた。
どうして何も言わない? どうして何も返さない?
怒りなのか寂しさなのかも理解出来ないまま一気に頭に血が上り、肩に乗せられた手を払い落し、言ってしまった。
「本当の親じゃないくせに!」
ガクポの表情を一瞬だけ見た後、レンは部屋から駆け出していた。名前を呼ばれた気がしたが振り向かずに玄関まで走り、扉を開けて行き先も決めないまま外に飛び出していった。
家になんか居たくない。顔も見たくない。
そんな気持ちのまま、レンは町を走っていた。
ガクポは溜息をついて立ち上がる。追いかけるべきかと考えたが、今の状態で顔を合わせても、レンは嫌な気持ちになるだけだろう。お互い一人になって時間を置き、頭を冷やした方が良い。
「本当の親じゃない。か……」
一人呟く。やはり、実の親に会いたい気持ちは大なり小なりあるのだろうなと思う。レンは自分が城から離された理由も、今会いに行けば大変な事になると頭では理解しているだろう。しかし、分かってはいてもどこかで納得出来ていない部分もある。分かる事と納得する事は同じではない。
床に落ちた刀を拾い上げて鞘に納める。先程は咄嗟にあの行動をとったが、もしレンが手を離していなかったら、驚いた拍子に刀を跳ね上げていたらと考えると背筋が寒くなる。
円卓の上に刀を置き、椅子に腰掛ける。
「どうも駄目だな……」
親として足りない所ばかりだと再び溜息をつく。男手一つでレンを育てて来て、未だに自信が持てない。果たしてそんな自分を、レンはどう見ているのだろうか。
ひたすら走っていたレンは、自分がいつの間にか海岸に到着していた事に気が付いた。荒れ狂う心とは裏腹に海は穏やかで、波が打ち寄せる音は優しい。
海岸に座り込んで膝を抱える。何か嫌な事があった時、辛い事があった時はいつもこうしていた。何でも無い時でも海に来て波の音に身を任せ、水平線を眺めているのがレンの習慣だった。
日差しは温かく、波音は子守唄のように心地良い。レンはいつしか眠気を誘われ、うとうとと船を漕いでいた。
「……い! おい! レン! こら、起きろ!」
体を揺さ振られ、レンははっと目を覚ました。太陽は西に傾き夕焼けが見えている。どれだけ寝ていたのだろうと考えている間にも、すぐ傍から声が聞こえる。煙草の匂いがした。
「ボケっとすんな! そろそろ満潮だ、溺れちまうぞ!」
「あ……、うん!」
レンは弾かれたように立ち上がる。確かに、波が来る位置がさっきよりも近くなっている。今の位置でまだ居眠りをしていたら、本当に溺れてしまったかも知れない。
「ったくよぉ。居眠りするなとは言わねぇが、これで何回目だよ」
レンは声をした方に顔を向けると、後頭部で髪を短く結んだ銀髪の青年が、呆れた様子でぼさぼさの頭を掻いていた。レンは礼を言ってから、馴染みのあるその人物の名前を呼ぶ。
「デル兄さん」
兄さん、とは言っているが、当然血の繋がりは無い。彼はレンの友人、クオの兄である。いつも使っている八百屋は緑の国から引っ越してきた一家だった。通っている内にそこに住むクオと仲良くなり、自然とデルと接する機会も多くなったのだ。
デルはこの町の憲兵でもあり、たまに領主の屋敷を訪ねて来る事もある。
「えっと、何でデル兄さんがここに?」
「あ? 今日の仕事が終わって帰ろうとしたら、たまたま海岸にいるお前が見えたんだよ」
まさかまた寝ているのではと心配になり、声をかけたら案の定だったとデルは肩をすくめる。
「あんま心配かけさせんなよな。俺にも、親にも」
レンはびくりと体を硬直させる。それを見たデルは面白半分で笑いながら言った。
「何だ? ガクポさんと喧嘩でもしたのか?」
口を閉ざし答えようとしないレンを見て、デルは図星かよ、と呟いてから謝罪する。
「気に障ったなら悪ぃ。親子喧嘩の一つや二つ、どの家庭にもあるもんだ」
喧嘩の原因も訳を聞かないデルにレンは感謝していた。あんな事、根掘り葉掘り聞かれたくない。
口が悪くいつも煙草を吸っているせいか、デルは怖い人と思われる事が多い。しかしそれは誤解である事をレンは良く知っていた。今のように人が嫌がる事を察してあえて聞かない優しさを持っているし、煙草吸う時には周りに気を使っていた。現に今は煙草を咥えていない。おそらく、愛用の携帯灰皿に捨ててから声をかけたのだろう。
デル曰く
「マナーとルールを守れないなら煙草を吸うな、酒を飲むな」
である。
共に歩き海岸から離れて分かれ道に差しかかる。デルは家まで送ろうかと言ったが、レンはそれを断った。デルはそれ以上しつこく言う事はせず、気をつけて帰れよと一言残し、レンに背中を向けて手を振り去っていった。
「帰らなきゃ」
気分はまだ少し沈んだままで、足取りは重い。それでも、レンは自分の家に向かって歩き出した。
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