*


初めてカイトを出会った時のことを、私は今でも鮮明に覚えている。

「めい、ほらカイト君よ」
母の手に引かれて訪ねたお隣で見たものは、綺麗な顔をした赤ん坊の姿だった。
恐る恐る白い産着に包まれた顔を覗き込むと、その赤ん坊は大きな目を動かしてじいっと私の顔を見つめ、何かを伝えようと口を動かす。
「……かいと?」
「そう。めいのお友達」
「おともだち?」
青い瞳に、ふっくらした白い頬。母に促されそっと手を伸ばすと、小さな小さな掌が私の指先を握った。見た目からは想像もつかないような力強さに驚いて目を丸くすると、見守っていた大人たちが楽しそうに笑う。
「あかちゃん、ちいさいね」
「そうね。今はあかちゃんだけど、すぐ大きくなるわ」
「めいよりも?」
「男の子だもの。めいよりもうんと」
「……」

その時、私は母が嘘をついているのだと思った。
こんなに小さな生き物が、うんと大きくなるわけがない。なら、私が守ってあげなくちゃ。小さくてふくふくしたこの赤ん坊を、私が。ずっとずっと、私が。
(まもってあげるね)
大人に聞こえないようにそっとカイトに話しかけると、カイトは笑った。見間違いでも記憶違いでもない。

カイトは、とても嬉しそうに笑ったのだ。



 **



俺の初めての記憶は、彼女から始まる。
確かあれは、三歳。公園で一緒に遊んでいた時のこと。

砂遊びに飽きた俺は彼女が水を汲みに行っている間にふらふらと砂場を離れ、滑り台へと向かった。いつも他の子供に占領されている滑り台がその時はたまたま空いていて、少し遠い水飲み場に行った彼女はまだ帰ってこなかった。だから、ちょっと冒険心が湧いたのだ。
「ぜったいにここでまっててね」という約束を忘れたわけではなかったが、彼女を驚かせたくて、そしてなにより一人で頑張ったねと誉められたくて、まだまだ短い足を懸命に繰り出して俺は滑り台の頂点を目指した。
 ぱしゃん、という水音が聞こえたのはもうすぐてっぺんに着くという時。振り返ると、彼女が驚いた顔をして俺を見上げていて、おもちゃのバケツに汲んできた水がひっくり返っていた。
「カイト!」
「めーちゃ」
やっぱり驚いた。きっと、すごいねって言ってもらえる。呑気にそんなことを考えていた幼い俺は、得意になって手すりから片手を離して彼女に手を振った。すると、彼女の顔はみるみる青ざめていく。そして。
「あぶない!」
彼女の悲鳴が聞こえた瞬間、世界が逆転した。もう片方で手すりを掴み損ねた俺はうまくバランスを取ることが出来ず、今まで自分が上ってきた高さから転げ落ちた。三歳児にとって一八0cmの高さは遙か上空だ。打ち所が悪ければ死んでもおかしくない。運良く俺は頭を打つことも首の骨を折ることもなかったが、膝や肘からから夥しい出血があって、痛さと驚きでぎゃあっと泣きわめいた。

「カイト!」
体がふわりと浮かんだ。目の前にあるのは焦げ茶色の髪に、幼い首筋。
俺のことを無理矢理負ぶって、公園から家までの道のりを彼女は走り出す。三歳児だったとはいえ、たった五歳の女の子が担いで全力疾走出来る重さではない。それでも彼女はスピードを緩めることなく走り続け、最後は転がり込むように俺の家へ到着した。

「ごめんなさい。わたしがカイトからはなれたから。ごめんなさい。けがをさせてごめんなさい」

俺の母がもういいのよと困ったように取りなしても、彼女はずっと謝り続けた。治療が終わる頃にはすっかり泣きやんでいた俺は、その様子を見て自分のしでかしたことを激しく後悔した。
彼女は何も悪くない。悪いのは勝手なことをした俺だ。それでも、彼女は自分のせいだと謝り続ける。

俺が弱いから。俺が、彼女よりも幼いから。
ずきんと胸の奥が痛んだ。
強くなりたい。彼女がもう泣かなくても済むように。       
大人になりたい。彼女を俺が守ってあげられるように。

後に、この気持ちが俺の根底となる。
この感情にはっきりと名前がつくのは、もう少しあとのことだ。



 *



「次はねぇ、カイトはおむこさんのやく。私はおよめさんのやく。いーい?」
「うん、めーちゃん」

カイトはおとなしい子供だった。普通、男の子は五歳になれば女の子と遊んだりましてやおままごとなんて付き合ってくれなくなるのに、彼は私の遊びの誘いを断ることはなかった。
私は活発な女の子だと周りから思われていたし、学校では男子ともよく喧嘩をするようなタイプだったので女の子らしい振る舞いをするのが気恥ずかしかった。かけっこをしたり泥だらけになって遊ぶのも楽しい。けれど、やはり心のどこかで女の子らしいものにも興味があって、絵本や童話に出てくるキラキラしたドレスやお姫様に憧れていた。カイトは私の話すことを「すごいねめーちゃん」と喜んで聞いてくれたので、一緒に居ると思う存分ロマンチックな空想に思いを馳せることが出来たのだ。
「めーちゃん、おむこさんってなにするの?」
「おむこさんっていうのは、およめさんの恋人」
「こいびと?」
「そう。好きな人、っていうことよ」
「うん、ぼく、めーちゃんすき!」

