彼女には忘れられぬものがあった。あるいはそれは忘れてはいけないものだったのかもしれない。否、忘れたくないものだったのだろう。キラキラと輝くそのかけらは、けれど気づけばあっという間に赤く紅く染まって溶け出していた。溶けたかけらは彼女という地面に染み込んで、決して消えない毒となった。

彼女には忘れられぬものがあった。

だから彼女は止まらないのだ。急かされる様に、追い詰められた様に、あるいはすでに切り立った崖から転がり落ちたかのように、止まらないのだ。

忘れられないのだ。だから止まらないのだ。


「初音よ。無事で何よりだ」
謁見の間、そう呼ばれるこの城でも最も絢爛豪華であろう部屋で偉そうに周囲よりも数段高くなっている位置にある玉座に座る白髪白髭の壮年の男が、偉そうにそう言った。
実際に偉いのだ。
頭には数種類の宝石を散りばめた丸い王冠を乗せ、その身には紅いマント、その手には金の丈。そして脇には彼を護るためだけに存在する近衛兵の中でも最も優秀なエリートを控えさせた、半島の南に位置するこの小さくも豊かな国で最も身分の高い男が初音を見下ろしていた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
相変わらずの無表情で初音は返事をした。
今日の初音が身につけているのは肌の露出が少ない薄い青色の長袖のワンピース。そして耳には、普段服飾品にまったくといって興味を示さない初音は面倒だと嫌がったのだが、ハクにそれでも女の子かと怒られて渋々身に着けた控えめな真珠のピアス。
目が痛くなるような部屋で、目が痛くなるような装飾品を身につけた男を見つめ、それでも一ミリとて顔の筋肉を動かさず彼女は静かに跪いていた。
豪奢なシャンデリアが部屋中を照らし、部屋中がそれを嫌になるくらい反射する。ここを訪れた者に王の権力を感じさせ、怯えさせる。無意識のうちに王に敬意を払わざるえなくする。どうしようもなくこの部屋の主のためだけに設計され、この部屋の主の思うままに事が進むよう計算された王のための王の部屋。
そこに初音はいた。
「ハクには感謝せねばなるまい」
初音を暗殺者から護ったのはハクということになっている。暗殺者の去ったあの後、初音はメイコに隠れているように頼み、やってきた城の兵士に恐ろしい暗殺者に襲われたが、専属メイドのハクが何とか追い払ってくれた、と説明した。

その後、崩れ去った壁、穴だらけになった廊下を見た城の兵士たちが密かにハクを片腕で岩をも易々砕く豪腕のメイドと恐れ敬うようになったりするが、それはあくまで余談である。

「お前を失うことはこの国にとってあまりにも痛い損失になるだろうからな」
特に感情のこもった様子もない国王の言葉を聞き、初音はとりとめもない言葉を返す。
王の感情の感じない言葉に、初音もやはり感情の見えない無表情で返すのだった。
それは傍から見るとあまりにも下手な舞台のようにも見えたかもしれない。


「ご苦労様~」
ハクを連れ立ってボロボロになった前の部屋の変わりに新しくあてがわれた部屋へ戻ると、気の抜けた普段彼女たちが聞きなれないほど明るい声がかかった。
「どうも」
若干硬い様子で弱音はそう返した。
その先にいたのはイスの背もたれを前にして座る茶髪で気の強そうな女傭兵だ。
「王様と話してくるなんて、アンタ本当に身分高い子なのね。ひょっとしてお姫様?」
メイコが何処か様子を探るように笑いかけてくる。
「いえ、しがない農家の生まれですが」
そんなメイコの様子もまったく気にすることのない初音が無表情でメイコの予想斜め上、いや斜め下とでも言うべき答えで切り返す。
「え~、そんなわけないでしょ。だって王様と同じ城に住んでて、こんないい部屋に住んでるんだから、そりゃもうかなりの血筋じゃなきゃ……って、あぁ、王子様の妾って可能性もあるんだ。いや、これって言わない方がいいのかな?」
「聞こえてますよ」
メイコの言い様に険を含めた様子でハクが笑顔を浮かべる。
「この城に王子はいません。丁度十三、四歳になる姫がいるだけです」
「え、じゃあまさか王様の」
「メイコさん(一遍殺してやろうか)?」
清楚に笑うハクの背後からどす黒いオーラが流れ出す。後、何故だか聞こえるはずの無いハクの本音まで。流石にまずいと感じて謝ろうとするメイコに初音がイスに座りながら言葉をかける。
「別にかまいません。寧ろ私の立場はそんなものよりもっと酷いと思いますし」
ため息を吐いて初音はそれから十数分の時を費やして、まるで機械のように淀みなく、自身のこの国での立ち位置を説明した。

