アラビアの夜
骨董屋の女主であるルカは口元に人差し指を立てて静かに語った。
「……ここだけの話よ。このコーヒーカップにはイワクがあって―――」
客は彼女一人、寒風が窓を揺らす中でルカは物騒な話を始めた。
メイコにしてみればこれから話す内容次第で目の前にある年代物のコーヒーカップを買うかどうかを吟味せねばならない。
ましてやイワク付きの一品、怖い話であれば値引きを、そうでもなくてもイワクを理由に値引きを―――何れにせよなるべく安く手に入れるつもりだ。
コーヒーカップは3客分。
ソーサ―付で手書きの青いアネモネの花柄が描かれていた。
可愛らしいデザインだがサイズが大きめで、たっぷりとコーヒーが入れられそうだ。
洗い物を拭きながら、メイコはルカの話を待った。
神妙な眼差しでルカは口を開き、メイコは喉の奥で唾を飲む。
「……だめだ。この話をするのに私はもう少しアルコールが必要ね」
「ちょっと、何をもったいぶっているのよ!」
「だってこのお店、とっても暖かいのよ。喉が乾いちゃって」
外は零下、北国の室内は構造上とても暖かいのだ。
メイコはとりあえず赤い星印のラガービールの栓を抜き、タンブラーに注ぐ。
クリームのような泡が浮かび、ルカはご機嫌だ。
メイコもグラスを差し出すと今度はルカがビールを注ぐ。
「では、アラビアと素敵な夜に乾杯」
イワクの話はどこへやら。
二人は数本の赤い星印を喉の奥に流し込み、そして世間話と身の上話を肴にした。
外は零下、しかし暖房の効いた室内はブラウス一枚でも心地よい温度。
結露した窓の外は砂丘に吹く黄砂のような雪。
夜の街は白い砂丘、見方によればアラブのアラビア砂漠にも思えた。
暖かな室内とビールは二人の瞼をゆっくりと閉じさせてゆく。
そうして心地よい微睡みから睡眠まではさほどの時間も必要ではなかった。
「・・・オーナー? ちゃんと聞いていますか?」
メイコはその聞き覚えがある声に驚き、目が覚める。
そこは見覚えのある自分の店。少しばかり飾り物やインテリアが変わっているが、間違いなく自分の店であるカフェだ。
眼前にいるのは黄色い髪をポニーテールにした女性がまじまじと見つめる。
誰なのか戸惑ったがメイコはすぐに名を唱える事ができた。
「リ・・・リンちゃん?」
お小遣いが出るたびに来ていた中学生の少女のリン―――が大人になった姿だとわかるのだが、さてそれは何故一体?
「もう、身重なんだからお店の事は全部私に任せて下さいって何度も―――」
身重? という言葉でメイコは自分のお腹を見た。
明らかにお腹だけが大きく張り出している。
固く、しかし温かみのある、生命を宿している自分のお腹に、メイコは少し焦り赤面した。このお腹の膨らみ方から出産はもう間近ではと思われる。
「顔、赤いですね。寒いですよね」
大人っぽくなったリンはメイコの肩にブランケットを優しく掛けた。
すっかり綺麗になったリンに、メイコは少し目を潤ませた。
「・・・もう。オーナーはお店の事、心配しないで大丈夫。私に任せてください」
メイコは動揺を隠しながらとりあえずウンウンと頷く。
「もう少ししたら旦那さんが迎えに来ますよ」
旦那様!? はて、それは誰なのか? メイコはリンに尋ねようと思うものの強い眠気が訪れる。
「メイコさん、少し休んでてください」
その言葉は今のメイコにとってとても心地よかった。
「―――メイコさん。旦那さんが今来ましたよ―――」
ドアが開く音が聞こえたと同時に、メイコは眠りに落ちてしまった。
誰かが電話越しに話している。
メイコは覚め切らない虚ろの意識のまま瞼を開けた。
そこは薄暗いバーのようだ。カウンターに突っ伏してメイコは眠ってしまったようである。
電話の主は、背の高い黄色い髪を後ろで結んだ青年。
「あ、メイコさんが今目覚めましたよ。ええ、わかりました伝えておきます」
青年は黒いベストに蝶ネクタイ、そして腰にはサロンを巻いていた。
電話を切った青年は振り向き、ため息一つすると彼女に言った。
「とにかくごめん! 今、迎えにゆくから! ―――と、旦那さんが言ってましたよ」
なんの事だか分からないが、メイコは頷いた。
先程とは違いメイコのお腹は先程のように出ていない。
辺りを見回すと見覚えのあるバーの様である。
昔は何度も通い、自分の店が出来てからは忙しく足が遠のいていた。
その場所の空気感が久しぶりなのと、少しの懐かしさに胸が締め付けられそうになる。
目の前にいるその青年も、メイコには心当たりがあった。
リンの彼氏であるレンだ。
声も背丈も自分の知っているレンとは違い、すっかり大人である。
その佇まいから立派なバーマンの様である。
「・・・あのねメイコさん。俺の店に来てくれるのは嬉しいけどさ、旦那さんにあまり心配かけてはいけませんよ」
年下の子に諭されるとは、私は一体何をしでかしたんだろう?
