到着した先は一軒の民家だった。まだ森を抜けきらない場所にあるこの民家は何となくだが良家の家と言った印象を受けた。アメリカ育ちの俺でもそう感じるのだから、相当なものである。ここが診療所か何かなのだろうか?
ここに来るまで俺と薫さんはほとんど会話を交わさずに来た。俺自身が痛みを耐えるのに必死だったし、薫さんも男一人に肩を貸すことがそれなりの負担になっていたらしく、とても楽しく会話ができる状態ではなかった。
汗をにじませた薫さんは最後の力を振り絞るようにゆっくりと民家に入っていき玄関のところで俺を腰掛けさせてくれた。
そのまま崩れるように俺の横に寝ころんだ。家の歴史を感じさせるような品のある色をした木の床に仰向けに寝て、右腕で目を覆う彼女の息は少し異常ともとれるほど上がっている。
「だ、大丈夫ですか」
俺の問いに薫さんは右腕を床に下ろし俺の方に顔だけ向けた。そして無理矢理息を整えてから答えた。その姿が俺の心を痛める。
「心配なさらないで下さい。それよりもあなたの手当をしないと」
薫さんはすぅと息を吸い込むと声を張り上げた。
「度会ぃ、けが人連れて帰ったからよろしく」
すると家の奥から駆けてくる音が聞こえた。現れたのは白髪白髭の老人だった。手には黒い医療カバンを持っている。
老人と言ったが、決して老いを感じさせるような雰囲気はない。感じからして元軍医なのかも知れない。浅黒い顔と鋭い眼光が俺にそう思わせた。
家の奥の方へ首を回していた俺と、寝たままの薫さんの前で度会と呼ばれた老人は止まった。
どう考えても俺をにらんでいるようにしか思えない。
「お嬢様、この男がけが人ですか?」
老人の声は低く、思った通りの威圧感を持っていた。
「そうよ。米国軍の捕虜でしたんですって。右足に怪我をしているみたいだから、手当してあげて」
老人はちらと俺の右足に目を移した。そしてフンと鼻をならして言った。
「これくらいどうと言うことはありません」
こいつは鬼か何かか。足の半分くらいまで木が刺さっていた足の怪我が『どうということはない』だと?
俺は見下したような視線を投げつけてくるじいさんをにらみ返した。俺の小さな反抗に対して老人は相手にしてられないと言った短いため息をつき、今度は薫さんの方に向き直った。
「それよりもお嬢様のお体の方が心配です。まったく、少し良くなったからと言って無茶をなされて……早く部屋にお戻り下さい」
どうやらここは薫さんの家らしい。しかしそんなことより、俺は今聞いた思いがけない言葉に驚いた。
「おい、じいさん。薫さんは病気か何かなのか?」
老人は不快感を露わにして答えた。幾重にも重なるしわが心の底にある苛立ちを教えてくれる。
「ここに来て、治療を依頼してきたやつがいきなり『じいさん』とは……つくづく捕虜生活でいい教育をされたらしいな」
「ここには彼女に連れられてきただけだ。俺だって好きであんたに治療してもらいに来た訳じゃない」
「なら、そのままその辺でのたれ死んでいろ」
「そんなことより、質問に答えろ」
「お前には関係ないことだ。さっさと失せろ」
「関係ないことはない。彼女は俺の恩人だ」
「ならば、その恩人のためにも出て行け」
そんな風に売り言葉と買い言葉を投げ合っていると横から鋭い声が飛んできた。
「二人とも黙って!! 度会、何でも良いから早く伊波さんの治療をしなさい。でないと私、ここから動きませんから。伊波さんも私のこと恩人だと思ってくれるのなら、度会の治療を素直に受けて下さい」
薫さんの勢いある言葉に俺と度会医師は気圧され黙った。というか、どこにこんなエネルギーを持っていたのか不思議だ。
俺より先に度会が口を開けた。その声は先ほど俺と口論していた時とは違う落ち着いた声だった。
「分かりました。お嬢様がそうおっしゃるならこの若造の治療は約束しましょう。ですからお嬢様はご自分の部屋で待機下さい」
俺はその言葉に薫さんが反抗するかと思ったが、案外素直に従うようだった。履物を脱いで丁寧に並べると渡会医師の後ろに歩いていき、「手抜いたら承知しませんから」と言って奥へと進んでいった。
それだけ渡会医師が信用できる人だと言うことなのか。
「何惚けた顔をしている。治療するのだからとっととその汚いお手製包帯をとれ」
「分かっているさ」
俺は包帯もどきをゆっくりと取り外しにかかった。その間に渡会医師は水をくみに行ったようだった。外から井戸の水をくむ音が聞こえる。
包帯もどきを取るのはそれなりに骨の折れる作業だった。血が乾いているところをはがすには相当な痛みが伴った。抑えていたものを取ることで、また血が流れる量が増えた気がした。傷を見るのは決して気持ちのいいものではなかった。
「にしても、薫さんは大丈夫なのだろうか」
こんな状況で俺は自身よりも薫さんの方を心配していた。ここに着いた時の薫さんの疲労は異常に見えるくらいだったし、なにより渡会医師の言葉が気になる。
「どうだ、傷の方はほっといて治りそうか?」
せせら笑うような口調で水くみから戻った渡会医師が尋ねてきた。持っている水入れは重そうな焼き物の瓶だった。しかし、それを渡会医師は涼しい顔をして持っている。
「それは素人目には分からないでしょう? 残念ながらあなたを頼るしかないようです」
渡会医師はまたフンと鼻を鳴らして俺の傷を診察しにかかった。まず水を掛け、傷を洗い、消毒液を掛けひとまずの処置をした。その荒々しさはまさに戦場の医師と言った風だった。
「軍医をしていたのですか?」
「あぁ、日清、日露……日独ぐらいまでは参加したな。どれもお前みたいな若造は知らない戦争だろうがな」
年齢もだがアメリカ生まれアメリカ育ちの俺が知るはずがない。ただ、歴史上の出来事としてでしか知らない戦争を体験した人物が目の前にいるというのは、なんだか心を踊らされることだった。確か、日清戦争の頃は俺の祖父も日本にいたはずだ。
そんな風に俺が悠久である時の流れに浸っている間にも治療は続いていたようだった。度会医師は足の傷の見立てを俺に告げた。
「縫う必要があるな。幸い細かい枝が刺さったままと言う訳でもなさそうだな。まぁ、化膿しなければすぐに治るだろう。少し待っておけ。準備するのと先にお嬢様の診察をする」
「薫さんはそんなに重大な病なのか?」
俺の質問に渡会医師は俺をにらむことで答えた。『お前には関係ないことだ』そう言われた気がした。
渡会医師はそのまま何も言わずに家の奥へ消えた。
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