「ふーん。つまり、元々この国には歌を歌って不思議現象を起こす歌巫女ってのがいて、その中で一番凄いのが歌姫って呼ばれてる奴で、それがアンタなわけだ。だけど、今はその歌姫が歌う鎮魂歌ってのを改造して、アンタ自身が反魂歌っていう兵器を作り出したと。で、それがとっても強力だから戦争状態のこの国では重宝されるからアンタは大切にされてる。ただしあくまで道具として」
話を聞いたメイコは他人事のように――実際他人事である――それまでの話しを簡単にまとめてみせた。
「大体そんなところです」
不機嫌そうなハクを背後に、初音は淡々と首肯した。
「でもさ、なんでわざわざ道具扱いなわけ?別にそこって英雄とかって扱いでもいいわけでしょ?実際国民の間ではそういう話になってるわけだし」
「国民は戦場を知りません。でも兵士たちは見てるんです。あの地獄のような光景を。……誰だって、それがたとえ敵を殺してくれたからといって、年端も行かない小娘が一人であんなことをするなんて知ったら恐がるでしょう?それを見て諸手を叩いて賞賛するのなんてそれこそ戦場で人を殺して殺して殺しまくって感覚のおかしくなった人たちくらいです」
メイコが苦笑する。
「耳に痛いね」
初音はそれには答えずに言葉を続ける。
「だから、道具だ、と言うことにしておくんですよ。あれはこの国の道具だからこの国の言うことしか聞かない、って。かなり強引ですけど、あの惨状をあわせてみれば否が応にも信じたくなるってことでしょうね」
特にその事を気にしている風もない初音にメイコはそれでも言葉をかける。
「で、あんたはそれでいいわけ?もっと言ってやりたい事とか無いわけ?」
「いえ、特には。一応そのおかげで私に対する風当たりも弱くなっていますし。それに、」
そこで、メイコは視界の端で初音の後ろに立つハクの顔が深く傷ついたように歪むのを見た。まるでその後に続く言葉をすでに知っているかのように。
「私はこの国の道具ですから」
その瞬間にメイコが感じたのは何だったのか。それは怒りか、哀れみか、あるいは深い失望か。
自身にすらよくわからない感情とわずかばかりの違和感に苛まれて、それまで返すことのできていた言葉をメイコは返せなくなっていた。
その様子を見た初音はここで一区切りついたと判断したのか、既に表情を取り繕った後のハクの方へと振り向いた。
「ハク、紅茶を三人分、それに何かお菓子も持ってきてください」

ハクが去った後、窓の外から聞こえるコガラのツピーツピーというさえずりに満たされた二人きりの部屋で、そっぽを向いて黙りこくっているメイコに初音が声をかけた。
「これからの事について話したいのですが、いいですか?」
「これから?」
「ええ、あなたに隠れていてもらったのは当然あなたに依頼したい事があったからですから」
そこでメイコはようやく感じていた違和感の正体に気がついた。
先ほど彼女はこの国の道具だと言った。それこそ自嘲も使命感もこもらぬ何の感慨も無い声音で。だが、彼女はメイコのことを国王に話さなかった。あまつさえメイコには誰にも見つからないように隠れている様に頼み、彼女を救ったのはハクだということにした。

