窓から見える景色は代わり映え無く、唯一見える郭の敷地内にある一本の桜の木だけが、春夏秋冬が巡っているのだと私に知らせています。
今は、寒い寒い冬。
桜の木は枝に一枚の葉も残さず、代わりに雪を積もらせて重たそうに頭を下げました。
先日、少しだけ郭の外を歩いたけれど、しんと冷えた空気の中に静かに雪が降り積もり、私が歩いた跡だけがくっきりと残りました。
それはそれは、美しい景色でした。
*
外に出ようと思えば、いつでも出られた。
何故ならば、私は『太夫』。
磨き上げられた美貌を持ち、男たちを騙す上手い言葉を身につけた、優れたる高貴な女。
身請けしたがる金持ちは沢山いる。
しかし、私は外に出る気など無かった。
否、出たくても出られなかったのです。
幼い頃に両親に売られ、物心つく前から、言われるがままに金持ち相手に足を開いてきた。
そうする事でしか、生きていけなかった。
そんな私が、今更外に出てどうなりましょうか?
偽りの美しさ、偽りの言葉、私はそれだけしか持っていない。
他には、何も。
だから、私は死ぬまでここを出られないのです。
「失礼しんす」
ゆっくりと襖を開き、手を添えて優雅にお辞儀。
幾度と無く繰り返し、最早習慣化した動作は、無駄一つない。
顔を上げれば、見慣れた部屋には一本の蝋燭の灯りが揺らめき、客分の顔をぼんやりと浮き出していた。
初めてではない、幾度と無く見慣れた顔に、嗚呼と内心呟く。
内心の同様は微塵にも見せずに、紅がのった唇で弧を描き、髪に刺さった簪を小さく揺らして、私は笑む。
「今宵もお引き立て頂いて、嬉しゅう御座います」
「また、思ってもいない事を」
立ち上がり部屋に入れば、男の顔がはっきりと分かった。
整った顔立ちの中でも一際目立つ、涙に濡れたような蒼い瞳。
彼の名前は、まだ知らない。
別に、知らなくても支障はないのだけれど。
こう、何度も何度も足を運ばれると、呼び名に困る。
そう、彼が私の客分としてきたのは今宵が初めてではない。
初めて相手をした時の事を忘れてしまう程、昔になる。
「思ってもいない事など、とんでも御座いません。今宵もよろしゅう申しんす」
「それも偽りかな?それから、俺の前ではその喋り方を止めてくれとお願いしたはずだけど」
「‥‥我が儘なお方」
既に彼がいた奥の座敷で、私は彼の隣に腰を据え、男に酌をする。
彼は結構な酒豪らしく、椀が空になるのも速い。
そうやって、交わされるのは、互いの探り合い。
「今日は何をなさっていましたの?」
「姫を狙おうと城に忍び込んだ敵の忍を斬ったよ。それ以外はいつも通り。姫に仕え、護衛する」
「そうですか。姫様の護衛のお侍様は、随分と沢山のお財布をお持ちのようで。嗚呼、お暇もかしら?」
「前半は否定しないけど、後半は心外だよ。少ない空き時間に、こうして明子を訪れているのに」
遊女が客分に皮肉を叩くなど、言語道断。
けれど、彼は何故か面白そうにくっくっと笑う。
可笑しいのは、貴方でしょうに。
そんな事よりも。
低い低い、男の艶を持つ声が、鼓膜を震わし脳を侵蝕する。
この男に名前で呼ばれる度に、寒気が走る。
まるで、体の奥、心の底まで暴かれるような気がしてならない。
私が私で、いられなくなる。
傾けた徳利が、最後の一滴を椀へと落とした。
彼は、最後の酒を一気に飲み干した。
「‥‥嗚呼、お酒がなくなってしまいましたね。如何しますか?お琴でも弾きましょうか?お歌でも歌いましょうか?それとも、寝床へ?」
「歌を聴かせて欲しい。それが終わったら、今日は帰るよ」
嗚呼、またですか。
この男、郭に‥‥私の元に通う頻度はそう少なくないのに、一度だって、私を抱いた事はない。
それどころか、触れてすら来ない。
仮にも私は太夫、決して安くはない女。
抱く事を目的としないならば、彼は一体何の目的で私を買う?
‥‥‥分からない。
「抱かない女を買い続けるとは、お侍様は本当にお暇とお金を持て余しているのですね。それとも、本当は男色をお好みでしょうか?」
「いずれ抱くつもりだよ。でも、今は抱かない」
皮肉混じりの冗談は流されて、すっ、大きな左手が、初めて私の頬に触れる。
刀を持つその手は、皮が剥けて肉刺が出来てごつごつしていて、決して綺麗とは言い難い。
しかし、触れられている頬が、熱を帯びているのは何故?
数多の男に抱かれてきた私が今更、触れられたくらいで恥じらうなど、あるはずない。
あるはず、ないのに。
「君を身請けして、心を俺のものにする。抱くのはそれからだ」
「‥‥お生憎様、私は」
「身請けの話を全て断っているらしいね。だから、俺はここに来るんだよ。君の‥‥明子の心を手に入れる為に」
嗚呼、このお方は何を言っている。
遊女の心が誰か一人にのものになるなど、あるはずがないではありませんか。
否、あってはならないのです。
囚われたら最後、私は郭から出たくなってしまう。
外の世界での生き方を、知りもしないのに。
「籠で飼われている鳥が飛べないと、誰が決めたのかな?」
私の脳内を見透かす台詞に、思わず肩が揺れた。
「‥‥え?」
「飛べるかもしれないよね。飛べないと嘆くのは、飛んでみてからだよ」
「‥‥それでも、やはり飛べなかったら?」
「飛べるまで挑戦すればいい。ただ、それだけの事」
「‥‥飛べるように、なるでしょうか」
私の消え入りそうな声をしっかりと拾った彼は、答えの代わりに笑った。
「さあ、歌って」、彼に促されて、私は震える唇を開いた。
泣き出しそうになってしまいたくなるのを、必死に堪えて。
思い返せば、兆しはあった。
蒼い瞳を、綺麗だと思い始めた時。
皮肉を叩く時間を、楽しいと思い始めた時。
その逞しい手に、触れてみたいと思い始めた時。
彼の名前を、知りたいと思い始めた時。
既に、私の心は彼に囚われていたのです。
*
窓から見える景色は代わり映え無く、唯一見える郭の敷地内にある一本の桜の木だけが、春夏秋冬が巡っているのだと私に知らせていました。
今は、とても暖かい春。
桜の木は満開に花を付け、まるで私の門出を祝福してくれているようでした。
本日、郭の門をくぐった私を待っていた『海斗』さんは、緊張している私の手を引いて、桜吹雪が舞い散る中を一緒に歩いてくれました。
それはそれは、愛おしい景色でした。
──END──
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