第二章 ルーシア遠征 パート12
案外、抵抗が少ない。
ミルドガルド帝国軍には到底追いつけない速度で撤退してゆく竜騎士団の姿を見つめながら、アクはそのように考えて諦めたように愛用の長剣を鞘へと戻した。しかも、撤退する方角がおかしい。本来ならばルーシア王都へと撤退し、篭城作戦を展開することが定石ではないか。それにも関わらず、敵兵は王都をさも見捨てるかのように西へと向けて撤退を行った。奴らは王都を放棄するつもりなのだろうか。そう考えて、アクはありえない、という様子で首を横に振った。王都はその国家の象徴である。その王都を失っては、国家として存続できない。だからこそこれまでの戦争を決着付けるために王都での決戦が必要であり、王都の防衛に当たる軍は徹底抗戦か或いは降伏かの二者択一を迫られることになるのだ。どのような状況であれ、私たちが王都ルーシアを占拠すればこの戦争は終わる。どのような形であれ、だ。
アクはそう考えて、未だ戦の興奮冷めやらぬセキトの首筋を優しく撫でた。その手つきに安堵した様子でセキトは嘶く。そのセキトに向かってアクもまた力を抜いたような笑顔を見せると、馬首を返しカイトの元へと戻る事にしたのである。帝国軍の中でも最前線に飛び出していたアクが歩み始めると、セキトと同じように興奮した様子で勝利を喜ぶ帝国兵の歓声がアクの周りを包み込んだ。誰もが返り血と騎馬によって巻き上げられた泥を浴びて、全身が赤黒く染まっている。その兵士たちに片手を上げて応じながら、アクは懐に忍ばせておいたハンカチで丁寧に自身の顔を拭い始めた。暫くすると顔に付着していた血の香りが消え、幾分かさっぱりとした気分を味わう。初夏の風が心地よくアクの表情を撫で付けた。その風を楽しむようにアクは深く呼吸をすると、安堵した様子で大きな吐息を吐き出した。これで、ルーシア王国の占領は間違いのないものになった。あと少し。あと少しで戦争が終わる。ミルドガルド帝都に戻れる。
そう考えながらアクはカイトが待つ本陣へと帰還した。既に帝国軍はネール河の東側へ全部隊の渡河を終え、戦の事後処理が開始されている。時刻はまだ昼前であった。一時的に兵を休めた後に、すぐに王都ルーシアへの進撃を開始する心積もりではないか、とアクは考えながら、将校の案内に沿って用意されたカイト皇帝の営舎へとその身体を移した。そこでアクを待っていたカイトは、アクの姿を見ると久方ぶりに楽しげな笑顔を見せながら、こう言った。
「ご苦労だった、アク。」
カイトもまた、戦の終結を喜んでいる。アクはそう感じて同じように柔らかな笑顔を見せた。そのアクに優しく頷きながら、カイトは言葉を続ける。
「敵は西へと撤退した模様だ。」
「私もその姿は見た。」
カイトが勧めるままに、座り心地が必ずしも良いとは言えない木造の簡素な床几に腰かけながら、アクはカイトに向かってそう答えた。それに対して、カイトは何事もない様子でこう答える。
「おそらく王都の防衛を諦めたのだろう。戦争はすぐに決着が付く。残されている兵士はごく僅かのはずだ。」
それならそれで構わない。散発的な反撃はあるかも知れないが、対した被害も無く王都ルーシアを占拠することが出来るだろう。仮に今逃げた竜騎士団が王都の部隊と挟撃を駆けたとしても、寡兵であることにはなんら変わりは無い。この戦いで竜騎士団は五千以上の損害を発生させているだろうから、仮に挟撃されたとしても帝国軍の全軍にかかれば余裕を持った対処が可能であった。
「王都への侵攻はいつ?」
アクはゆったりとした心持を味わいながら、カイトに向かってそう訊ねた。その言葉にカイトは一つ頷くと、アクに向かってこう答える。
「食事が終わり次第だ。夕暮れまでには王都を包囲する。」
それならばそれでいい、とアクは考えた。もう軍の主力である竜騎士団は存在していないのだから、素直に降伏してもらえれば一番いい。余計な殺傷を好むところではない、とアクは考えて、自身の心理に驚くように何度か瞳を瞬きさせた。
「どうした、アク?」
そのアクの様子を眺めていたカイトは何かを面白がるようにそう訊ねた。
「なんでもない。」
アクは短くカイトにそう答えると、変わったな、と考えた。自分自身のことである。自身はかつて、人の命などなんとも思っていなかったのではなかったか。そう、自分自身の命を含めて、人の命に対する価値を見出すことができなかった。それなのに今。自身の命の重みを理解したせいかも知れない。自身が強く生きたいと願っている為かも知れない。だから、人の命も極力奪いたくない。アクはそう考えて、先程までの戦闘行為をありありと思い浮かべ始めた。あの状況、殺さなければ殺されるという極限状況においてはそのようなことを思考する余裕など存在しない。だが、こうしてひとたび戦から離れてみれば、軍人とは思えない程度に命という不確かな存在を温かく受け入れている自分という存在がいる。それはとても奇妙なことのように思えた。だが、同時にとても甘美なものであるとも、アクは感じたのである。