道具は持ち主に嘘を吐かない。

「何々、さっきアンタ随分と当たり前の顔でこの国の道具とか言ってなかった?」
先ほどまでの絶句が嘘のようにニヤニヤとメイコはいやらしい表情を浮かべた。
「道具は嘘吐いちゃいけないのよ?」
初音は相変わらずの無表情で先ほどと同じ事を言った。
「私は国の道具です」
そして言葉を続けた。
「だから?勝手にそういうことになってるだけです」
何の感慨も感傷もなく。
メイコはその時になってようやく気づいた。先ほどから彼女のまったく感情の篭らない言葉。それは自身の役割を受け入れ、ただ事実としてそれを見ている故の無感情ではない。ただ単にそこに何一つ感じ入ることがない、彼女にとってまったくもってどうでもいい事柄を口にしているが故の無関心から来るものだったと。
もっともその後に、初音がボソリと、
「まぁ、それだけでもないんですけどね」
そう呟いた言葉は聞き逃してしまったが。
「あ~あ、とんでもないのに捕まっちゃったかなこれは」
言葉とは裏腹に今にも歌いだし、踊りだしそうなメイコはそこでふと気になる疑問を口にした。
「そういえばあのメイドちゃんはやっぱり国側の人間なわけ?随分アンタを慕ってたように見えたけど」
初音はそれを聞くと、泣き笑いのような、息苦しいような安心しているような、複雑な表情で俯き答えた。
「ハクは……できれば巻き込みたくないです。でも多分彼女のことだから……全部わかってるんでしょうね」
それは答になっていない答で、けれど確かに答えだった。
それから二人はこれからのことを話した。そして少しだけ静かな時間が流れた。

そして、

トントンというドアをノックする音が聞こえた。
「初音様、紅茶をお持ちしました」
すぐにハクの声が聞こえて、初音は言葉を返した。
「ありがとうです、ハク」
そしてドアノブが九十度回り、
「初音、なんか兵士っぽいのがこの部屋に大勢集まってくる気配がする」
メイコがポツリとそんなことを言った。
ドアが開く。
内心王以外の人間に呼び捨てにされると言う新鮮な感覚を味わいながらも、すぐに初音はメイコに指示を出した。
「隠れていてください。今メイコさんの顔が割れるのは避けたいです」
言葉を発し終えたと思った時にはメイコの姿はなかった。改めてメイコの異常なまでの能力に感心しつつ、初音は珍しいことにその顔に苦笑を浮かべていた。
「まぁ、予想はしてたんですよね。五分五分位の確立かな、とは思ってたんですよね」
小声で、誰にも聞かれないようにそう呟いた。
振り返ればそこには無数の兵士とその脇に立つハクが視界に入った。
「彼女から、貴女がこの城を、抜け出そうとしている、という報告がありました」
途切れ途切れに、最前線の衛兵がそう言った。
「メイド一人の言葉で城中の衛兵を集めるなんて、大げさすぎやしませんか?」
「我々は、貴女のことを、最優先事項に行動しろと、指示が出ています」
「そんなに恐がることはないですよ。別にここにいる全員を焼き払ったりなんかするわけないじゃないですか」
初音の『焼き払う』と言う言葉にびくりと体を震わせて、それでも衛兵はつっかえつっかえに言葉を続けた。
「つきましては、我々と一緒に来ていただきたい」
「強制連行するならすると言えばいいものを、道具の私に気を使うことなんてないんですから」
涼しい顔で初音はそう言い切り、兵士たちの方へと歩いていった。

終始顔を俯かせて震えていたハクに初音は一言だけ、
「本当、いつまでたっても恐がりなんだから」
親しい友人にでも愚痴を漏らすように、それだけ言って初音は部屋を後にした。
残されたのはただ俯き震えるハクだけだった。





ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

歌姫の鎮魂歌5

きちんと先のことを決めて書いてるつもりなのに、いつも一話書くたびに予想を外れて自分でもよくわからない方向へと話が走って行きます。

■加筆修正しました(若干)

閲覧数:142

投稿日:2010/06/27 11:38:37

文字数:4,754文字

カテゴリ:小説

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