メイコはバツが悪い表情を浮かべた。
「お子さんだって大きくなったんだし、家を空けても大丈夫だからってお酒の飲み過ぎはよくありません。そもそも―――」
何か私に言い聞かせようとしているようだが、それが何故か微笑ましかった。
同時にまだ中学生だった彼の姿を思い浮かべ、すこし寂しい気持ちも湧き上がる。
カウンターには飲みかけのジントニック。
苦く、そして甘いカクテルだ。
何か訪ねたかったが、今はレンの声に耳を傾けるのが心地よかった。
そして再び心地よい微睡が訪れる。
ドアが開き、メイコの元に進む足音が近づくのだが、彼女はまた眠りの世界に誘われた。
次に目が覚めた時、メイコはその寒さにまず驚いた。
だが―――覚えのある冷たさだ。
とある雪国の―――
とある街の―――
夜の道だった。
横風の強い吹雪のなか、メイコと一人の男性が手を繋ぎ、ゆくっリと歩みを進めていた。
お互いに帽子とマフラー、コートを纏い、雪はアラビアの砂漠を旅する遊牧民に見える。
言葉は無かった。
何か言っても吹雪が声を後ろに連れ去ってしまうのだから。
だが、手を握る強い力がメイコを往くべき所に連れて行ってくれると確信した。
そこはきっと、暖かいカフェだ。
愛しく、近しく、そんな人達を待っている場所。
マフラーと帽子の間からわずかに見える瞳は優しく、きっとメイコにとって大事な存在。
白い夜、砂塵の如き吹雪は容赦なく二人を襲う。
でも歩みを止めない。
彼女は店を始める時に―――固く誓ったのだ。
吹雪の日も、静かな日も、笑顔で店を開けるのだと。
カフェに着いたら、暖かいコーヒーを淹れよう。
そうメイコは考えた。
そして仲間と、手を強く握る彼と一緒に、並んで飲むのだと。
眠りから覚めると、そこはメイコのカフェだった。
カウンターにはうたた寝をするルカの姿。
概ね幸せそうだが、たまに苦虫を潰したような表情を浮かべていた。
どんな夢を見ているのだろうか?
ルカが目覚め、複雑そうな表情とともにアラビアのコーヒーカップをまじまじと眺めていた。
「何か夢―――見た?」
ルカの問にメイコは「さて?」と、少しとぼけた。
メイコは尋ねる。
「そういえば何かイワクがあるって言ってたよね」
「ああ、そうそう! 実はこれ、悲運の恋人が儚い思いを―――」
ルカの言うイワクは実にありがちなものだったが、最後の部分だけは腑に落ちた。
「―――それで、そのコーヒーカップが満たされた時に幸せになれるって話だよ」
とのことだった。
実際にカップを満たした訳では無いが、少なくともちょっとした夢を見てメイコの心は満たされたかもしれない。
暖かい店内は気温差で窓を結露させていた。
行儀の悪い欠伸をしながらルカが言う。
「うん、眠気覚ましにコーヒー淹れて。せっかくだからこのコーヒーカップで」
メイコは頷き、湯を沸かす間にアラビアのカップを洗う。
コーヒー豆を挽き、ケトルからドリッパーにゆっくりと湯を落とす。
メイコは少し予感していた。
これから誰かが来るんじゃないかと。
3客のコーヒーカップにコーヒーを注いだ。
ルカが戸惑いながら言う。
「ちょっと! 私は二杯も要らないわ」
「あはは、これはね―――」
曇った窓からはハッキリ見えないが、誰かが来たようだ。
ドアの向こうで肩に乗っている雪を払う仕草が見受けられる。
ドアが開いた時、メイコがいつもの笑顔で言う。
「いらっしゃい。暖かいコーヒーをどうぞ!」
―おわり―
メイコちゃんカフェ 『アラビアの夜』
冬になったら書けちゃう作品
久しぶりのシリーズ、メイコちゃんカフェの新作です。
最終回っぽい感じになりましたが、まだまだ続けるつもりです。
今回は北欧のコーヒーカップ「アラビア 青いアネモネ柄」をテーマに。
メイコちゃんがちょっとっだけ不思議な体験をしちゃいます。
青いアネモネの花言葉―――「固い誓い」
ぜひぜひお立ち寄りを(*^^)
これまでのメイコちゃんカフェシリーズ。
メイコちゃんカフェ『雪ウサギ』
https://piapro.jp/t/QhRR
メイコちゃんカフェ『ベルサを持った悪魔』
https://piapro.jp/t/nXP0
メイコちゃんカフェ 『優しい苦さ』
https://piapro.jp/t/tMnR
悠樹さんによるスピンオフ作品
こちらも是非お読みください。
メイコちゃんカフェ・別館『カイトくんバー』
https://piapro.jp/t/dpsU
メイコちゃんカフェ・別館『カイトくんバー』②
https://piapro.jp/t/nGcu
ややこしいですが、外伝を書いて下さった悠樹さんに影響を頂だき
書いてみたくなった作品です。
カイトくんバー 番外編の番外編『粉雪と氷』
https://piapro.jp/t/qv4C
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ご意見・ご感想
あみっこ
ご意見・ご感想
投稿して下さってありがとうございます!
最後までにこにこと読めました。
かんぴょさんの物語はかんぴょさんの素敵な人生の経験が多く反映されているような気がしてほっこりとします。
キャラ一人一人を大切にあつかっており読んでいて優しい気持ちになります。
あとは砂漠の黄砂と雪が似ているというたとえが素敵だなと思いました~。
2024/01/30 18:26:53
kanpyo
読んでいただきありがとうございます。
キャラ設定は私なりのボカロさんたちのイメージが反映しておりますが、ルカ姉さんはちょっとだけお騒がせキャラとして物語を動かしてもらっています。
そろそろミクさんを登場させたいのですが、さてさてどんなキャラになるのか自分でも楽しみです。
砂漠を冬の風景に似せた表現は私も我ながら良い思いつきだったなと。
それもきっと「アラビア」のおかげであります。
次回作も読んでくださいね!
2024/01/31 02:09:37