早く、この戦が終われば良い。
カイトとの久しぶりに落ち着いた、のんびりとした雑談を楽しみながらアクは、もう何度目か分からぬくらいに、戦争の終結を強く想ったのであった。
この段階でルーシア王国との戦争がほぼ終結したと考えていた人物は決してアクとカイトだけに限らない。その時点で、ミルドガルド帝国軍のほぼ全員が、これで長かった遠征が終わると心の底から考え、安堵していたのである。その為か、ネール河からの進軍は今までとは比べ物にならないほどに順調に進むことになった。それぞれの足取りはまるでステップを踏むかのように軽く、まるでハイキングに出かけたかのようなのんびりとした雰囲気が帝国軍を包んでいた。後一度。後一度、王都に立て篭もる敵さえ打ち破ればミルドガルドに帰れる。そう考えていた帝国軍が戸惑いと落胆に襲われることになったのは、午後三時を越えたころであった。その異常事態にミルドガルド帝国軍で初めて気が付いたのはミルドガルドを進発してより常に先陣を務めていたホルス大将である。王都ルーシアは草原の中に建設された、通商路の通過点として古来より存在した宿場町が拡大した都である。その城壁は古くから幾度もの補修を重ねた強固なものであった。全体として正方形を成し、王都ルーシアを街ごと全て包み込むように建設されたその城壁の高さは軽く見積もっても十メートル以上の高度を誇っており、攻略の難しい名城としてルーシア草原の真中に存在していたのである。しかし、その自慢の城壁が全くの無駄になってしまう措置がそこには取られていた。何しろ、全ての城門が、まるで平時であるかのように解放されていたのだから。当初、ホルスは何かの罠かと推測を立てた。その考えは兵を率いる将軍として当然の思考回路ではあったものの、どうしてそのような罠を張るのか、その理由が全く理解できない。先程ルーシア王国軍の主力である竜騎士団は全て西方に逃亡しており、この王都を守る兵は近衛兵程度の戦力であると推測が成されていた。その近衛兵たちが最後の抵抗とばかりにルーシア市街に張り巡らせた罠で最後の決戦を挑もうとしているのだろうか。或いは、ミルドガルド帝国への恭順を示すために城門が解放されているのか。いや、後者であるならば王家一族による出迎えがあってもおかしくは無い。少なくとも、官吏による降伏文書の提案があるはずだ。だが、その場所に、ホルスの視界に映る限りでは人の姿は一切確認できない。
進むべきか、それとも止まるべきか。ホルスはその二者択一を迫られ、そして自身の判断を超えるレベルであるという結論を下した。次にホルスは、軍をその場で留めると、カイト皇帝へと向けて報告の書簡を大急ぎで作成したのである。
その書簡がカイト皇帝の元にもたらされたのはそれから一時間程度が経過した頃であった。時刻は午後四時を少し回った頃である。その報告に対してカイト皇帝もまた理解できぬ、という様子で眉をひそめた。どうするか、とカイト皇帝は暫くの間熟考した後に、ホルス大将に向けてこのような返答を行った。
『慎重に、城内を捜索せよ。』
その返答をホルス大将が受け取ったのは午後五時前。北方に位置している上に夏場であるため、日が沈む時刻は午後九時ごろと遅い。日没までの時間が十分に用意されていると判断したホルス大将は部隊を十人一組の小部隊に分けると、城内への索敵へと当たらせた。その索敵には第六軍だけではなく、第六軍に僅かに遅れて到達した第五軍と第三軍も加わって総勢三万名にも及ぶ人員がルーシア市街の索敵に当たることになった。その索敵範囲は市街の民家から、ルーシア市の最奥、北部に位置している宮殿にまで及ぶことになった。その場所に、罠らしい罠は発見できなかった。だが同時に、必死の捜索にも関わらず、ミルドガルド帝国軍は軍人どころか、民間人も含めて一人の人間をも発見することが叶わなかったのである。
王都ルーシアが軍人、民間人を含めて何処かへと逃亡したらしい、という結論を下さざるを得なくなったのはそれから三時間後、日没を目前とした午後八時ごろであった。その報告を受けてカイト皇帝は愕然としながらも、それでも王都の占領を決意し、全軍に王都への入城を指令した。
それ自体が、ルーシア王国が計画した壮大な罠であるとは気付かぬままに。
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