えへへ、と嬉しそうに笑うカイト。その顔を見るのが好きだった。可愛い可愛い弟分はまるで女の子のように綺麗な顔をしていたから、弟なのにまるで妹みたいで、なんだか得をした気分だった。
「いーい?愛をちかいますかってきかれたら、ちかいますって答えてキスするの。わかった?」
「うん、めーちゃん」
「えーっと、ふたりは神さまにみとめられて……今日からふうふ、になります」
カイトは私の適当な誓いの言葉を真剣に聞いて、うんうんと頷く。
「えーと……びょうきのときも元気なときも、一緒にいることをちかいますか?」
「ちかいます!」
「けんかしても、すぐ仲直りをして、いつも仲良しでいることをちかいますか?」
「ちかいます!」
「えいえんの、愛をちかいますか?」
「はい、ちかいます!」

一際元気良く答えて、カイトはぎゅっと私に抱きついた。そして、顔が近付くや否や幼い唇同士がぶつかるように触れる。
がちんと音がして、そのあとお互い唇を切って流血沙汰になり、お互いの両親に叱られてしまったのだけれど。
それでも、なんのてらいもなくお互いが一番大事だと言えていた私たちは、いつだって幸せだった。

「めーちゃん、おおきくなったら、けっこんしようね」
「うん、いいよ。ずっといっしょね」
「やったぁ!やくそくだよ!」



 **



幼い頃、俺は病弱だった。
今ではその面影は微塵もないけれど健康体だけど、中学校に上がるくらいまではしょっちゅう熱を出して寝込んでいて、両親が共働きだった俺の面倒を見てくれたのはいつも彼女だった。二階で向かい合わせの部屋だった俺たちの部屋は屋根を伝うと簡単に行き来が出来るようになっていて、お互いのために窓の鍵はいつでも開いていた。
「カイト、具合どう?」
「んー……ちょっとまだ気持ち悪い……かな」
「どれどれ」
その日も学校を休んだ俺を見舞って、彼女がやってきていた。
こつん、と合わさる額。目の前に揺れる茶色い前髪と、長い睫毛。
正直に言えば、熱を出すことは俺にとって悪いことばかりではなかった。高学年にあがって女友達と遊ぶことが増えてきた彼女を昔のように独占できたから。俺が寝込んでいると、彼女は寄り道もせずまっすぐに家に帰って、すぐに俺のもとに来てくれる。体の汗を拭いてもらって、パジャマを着替えさせてもらって、額に冷たいタオルを置いてもらって。怖い夢を見たからと言えば手を握って側に居てくれた。それが嬉しくて、ずっと寝込んでてもいいかもと半ば本気で思っていたくらいだ。
「まだ熱あるね。あとでおかゆ作ってきてあげる」
「……あんまり食欲ない」
「なくても食べなきゃだめ。元気になるならまず体力をつけないと」
いいわね、と念を押され、おとなしく頷く。
小学四年生にもなれば、男子も女子もそれなりにお互いに興味を持つ年頃になる。クラスでも誰々は誰々が好きとかあいつらはやけに仲が良いとかそんな話が増えた。しかし、俺にとって彼女はそんな次元を超越していた。彼女は先生よりも両親よりも信頼するべき存在で、クラスの奴らが言うような安っぽい感情ではなかった。
俺には彼女しか居ない。それは昔も今も、そしてこれからも。それは最早摂理となっていた。
ああ。今すぐ大人になれれば、結婚の約束も果たせるのに。
「……めーちゃん」
「なぁに」
「おれ、ね。めーちゃんのこと、好きだよ」
「私もカイトのこと好きよ」
彼女は笑う。昔と同じ笑顔で。
嬉しいはずの返事なのに、その時、何故かちくんと胸が痛んだ。



 **



初めてカイトと大喧嘩をしたのは中学二年生の冬のこと。バレンタインを目前に控えた日曜日だった。

その時私はキッチンでクッキーを作っていた。
上手に出来てあとはラッピングをするだけ。学校帰りのカイトが裏口から顔を覗かせたのは、そんな時だ。
「めーちゃん、美味しそうな匂い」
「あらカイト、お帰り」
カイトは六年生になってからいきなり身長が高くなり、ランドセルが窮屈そうだった。声変わりも終えてすっかり男っぽくなって、気を抜くと違う人みたいに見えたけれど、中身はまだまだ可愛い弟のままだった。
「今年はクッキー?」
「そう」
「あれ、随分いっぱい作ったんだね」
「ふふ」
珍しそうに手元を覗き込むカイトに得意げに笑う。毎年バレンタインは父親とカイトの分しか作っていなかったけれど、その年は特別だった。女友達と交換する用のものと、陸上部で憧れていた先輩に渡す用のもの。生まれて初めて、好きな人に告白をする予定だった。
そうありのままを告げると、カイトの表情が曇る。ふぅん、と面白くなさそうに呟いて、そして。

