十音(とおん)は俺の知らない世界を知っていた。
日向ぼっこのできる河原、星の見える丘、そのまま飲める小川。そこは勉強とゲームばかりの日々を送る俺にとっては未知の世界だった。
彼女と出会って一カ月、毎日違う場所へ探検へ繰り出した。相変わらず小心者の俺は授業をサボることはできなかったけれど、捻出した時間は全て十音と共に過ごした。
そんなある日の夜、初めて彼女のねぐらに案内された。そこは長らく売地になっている土地の隅。伸びきった雑草の奥にある、廃材を組み合わせただけのあばら家だった。
「どうして家出を?」
彼女と出会ったあの夜から一カ月。毎晩俺が持ってくるヤキソバパンを頬張る十音は無駄に長い咀嚼をしてから、
「嫌だったから」
淡白な返事。それでも、以前よりは感情が籠もっている。体重が正常に戻っていく中で、彼女の心も徐々に癒えつつあった。
「平凡な日常が?」
自分のことを棚に上げて尋ねる。
「それもあるけど。両親のこととか」
無言で先を促すが、彼女はそれ以上を語らなかった。だから、俺も踏み込まなかった。
それは彼女が俺の家に泊まらないことや、俺が彼女のあばら家へ入り込まないのと同じ。そして、互いの体へ触れないことと同じ。これが俺たちの距離感。
「家に帰らないのか?」
本当は家出なんてしたくないはずだ。あの夜、あんな酷い目に遭ったのだから。そして何より、俺の脳裏から離れないあの一言。
『おひさまみたい』
俺の背中をそう喩えた。たぶん、それが彼女の望むもの。
「家なんてない。帰る場所があるとすれば、そこは監獄」
「だからって、ホームレスはないだろ。また危ない目に遭う」
「いいの。私を必要としてくれる人がいるから。生きてるって実感する」
手首から流れる血も、見知らぬ男性の偽りの睦言も、薬で得られる禁断の快楽も、暴力的な交合も。彼女にとっては生を実感するための行為。
俺がもっと楽しいことを教えてあげられれば。でも、勇気がなくて。偽善的な言葉を並べ立てることしかできない。
「逆に初は、今の生活に満足?」
俺は返答に窮した。胃の奥底にこびりついたかのような閉塞感は、紛れもなく非日常を欲していた。偽善の優等生を演じるのは窮屈で退屈だ。
「十音は現状に満足してるんだな?」
彼女は答えなかった。
つまらない日常から抜け出して苦しむ十音。
つまらない日常から抜け出せず苦しむ俺。
結局、幸せなんてこの世のどこにもないのかもしれない。気の持ちようで、在るように思い込むしか方法がないのだとしたら、人は、俺は、何のために生きているんだろう。
十音が浴びた数々の汚い欲望は、鬱屈した感情の迸り。所詮、そいつらもまた腹の底に俺と同じものを抱えてる。性格は違えど、根底は一緒だ。
「じゃあ、どうすればいいのよ……」
吐き捨てられたセリフ。それは俺も知りたい。みんな知りたい。
その難問を解くために、誰もが必死に生きてる。でも、大人未満の俺たちにはハードルが高すぎて。
でも、本当は気付いている。
俺たちはそのハードルを越えようとする意志がないことに。俺も十音も、現実から逃避しているだけ。
前に歩き出すきっかけは、ほんの小さなことでいいのかもしれない。たとえゴールへたどり着けなくても、足掻いて足掻いて、光差す場所を目指すその道中は、痛みや苦しみを忘れて夢中になれるはず。その最初の一歩さえ踏み出せれば。
今はまだ、それを見つけられないでいる。
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