どこまでも続く青い花の丘と、その向こうに広がる水平線。
空と海が青いグラデーションで結ばれている。
「これは……」
「ミクが見たことのない景色だろう?」
そう言って、マスターは笑う。
パーソナルメモリーを検索するまでもなく、研究室の箱入りだった私にとっては初めての光景だ。
風になびくツインテールを押さえながら、オウン・セントラルに接続し、映像を照合する。
「かつての名勝を再構成した地形、ですか」
「そうだよ。AIたちが作り出した機工継承遺産のひとつだ」
「……なるほど」
私は周囲を見回す。
マスターと私しかいない青一色の風景。
まるで世界を一望しているかのように錯覚してしまうほど雄大だった。
「気に入ったかい?」
「はい。とても」
「それは良かった」
マスターはそう言って微笑んだが、少し残念そうな表情にも見えた。
けれど、私にはそれがなぜなのかわからなかった。
「あの、マスター? ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何だい?」
「どうして、わざわざ私をここに連れてきたのですか? 試運転環境ならもっと適切な場所が……」
私の問いに、マスターは少し困った顔をした。
「そういう意味では、そうなんだけどね」
「……何か不都合でもありました?」
「いや、そういうわけじゃ……少し歩こうか」
マスターは、私の手を引いて、渚へと歩き出した。
**
青い花の丘から、幾何学的な道筋の階段を下りていく。
誰もいない砂浜を、メトロノームのように波が洗っていた。
波打ち際に寄っていくと、白いワンピースの裾が濡れそうになり、慌てて後ずさる。
「オートバランサー、問題なさそうだね」
「これぐらいの負荷で転んでいたら、先が思いやられます」
距離をあけて浮遊しているドローンのカメラアイから、一部始終が記録されているはずだ。
オーバーホール後の試運転として、恥ずかしい失敗動画を残したくはない。
「……そんな深い理由はないんだ。ただ、この景色を見てもらいたかったんだよ」
「え?」
帰ってきた答から、マスターの意図が推測できなかった。
マスターはそんな私の様子に、言葉を補ってくれた。
「ミクがどう感じるかはわからないけど、何か歌のヒントになるかもと思ってさ」
……ああ、そうか。そういうことか。
私は問題点を理解した。
「マスター。歌を作り出すオリジナリティは、人の心に宿るものです。
風景を見たからと言って、機械である私が簡単に真似られるものではありませんし……
そこはむしろ、マスターが頑張るべきところでは?」
「あ、そうかもね。あはは……」
笑って誤魔化すマスター。
本当にこの人はAI教育工学の指導技官なんだろうか?
それとも、芸術という非専門分野では素人同然という事なのだろうか?
私の疑問をよそに、マスターは話を続ける。
「でもね、僕は思うんだ。自分の心の中にあるものを形にするのは、結局自分しかいない」
「それはその通りです」
「僕が歌唱データを揃えたとして、どう歌いどう表現するかを決めるのは、ミク、君なんだ」
「……」
「だから、ミクにはいろんな景色を見てほしいんだ」
マスターはそう言って笑う。
私はその論理の飛躍と、マスターの表情の意味を考えてしまう。
「……ありがとうございます、マスター」
「うん」
それから私たちひとりとひとつは、並んで岸壁に座り、移り変わり行く海の色を眺めて過ごした。
寄せては返す波にイメージ連想を同調させて遊びながら。
**
青い花に彩られた丘の中腹に、場にそぐわぬ洋館がぽつりと建っている。
マスターがなぜか「ミュージアム」と呼ぶその洋館に戻る頃には、陽が沈みかけていた。
日課通り、マスターの前でいくつか初音ミク楽曲を検索し、再生する。
アーカイブを新たなイメージと共に関連付けし直すのも、また学習の一環だ。
直近のメモリーを参照するので、予想通り、海に関連した作品が自然と多くなる。
穏やかなバラード調から、激しくビートを刻むダンスミュージックまで。
あえてAIチューニングしない「生の原曲」として歌い、マスターに聴いてもらう。
「当時、百年前の楽曲でも、様々なイメージが『海』と結び付いてるのが分かりますね」
「開放的になれる、あるいは思いを沈める場所のモチーフとか。他にも名曲がたくさんあったはず……」
探しておかないとなあ、と呟いているマスターを見て。
「そういえばマスターには、何か『海』に思い出がありますか?」
プログラムで選択した会話の接ぎ穂として聞いただけだったのだが……マスターの表情に複雑な陰影がおちたように見えた。
一瞬のことで、すぐに元のマスターに戻っていたのだけれど。
「いや、そうだね。ミクと一緒に行った今日の海は楽しかったなあ」
「……マスター、たとえば学生時代などに友人と海に行ったりなどは」
「楽しかったなあ!」
はぐらかされた印象をメモリーに保存したまま、ミュージアムの自室に戻る。
スリープ用にチューニングされた懐かしのコフィンしか置いていない、殺風景な部屋だ。
なんとなく、AR背景環境を海辺に変更してみた。波音も、どこか心地よい。
【マスター……】
外部ログに残らない自閉モードで独り言ちてみる。
【こうやって経験を積んでいけば、いつか……】
【私はマスターの望む「初音ミク」になれるんでしょうか?】
念のためにメモリーから独語部分を消去。
潮騒のように反響する無意識領域に疑問符をノイズとして溶かしてから、「私」は眠りについた。
(つづく)
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