それは一瞬の出来事だった。
何を思ったのか、カイトは机に並べていたクッキーを掴んで、思いっきり床に叩き付けたのだ。
「……ちょっと!なにすんのよ!」
無惨にも割れてしまったクッキーを掻き集める。無事な物は一つもない。せっかく、せっかく綺麗に出来ていたのに。
「信じられない!何考えてるの!」
「……」
「っ……カイトのばか!大っきらい!」
去ってゆくランドセルの背中に、ありったけの怒りを込めて叫ぶ。一瞬だけ背中が竦んだように見えたけれど、結局何も言わずにカイトは出ていった。

結局、告白は出来なかった。
クッキーもなかったし、告白する間もなく他の女の子と楽しそうに下校する先輩の姿を見てしまったから。
泣きながら帰ってきた私を迎えたのは、ベッドの上にちょこんと置かれた包み。中を開けると、一目で手作りだと分かる不格好なクッキーがぎゅうぎゅうに詰まっていた。
『ごめんね』
添えられた手紙は、見慣れた筆跡。緊張すると右肩上がりになるのは昔からだ。
向かいの窓には、カーテンの向こうに小さな人影が夕日に照らされてくっきりと映り込んでいる。カイト、と呼びかけると、カーテンの隙間からばつが悪そうにカイトが顔を出した。
「……こんなにたくさん、食べられない」
「……」
「……だから、一緒に食べて」
「……うん」
カイトの作ってくれたクッキーは堅くてパサパサしていて、なぜだかしょっぱかった。
けれど、私たちは何も言わず、残さずに食べた。



 *



「ど、どうだった?」
高校の校門で俺を待っていた彼女の声は震えていた。どう見ても彼女の方が俺よりも緊張していて、つい笑ってしまう。
「ち、ちょっと!笑ってる場合じゃないでしょ!」
「ごめん、だってめーちゃん、顔真剣すぎ」
「当たり前じゃない、心配してるんだから!」
「大丈夫、ちゃんと受かってたよ」
たった一年間でも、これからまた彼女と同じ校舎に通えるのだと思うと、小躍りしてしまいそうなくらい嬉しかったけれど、顔には出さないようにした。自分の気持ちを隠さずに行動して、彼女に「大っきらい」と告げられるのは二度とごめんだ。死ぬより辛い。
「ほんと?」
「嘘ついてどうするの」
「ほんとにほんと?見間違いじゃない?」
「……縁起悪いこと言うね」
苦笑して、彼女の手を掴む。
人波でごった返す掲示板の前へ戻り、俺の受験番号を彼女に確認させると、ようやく実感出来たらしい彼女が、へなへなと膝をついた。
「ちょ、ちょっとめーちゃん、危な……」
「……ったぁ……」
「え?」
「良かったぁ……これでまた同じ学校に通えるんだね」
ふにゃ、と無防備な笑顔を向けられて、赤面するのを堪えた。まったくこの人は、なんでこう可愛いんだ。
「……ほら、危ないから立って。しっかりしてくださいよ、先輩」
「……えへ」
「えへ?」
「……安心したら力抜けちゃって、立てない」
「……」
はぁ、とため息をついて、両手で彼女を引っ張りあげる。その体は軽くて、華奢な指先は俺が力を込めれば折れてしまいそうなくら細い。
うっかりやってきたオスの衝動をなんとか逃して、彼女の手を握ったまま俺は歩きだした。

「部活、もう決めたの?」
「まだ」
「じゃあ陸上部入りなさいよ、陸上部」
「やだよ、俺体力ないもん」
「まぁたそんなこと言って。もやしっ子になっちゃうわよ」
「いいじゃんもやし。栄養満点でしかも安いよ」
「ばかね」
笑いあって、子供みたいに手を繋いで歩く帰り道。
彼女と俺の「すき」の気持ちに隔たりがあることくらい、もうとうに理解していた。俺にとって彼女はたった一人の『好きな人』。でも彼女にとって俺はまだ『弟』のまま。
けれど、それでいい。まだ俺は未熟だから、男として意識させるにはもう少し時間が必要だ。

 もう少し。
 待っててめーちゃん。すぐに追いつく。
 追いついて、あなたを守れるくらい大人な男になるから。



  **

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【カイメイ】メモリーズ

※2011/11/19発行の同人誌『恋』の書き下ろし部分です※
完売して時間も経ったのでweb再録します。

【恋】
現パロカイメイ・隣家幼馴染設定。
同人誌収録は以下(※加筆修正あり)
・『恋色病棟』(http://piapro.jp/t/cHjy
・『in the rain』(http://piapro.jp/t/CtAj)
・『メモリーズ』(これ)
その名の通り、幼馴染カイメイの幼少→今に至るまでの詰め合わせです。

そしてweb掲載のみ『恋扉桜』内『君の熱』(http://piapro.jp/t/cWNr

お買い上げいただいた方、本当にありがとうございました!!


※前のバージョンで進みます

閲覧数:766

投稿日:2013/07/24 23:16:25

文字数:5,672文字

カテゴリ:小説

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